先日、ある芸人のインタビューがネットに掲載されていた。
その中に書かれていたことに感化されて、私もここに一つ、考えたことを記したい。
また出典等々、ご容赦頂きたい。

彼女曰く、デビューして間もないころ、与えられた持ち時間の半分でネタが切れてしまい、その後も仕事で大変な思いをされたと言う。

まったく別の畑の話しかもしれないが、クラシック音楽にも通じる一つの真理が含まれているように思う。
どういうことかお話しする前に、稚拙な例えを述べたい。

もし、あらゆる交通機関の運行ないし運航の時間的要素がアバウトの極みであるならばどうなるか。
「だいたいあと数分後に席が埋まれば出発」
であったり、
「あと数時間以内のどこかで出発」
または
「出発時刻になっていないがたぶんもう搭乗者はいないので離陸」

馬鹿げている。

クラシック音楽に現代音楽というジャンルがある。必ずしも調整がないというのではないが、バロック、古典、あるいはロマン派とは明らかに雰囲気が違う。
ヴィヴァルディやモーツァルトといったコンポーザーたちは、必ず、そう必ず聴取受けする音楽を書かなければならなかった。だいたいのところ、そうであった。
貴族、パトロン、良さがわからない人間の耳をも掴むために。
しかしだからこそわかりやすく、馴染みやすく、美しい旋律に満ちたものが何と多いことか。
その理解しやすい、美しい、ウケなくてはならないというある種の制約が、彼らにそういう音楽を書かせたというのも軽視すべきではない。
彼らの音楽はウケなければならなかった。彼らの生活のために。くどいようだが。

「条件のなかで」
「制約のなかで」
が、後世にも愛されるものを生んだ。

現代社会において、現代音楽はほとんど聞かれず、モーツァルトが愛されているのは何とも滑稽だ。

プロコフィエフやショスタコーヴィチ、バルトークなど、好き嫌いはあろうがやはり天才だと思う。彼らは、楽理以外はほとんど破壊されたような現代音楽の枠組みのなかでも、世界的に愛されたし、愛される作品を生み出すことができたから。

一方で、現代音楽という言葉を理由に訳のわからない雑音を書く輩も呆れるぐらい多い。
彼らに足りないのは、ウケなければならないという意識だ。

芸術家にとって、迎合とは一つの美徳である。