THE LOVEROCK VIOLENT -337ページ目

故・斉藤康之さんに捧ぐ〔続〕

BODY時代のインタビューなどでも何度か語った事だが、洋楽ばかり聴いていたせいで俺はD'ERLANGERを知らなかった。


だがI LOVE YOUのデモテープを聞いて純粋に感動し、この曲を歌いたいという気持ちが膨らみ出す。
ヤスさんからの推しも加わり、全ての流れは一気にBODYへと集中し加速してゆく。


結果としてこれが俺のプロとしてのキャリアをスタートさせるきっかけとなった訳である。


1993年音楽雑誌などで正式に加入の発表があった後、1stアルバムを出す為の曲作り合宿を経てレコーディングに入った。


プロとして初めての作業に戸惑い、つまづいたりしながら、不器用なりに「何くそ!負けてなるものか!」と、歯を食い縛って歌う俺を常にヤスさんはサポートしてくれた。
その時に貰った沢山のアドバイスは、俺の身体中を駆け巡り血となり肉となって“ヴォーカリスト木村直樹”を形成させてくれた様に思うのだ。


そして1994年BODYデビュー。


残念ながらバンド活動自体は長く続ける事が出来なかった。
打ち上げ花火の様にパッと華麗に咲き、そして絢爛豪華に瞬く間に散ったのがBODYというバンドである。


デビューライヴにして最後のライヴとなってしまった日本武道館公演。
その後インタビューでも語ったが、これ以上バンドを継続させる事は自分自身不可能だった。それでもBODYとして日本武道館のステージに立った事は死ぬまで俺の誇りであるだろう。


その後ソニーレコードでソロアーティストとしての道を選択する事になるのだが、当時俺の住んでいた高円寺のアパートにヤスさんは何度も足を運んでくれた。
「直樹、曲書いてるか。」「直樹、煮詰まってるなら一緒に考えようか。」レコード会社のディレクターというより、弟を心配する兄の様であった。


そして様々な方々の助力により、1996年に自分の目標の一つでもあったソロ作品を発表出来た。


ソロをやった事で音楽的にも音楽家としてもかなり勉強になったし自信にも繋がった。
忘れてならないのはBODY解散後、ヤスさんが俺にとにかく曲を書けと急かしたり、協力してくれるプロデューサーを探して引き合わせて、常にアーティスト自身に緊張感を保たせながら[鉄が(は)熱いうちに打て]た事だ。
止まることは許されない音楽業界の中で、ヤスさんは腐ってゆくミュージシャンを知っているからこそ、バンドを失った俺を叱咤激励していたのであろう。


私的な事なのだが、音楽活動とは別に1999年に自分の会社を立ち上げた。
その時に知人達に声をかけてPARTYを催したのだが、勿論ヤスさんには来て貰った。
その後REACTIONのニューアルバムを作りたいと連絡がある2006年まで、ヤスさんと俺の時間は止まる‥。