THE LOVEROCK VIOLENT -333ページ目

故・斉藤康之さんに捧ぐ〔続々〕

「直樹、太ってないか。」七年振りに聞いたヤスさんの第一声はこれである。



「梅ちゃん(REACTIONのドラマー、梅沢康博さん)が元気なうちにREACTIONをもう一度やりたいんだ。」とヤスさんは切り出した。

しかしいつも感じるのだが、皆して梅さんを年寄り扱いし過ぎである。

確かにあの高速ツーバスを踏み倒すには年齢的に厳しい事もあるかもしれないが、そこまでの年齢でもないでしょう。



「過去の曲じゃなく、新曲でアルバムを作る話があるんだ。」



事実、REACTION復活の話がメジャーレーベルで持ち上がっていたのである。



「直樹、REACTIONで歌わないか?」



本当にビックリした。

果たして俺なんかが引き受けて良いものなのか、頭の中が一瞬パニックを起こすほど狼狽えた。



だが俺とヤスさんの関係上、俺が「NO」と言える訳がない。

ヤスさんは確信犯的にちゃんと分かってそこを突いて来たのである。

そしてその当時、音楽シーンから遠ざかっていた俺に対し「お前は何をやっているんだ。何をする為に生まれて来たのだ。」とケツを叩くメッセージが込められていた様に感じている。

この度、こうしてヤスさんとの事を文章として残しておきたいと思ったのはこの部分に尽きる。

結果としてヤスさんは二度ならず三度までも俺に音楽への道を照らした。



「俺で良ければやらせて下さい。」気が付けば俺は再びバンドで歌う事を決断し、そう答えていた。



―1996年、第五期REACTIONが転がり始めた―。



まずはスタジオに入り、過去の曲を合わせてゆく。

高校生の頃、良く歌っていた曲ばかり。

まさか二十年後に自分がREACTIONのメンバーになろうとは想像もつかなかった。

不思議な感覚の中で一回目のリハーサルは終わった。



最初から新曲のアルバムを作る事が決まっていたから、とにかく時間との戦いだった。

少ない時間の中、ヤスさんの持って来た曲を中心にバンドで合わせながらアレンジしていった。



今思えば強引だったかもしれないが、充分とはいえないプリプロの段階でレコーディングに突入してしまった。

不安材料としてあったのは、梅さんが病気の為に服用してる薬の副作用のせいで、安定したドラムを常に叩ける状態ではなかった事だ。



レコーディングでは通常リズム録りから始まるが、バンド全員で一緒に演奏しドラムのパートから録音してゆく。その時点で不安は的中してしまった。

因みに、その時に録音したものがREACTION FINALのDVDに付いている四曲入りCDの音源の元になっている。



レコーディングを全うさせる為に様々な打開策が述べられたが、最終的には梅さんの病気が一年程で完治すると病院から診断されている事から、レコーディングを一時ストップさせて、梅さんの病気が完治してから再始動しようという決断をせざるを得なかった。



全員の古巣であるデンジャークルーの社長室でミーティング中、俺はヤスさんの涙を初めて見た…