Vimeoという動画投稿サイトに投稿された「日本が世界からどう見られているか10分で知ることができるムービー」がネットで話題になっている。このムービーは名古屋在住のアメリカへの留学経験を持つグラフィックデザイナーが作ったもので、世界から見た日本を皮肉たっぷりに紹介している。
ムービーの題名は「JAPAN ~The Strange Country~」。世界から見た日本の面積、人口密度、文化、歴史などを指摘した後、「現在ここでは不思議なことが様々起きている。と日本特有の事象を8つのカテゴリーに分けて説明している。例えばカテゴリー3は日本の食糧事情について。日本を様々な国の食べ物を食べるグルメな国だと評価するが、その残飯の多さを指摘し、飢餓に苦しむ子供の骨をゴミ箱に捨てるポップな映像と共に、「日本のグルメはたいしたものですね」とコメントしている。
この動画に対し、ネッット上では「リズムカルで面白いのに、最後に何ともいえない悲壮感が残る凄いムービー」「皮肉たっぷりだけど違和感ないww」「クォリティ高い。インド人にも見せよう」「みなさんこれ必見です」と評価する声や、映像の素晴らしさは認めた上で「安易な情報の刷り込みでは?」「仰ってる事は、何人かの方もご指摘されているように、偏っているように思います」などの疑問もある。
動画はこちらから
引用
http://news.ameba.jp/weblog/2010/04/62091.html
http://vimeo.com/9873910
つい何日か前、チリで大地震がおきました。
その津波は、地球の裏側にある日本にまで影響しました。
そんなただでさえすごい規模の地震について
新たな驚くことが判明したそうです。
↓↓以下引用↓↓
■チリ大地震で地軸にズレ
2010年2月27日にチリで大地震が発生した。そのすさまじい破壊力によって地球の軸が移動し、1日の長さが短くなった可能性があるとNASAが発表した。
今回の地震マグニチュードは、アメリカ地質調査所(USGS)の発表によると観測史上5番目の規模となる8.8だった。この地震によって地球の自転速度が早まり、1日が”100万分の1.26秒”短縮したという。カリフォルニア州にあるNASAジェット推進研究所の地球物理学者リチャード・グロス氏が最新のコンピューター・モデルで算出した数値である。
なお、2004年12月に発生したマグニチュード9のスマトラ沖地震では、同じモデルで1日が100万分の6.8秒短くなったと確認されたという。
またグロス氏によると、チリ大地震による地球の形状軸のずれはおよそ8センチだという。
形状軸とは、地球の不均一な質量分布でバランスをとる際に、その中心となる仮想線を指す。地球は南北を結ぶ軸を中心に自転しているが、形状軸はその軸から約10メートルずれている。
ウィスコンシン大学ミルウォーキー校の地震学者ケイス・スベルドラップ氏は、片方の手に岩を持ったフィギュア・スケーターがスピンする状態に例え、この偏差を説明している。このときのスケーターの回転軸は身体の中心を貫いているが、形状軸は岩を持つ手の方向にわずかにずれるというわけだ。
チリ大地震によって地球の自転速度が早まったのはなぜなのだろうか。
スベルドラップ氏は今回のNASAの研究には参加していないが、この点についてもフィギュア・スケーターを例にとり、「腕を畳むと回転スピードが早くなるのと同じ仕組みだ」と述べている。
チリ大地震でも地球の質量が一瞬、わずかに自転軸に向かって集まり、自転速度がわずかに上昇した。
今回のチリ大地震は、巨大なナスカプレートが隣接するプレートの下に沈み込んだ際に発生しており、「プレート境界型地震(逆断層型)」に分類される。この「沈み込み」の現象は、地震や火山噴火を引き起こすことがある。
スベルドラップ氏は、「ナスカプレートの岩石層が地球内部へと沈み込んだ結果、身体の中心に腕を引き寄せるフィギュア・スケーターと同じような状態になった」と説明している。
現在の科学では、地球の1日の長さを測る精度はおよそ100万分の20秒が限界である。したがって、100万分の1.26秒はあくまでも推測にすぎず正確な数値ではない。「だが、確かにチリ大地震によって地球の1日は短縮した」とスベルドラップ氏は主張している。ただし、この状態は永遠に続くものではないという。
2010年3月1日には、「1960年のマグニチュード9.5のチリ地震とも関連しており、当時の大地震のひずみが徐々に高まった結果である」とする研究結果も発表されている。
マサチューセッツ州にあるウッズホール海洋研究所の地質学者ジャン・リン氏は、「2004年12月26日にマグニチュード9.0のスマトラ沖地震が発生し、続いて2005年3月28日にスマトラ断層の南端でマグニチュード8.7の地震が発生した。今回の地震も、この一連のパターンによく似ている」とコメントしている。
「唯一違うのは、スマトラ沖地震では断層南部が断裂して3カ月後に次の地震が起きたが、チリでは1960年の地震から断層北部の断裂までに50年という月日を要した点だ」。
リン氏は、「この時間差の理由はよくわからない」としながらも次のように話している。「50年は人間の寿命より短い。時間軸上の相互作用も真剣に考察する必要があるだろう」。
Ker Than for National Geographic News
引用
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100303-00000001-natiogeo-int
その津波は、地球の裏側にある日本にまで影響しました。
そんなただでさえすごい規模の地震について
新たな驚くことが判明したそうです。
↓↓以下引用↓↓
■チリ大地震で地軸にズレ
2010年2月27日にチリで大地震が発生した。そのすさまじい破壊力によって地球の軸が移動し、1日の長さが短くなった可能性があるとNASAが発表した。
今回の地震マグニチュードは、アメリカ地質調査所(USGS)の発表によると観測史上5番目の規模となる8.8だった。この地震によって地球の自転速度が早まり、1日が”100万分の1.26秒”短縮したという。カリフォルニア州にあるNASAジェット推進研究所の地球物理学者リチャード・グロス氏が最新のコンピューター・モデルで算出した数値である。
なお、2004年12月に発生したマグニチュード9のスマトラ沖地震では、同じモデルで1日が100万分の6.8秒短くなったと確認されたという。
またグロス氏によると、チリ大地震による地球の形状軸のずれはおよそ8センチだという。
形状軸とは、地球の不均一な質量分布でバランスをとる際に、その中心となる仮想線を指す。地球は南北を結ぶ軸を中心に自転しているが、形状軸はその軸から約10メートルずれている。
ウィスコンシン大学ミルウォーキー校の地震学者ケイス・スベルドラップ氏は、片方の手に岩を持ったフィギュア・スケーターがスピンする状態に例え、この偏差を説明している。このときのスケーターの回転軸は身体の中心を貫いているが、形状軸は岩を持つ手の方向にわずかにずれるというわけだ。
チリ大地震によって地球の自転速度が早まったのはなぜなのだろうか。
スベルドラップ氏は今回のNASAの研究には参加していないが、この点についてもフィギュア・スケーターを例にとり、「腕を畳むと回転スピードが早くなるのと同じ仕組みだ」と述べている。
チリ大地震でも地球の質量が一瞬、わずかに自転軸に向かって集まり、自転速度がわずかに上昇した。
今回のチリ大地震は、巨大なナスカプレートが隣接するプレートの下に沈み込んだ際に発生しており、「プレート境界型地震(逆断層型)」に分類される。この「沈み込み」の現象は、地震や火山噴火を引き起こすことがある。
スベルドラップ氏は、「ナスカプレートの岩石層が地球内部へと沈み込んだ結果、身体の中心に腕を引き寄せるフィギュア・スケーターと同じような状態になった」と説明している。
現在の科学では、地球の1日の長さを測る精度はおよそ100万分の20秒が限界である。したがって、100万分の1.26秒はあくまでも推測にすぎず正確な数値ではない。「だが、確かにチリ大地震によって地球の1日は短縮した」とスベルドラップ氏は主張している。ただし、この状態は永遠に続くものではないという。
2010年3月1日には、「1960年のマグニチュード9.5のチリ地震とも関連しており、当時の大地震のひずみが徐々に高まった結果である」とする研究結果も発表されている。
マサチューセッツ州にあるウッズホール海洋研究所の地質学者ジャン・リン氏は、「2004年12月26日にマグニチュード9.0のスマトラ沖地震が発生し、続いて2005年3月28日にスマトラ断層の南端でマグニチュード8.7の地震が発生した。今回の地震も、この一連のパターンによく似ている」とコメントしている。
「唯一違うのは、スマトラ沖地震では断層南部が断裂して3カ月後に次の地震が起きたが、チリでは1960年の地震から断層北部の断裂までに50年という月日を要した点だ」。
リン氏は、「この時間差の理由はよくわからない」としながらも次のように話している。「50年は人間の寿命より短い。時間軸上の相互作用も真剣に考察する必要があるだろう」。
Ker Than for National Geographic News
引用
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100303-00000001-natiogeo-int
作:ハンス・ウィルヘルム
「ずーっとずっとだいすきだよ」
エルフィーとぼくは
一緒に大きくなりました。
でも、エルフィーの方が
ずっと早く大きくなったよ。
ぼくは、エルフィーの
あったかいおなかを
いつもまくらにする
のが好きだった。
そして、ぼくらは
一緒に夢を見た。
エルフィーとぼくは
毎日いっしょに遊んだ。
いつしか時がたっていた。
ぼくの背がぐんぐん
伸びる間に、エルフィーは
どんどん太っていった。
エルフィーは年をとって、
寝ていることが多くなり、
散歩を嫌がるようになった。
ぼくはエルフィーに
やわらかい枕をやって
寝る前には必ず
「ずーっと大好きだよ」
って言ってやった。
エルフィーはきっと
わかってくれたよね。
ある朝、目をさますと、
エルフィーが死んでいた。
夜の間に死んだんだ。
ぼくたちはエルフィーを
庭に埋めた。
お父さんもお母さんも
兄も妹も泣いていた。
ぼくも悲しかったけれど、
少し気持ちが楽だった。
だって、毎晩エルフィーに
「ずーっと大好きだよ」って
言ってやったから。
今はとても他の犬を
飼う気にならない。
でも、いつかぼくも
他の犬を飼うだろう。
子ネコや金魚も飼うだろう。
何を飼っても、毎晩
きっと言ってやるんだ。
「ずーっと、ずっと大好きだよ」って。
「ずーっとずっとだいすきだよ」
エルフィーとぼくは
一緒に大きくなりました。
でも、エルフィーの方が
ずっと早く大きくなったよ。
ぼくは、エルフィーの
あったかいおなかを
いつもまくらにする
のが好きだった。
そして、ぼくらは
一緒に夢を見た。
エルフィーとぼくは
毎日いっしょに遊んだ。
いつしか時がたっていた。
ぼくの背がぐんぐん
伸びる間に、エルフィーは
どんどん太っていった。
エルフィーは年をとって、
寝ていることが多くなり、
散歩を嫌がるようになった。
ぼくはエルフィーに
やわらかい枕をやって
寝る前には必ず
「ずーっと大好きだよ」
って言ってやった。
エルフィーはきっと
わかってくれたよね。
ある朝、目をさますと、
エルフィーが死んでいた。
夜の間に死んだんだ。
ぼくたちはエルフィーを
庭に埋めた。
お父さんもお母さんも
兄も妹も泣いていた。
ぼくも悲しかったけれど、
少し気持ちが楽だった。
だって、毎晩エルフィーに
「ずーっと大好きだよ」って
言ってやったから。
今はとても他の犬を
飼う気にならない。
でも、いつかぼくも
他の犬を飼うだろう。
子ネコや金魚も飼うだろう。
何を飼っても、毎晩
きっと言ってやるんだ。
「ずーっと、ずっと大好きだよ」って。
一年のうちで、最も不安が大きい季節がそろそろやってきます。
そんな季節の中で、そろそろ卒業してしまう、小学校6年生、中学3年生、高校3年生や
六年制高校生、短期大学生や四年制大学生、大学院生、また、そのほか今年四月を持って学生の課程を修了する全ての人たちへ送ります。
峠 真壁仁
峠は決定をしているところだ。
峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。
峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
たとえ行く手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見る限りの風景を眼におさめる。
真壁仁・著 詩・峠
より
そんな季節の中で、そろそろ卒業してしまう、小学校6年生、中学3年生、高校3年生や
六年制高校生、短期大学生や四年制大学生、大学院生、また、そのほか今年四月を持って学生の課程を修了する全ての人たちへ送ります。
峠 真壁仁
峠は決定をしているところだ。
峠には訣別のためのあかるい憂愁がながれている。
峠路をのぼりつめたものは
のしかかってくる天碧に身をさらし
やがてそれを背にする。
風景はそこで綴じあっているが
ひとつをうしなうことなしに
別個の風景にはいってゆけない。
大きな喪失にたえてのみ
あたらしい世界がひらける。
峠にたつとき
すぎ来しみちはなつかしく
ひらけくるみちはたのしい。
みちはこたえない。
みちはかぎりなくさそうばかりだ。
峠のうえの空はあこがれのようにあまい。
たとえ行く手がきまっていても
ひとはそこで
ひとつの世界にわかれねばならぬ
そのおもいをうずめるため
たびびとはゆっくり小便をしたり
摘みくさをしたり
たばこをくゆらしたりして
見る限りの風景を眼におさめる。
真壁仁・著 詩・峠
より
わたしは厳寒を冒して、二千余里を隔て二十余年も別れていた故郷に帰って来た。時はもう冬の最中(さなか)で故郷に近づくに従って天気は小闇(おぐら)くなり、身を切るような風が船室に吹き込んでびゅうびゅうと鳴る。苫の隙間から外を見ると、蒼黄いろい空の下にしめやかな荒村(あれむら)があちこちに横たわっていささかの活気もない。わたしはうら悲しき心の動きが抑え切れなくなった。
おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。
わたしの想い出す故郷はまるきり、こんなものではない。わたしの故郷はもっと佳(よ)いところが多いのだ。しかしその佳いところを記すには姿もなく言葉もないので、どうやらまずこんなものだとしておこう。そうしてわたし自身解釈して、故郷はもともとこんなものだと言っておく。――進歩はしないがわたしの感ずるほどうら悲しいものでもなかろう。これはただわたし自身の心境の変化だ。今度の帰省はもともと何のたのしみもないからだ。
わたしどもが永い間身内と一緒に棲んでいた老屋がすでに公売され、家を明け渡す期限が本年一ぱいになっていたから、ぜひとも正月元日前に行(ゆ)かなければならない。それが今度の帰省の全部の目的であった。住み慣れた老屋と永別して、その上また住み慣れた故郷に遠く離れて、今食い繋ぎをしているよそ国に家移りするのである。
わたしは二日目の朝早く我が家の門口に著(つ)いた。屋根瓦のうえに茎ばかりの枯草が風に向って顫(ふる)えているのは、ちょうどこの老屋が主を更(か)えなければならない原因を説明するようである。同じ屋敷内(うち)に住む本家の家族は大概もう移転したあとで、あたりはひっそりしていた。わたしが部屋の外側まで来た時、母は迎えに出て来た。八歳になる甥の宏兒(こうじ)も飛出(とびだ)して来た。
母は非常に喜んだ。何とも言われぬ淋しさを押包みながら、お茶を入れて、話をよそ事に紛らしていた。宏兒は今度初めて逢うので遠くの方へ突立って真正面からわたしを見ていた。
わたしどもはとうとう家移りのことを話した。
「あちらの家も借りることに極(き)めて、家具もあらかた調えましたが、まだ少し足らないものもありますから、ここにある嵩張物(かさばりもの)を売払って向うで買うことにしましょう」
「それがいいよ。わたしもそう思ってね。荷拵(にごしら)えをした時、嵩張物は持運びに不便だから半分ばかり売ってみたがなかなかお銭(あし)にならないよ」
こんな話をしたあとで母は語を継いだ。
「お前さんは久しぶりで来たんだから、本家や親類に暇乞いを済まして、それから出て行くことにしましょう」
「ええそうしましょう」
「あの閏土(じゅんど)がね、家へ来るたんびにお前のことをきいて、ぜひ一度逢いたいと言っているんだよ」と母はにこにこして
「今度到著(とうちゃく)の日取を知らせてやったから、たぶん来るかもしれないよ」
「おお、閏土! ずいぶん昔のことですね」
この時わたしの頭の中に一つの神さびた画面が閃き出した。深藍色(はなだいろ)の大空にかかる月はまんまろの黄金色(こがねいろ)であった。下は海辺の砂地に作られた西瓜(すいか)畑で、果てしもなき碧緑の中に十一二歳の少年がぽつりと一人立っている。項(えり)には銀の輪を掛け、手には鋼鉄の叉棒(さすぼう)を握って一疋(ぴき)の土竜(もぐら)に向って力任せに突き刺すと、土竜は身をひねって彼の跨(また)ぐらを潜(くぐ)って逃げ出す。
この少年が閏土であった。わたしが彼を知ったのは十幾つかの歳であったが、別れて今は三十年にもなる。あの時分は父も在世して家事の都合もよく、わたしは一人の坊ッちゃまであった。その年はちょうど三十何年目に一度廻って来る家(うち)の大祭の年に当り、祭は鄭重を極め、正月中掲げられた影像の前には多くの供え物をなし、祭器の撰択が八釜(やかま)しく行われ、参詣人が雑沓(ざっとう)するので泥棒の用心をしなければならぬ。わたしの家(うち)には忙月(マンユエ)が一人きりだから手廻りかね、祭器の見張番に倅(せがれ)をよびたいと申出たので父はこれを許した。(この村の小作人は三つに分れている。一年契約の者を長年(チャンネン)といい、日雇いの者を短工(トワンコン)という。自分で地面を持ち節期時や刈入時に臨時に人の家に行って仕事をする者を忙月(マンユエ)という)
わたしは閏土が来ると聞いて非常に嬉しく思った。というのはわたしは前から閏土の名前を聞き及んでいるし、年頃もわたしとおつかつだし、閏月(うるうづき)生れで五行の土が欠けているから閏土と名づけたわけも知っていた。彼は仕掛罠で小鳥を取ることが上手だ。
わたしは日々に新年の来るのを待ちかねた。新年が来ると閏土も来るのだ。まもなく年末になり、ある日の事、母はわたしを呼んで
「閏土が来たよ」と告げた。わたしは馳(か)け出して行ってみると、彼は炊事部屋にいた。紫色の丸顔! 頭に小さな漉羅紗帽(すきらしゃぼう)をかぶり、項にキラキラした銀の頸輪(くびわ)を掛け、――これを見ても彼の父親がいかに彼を愛しているかが解る。彼の死去を恐れて神仏に願を掛け、頸に輪を掛け、彼を庇護しているのである――人を見て大層はにかんだが、わたしに対して特別だった。誰もいない時に好く話をして、半日経たぬうちに我々はすっかり仲よしになった。
われわれはその時、何か知らんいろんな事を話したが、ただ覚えているのは、閏土が非常にハシャいで、まだ見たことのないいろいろの物を街へ来て初めて見たとの話だった。
次の日わたしは彼に鳥をつかまえてくれと頼んだ。
「それは出来ません。大雪が降ればいいのですがね。わたしどもの沙地(すなぢ)の上に雪が降ると、わたしは雪を掻き出して小さな一つの空地を作り、短い棒で大きな箕(み)を支え、小米を撒きちらしておきます。小鳥が食いに来た時、わたしは遠くの方で棒の上に縛ってある縄を引くと、小鳥は箕の下へ入ってしまいます。何でも皆ありますよ。稲鶏(いねどり)、角鶏(つのどり)、※鴣(のばと)[#「孛+鳥」、105-11]、藍背(あいせ)……」
そこでわたしは雪の降るのを待ちかねた。閏土はまた左(さ)のような話をした。
「今は寒くていけませんが、夏になったらわたしの処へ被入(いら)っしゃい。わたしどもは昼間海辺に貝殻取に行きます。赤いのや青いのや、鬼が見て恐れるのや、観音様の手もあります。晩にはお父さんと一緒に西瓜の見張りに行きますから、あなたも被入(いら)っしゃい」
「泥棒の見張をするのかえ」
「いいえ、旅の人が喉が渇いて一つぐらい取って食べても、家(うち)の方では泥棒の数に入れません。見張が要るのは猪(いのしし)、山あらし、土竜の類(るい)です。月明りの下でじっと耳を澄ましているとララと響いて来ます。土竜が瓜を噛んでるんですよ。その時あなたは叉棒を攫(つか)んでそっと行って御覧なさい」
わたしはそのいわゆる土竜というものがどんなものか、その時ちっとも知らなかった。――今でも解らない――ただわけもなく、小犬のような形で非常に猛烈のように感じた。
「彼は咬(か)みついて来るだろうね」
「こちらには叉棒がありますからね。歩いて行って見つけ次第、あなたはそれを刺せばいい。こん畜生は馬鹿に利巧な奴で、あべこべにあなたの方へ馳け出して来て、跨の下から逃げてゆきます。あいつの毛皮は油のように滑(すべ)ッこい」
わたしは今までこれほど多くの珍らしいことが世の中にあろうとは知らなかった。海辺にこんな五色(しき)の貝殻があったり、西瓜にこんな危険性があったり――わたしは今の先(さ)きまで西瓜は水菓子屋の店に売っているものとばかし思っていた。
「わたしどもの沙地の中には大潮の来る前に、たくさん跳ね魚が集(あつま)って来て、ただそれだけが跳ね廻っています。青蛙のように二つの脚があって……」
ああ閏土の胸の中には際限もなく不思議な話が繋がっていた。それはふだんわたしどもの往来(ゆきき)している友達の知らぬことばかりで、彼等は本当に何一つ知らなかった。閏土が海辺にいる時彼等はわたしと同じように、高塀に囲まれた屋敷の上の四角な空ばかり眺めていたのだから。
惜しいかな、正月は過ぎ去り、閏土は彼の郷里に帰ることになった。わたしは大哭(おおな)きに哭いた。閏土もまた泣き出し、台所に隠れて出て行くまいとしたが、遂に彼の父親に引張り出された。
彼はその後父親に託(ことづ)けて貝殻一包(つつみ)と見事な鳥の毛を何本か送って寄越した。わたしの方でも一二度品物を届けてやったこともあるが、それきり顔を見たことが無い。
現在わたしの母が彼のことを持出したので、わたしのあの時の記憶が電(いなずま)の如くよみがえって来て、本当に自分の美しい故郷を見きわめたように覚えた。わたしは声に応じて答えた。
「そりゃ面白い。彼はどんな風です」
「あの人かえ、あの人の景気もあんまりよくないようだよ」
母はそういいながら室(へや)の外を見た。
「おやまた誰か来たよ。木器(もくき)買うと言っては手当り次第に持って行くんだから、わたしがちょっと見て来ましょう」
母が出て行くと門外の方で四五人の女の声がした。わたしは宏兒を側(そば)へ喚(よ)んで彼と話をした。字が書けるか、この家(うち)を出て行きたいと思うか、などということを訊いてみた。
「わたしどもは汽車に乗ってゆくのですか」
「汽車に乗ってゆくんだよ」
「船は?」
「まず船に乗るんだ」
「おや、こんなになったんですかね。お鬚がまあ長くなりましたこと」
一種尖ったおかしな声が突然わめき出した。
わたしは喫驚(びっくり)して頭を上げると、頬骨の尖った唇の薄い、五十前後の女が一人、わたしの眼の前に突立っていた。袴も無しに股引穿(ももひきば)きの両足を踏ん張っている姿は、まるで製図器のコンパスみたいだ。
わたしはぎょっとした。
「解らないかね、わたしはお前を抱いてやったことが幾度もあるよ」
わたしはいよいよ驚いたが、いい塩梅にすぐあとから母が入って来て側(そば)から
「この人は永い間外に出ていたから、みんな忘れてしまったんです。お前、覚えておいでだろうね」
とわたしの方へ向って
「これはすじ向うの楊二嫂(ようにそう)だよ。そら豆腐屋さんの」
おおそう言われると想い出した。わたしの子供の時分、すじ向うの豆腐屋の奥に一日坐り込んでいたのがたしか楊二嫂とか言った。彼女は近処(きんじょ)で評判の「豆腐西施(せいし)」で白粉(おしろい)をコテコテ塗っていたが、頬骨もこんなに高くはなく、唇もこんなに薄くはなく、それにまたいつも坐っていたので、こんな分廻(ぶんまわ)しのような姿勢を見るのはわたしも初めてで、その時分彼女があるためにこの豆腐屋の商売が繁盛するという噂をきいていたが、それも年齢の関係で、わたしは未(いま)だかつて感化を受けたことがないからまるきり覚えていない。ところがコンパス西施はわたしに対してはなはだ不平らしく、たちまち侮りの色を現し、さながらフランス人にしてナポレオンを知らず、亜米利加(アメリカ)人にしてワシントンを知らざるを嘲る如く冷笑した。
「忘れたの? 出世すると眼の位まで高くなるというが、本当だね」
「いえ、決してそんなことはありません、わたし……」
わたしは慌てて立上がった。
「そんなら迅(じん)ちゃん、お前さんに言うがね。お前はお金持になったんだから、引越しだってなかなか御大層だ。こんな我楽多(がらくた)道具なんか要るもんかね。わたしに譲っておくれよ、わたしども貧乏人こそ使い道があるわよ」
「わたしは決して金持ではありません。こんなものでも売ったら何かの足しまえになるかと思って……」
「おやおやお前は結構な道台(おやくめ)さえも捨てたという話じゃないか。それでもお金持じゃないの? お前は今三人のお妾(めかけ)さんがあって、外に出る時には八人舁(かつ)きの大轎(おおかご)に乗って、それでもお金持じゃないの? ホホ何と被仰(おっしゃ)ろうが、私を瞞(だま)すことは出来ないよ」
わたしは話のしようがなくなって口を噤んで立っていると
「全くね、お金があればあるほど塵ッ葉一つ出すのはいやだ。塵ッ葉一つ出さなければますますお金が溜るわけだ」
コンパスはむっとして身を翻し、ぶつぶつ言いながら出て行ったが、なお、行きがけの駄賃に母の手袋を一双、素早く掻っ払ってズボンの腰に捻じ込んで立去った。
そのあとで近処の本家や親戚の人達がわたしを訪ねて来たので、わたしはそれに応酬しながら暇を偸(ぬす)んで行李(こうり)をまとめ、こんなことで三四日も過した。
非常に寒い日の午後、わたしは昼飯を済ましてお茶を飲んでいると、外から人が入って来た。見ると思わず知らず驚いた。この人はほかでもない閏土であった。わたしは一目見てそれと知ったが、それは記憶の上の閏土ではなかった。身の丈けは一倍も伸びて、紫色の丸顔はすでに変じてどんよりと黄ばみ、額には溝のような深皺が出来ていた。目許は彼の父親ソックリで地腫れがしていたが、これはわたしも知っている。海辺地方の百姓は年じゅう汐風に吹かれているので皆が皆こんな風になるのである。彼の頭の上には破れた漉羅紗帽が一つ、身体の上にはごく薄い棉入れが一枚、その著(き)こなしがいかにも見すぼらしく、手に紙包と長煙管(ながぎせる)を持っていたが、その手もわたしの覚えていた赤く丸い、ふっくらしたものではなく、荒っぽくざらざらして松皮(まつかわ)のような裂け目があった。
わたしは非常に亢奮して何と言っていいやら
「あ、閏土さん、よく来てくれた」
とまず口を切って、続いて連珠の如く湧き出す話、角鶏、飛魚、貝殻、土竜……けれど結局何かに弾かれたような工合(ぐあい)になって、ただ頭の中をぐるぐる廻っているだけで口外へ吐き出すことが出来ない。
彼はのそりと立っていた。顔の上には喜びと淋しさを現わし、唇は動かしているが声が出ない。彼の態度は結局敬い奉るのであった。
「旦那様」
と一つハッキリ言った。わたしはぞっとして身顫いが出そうになった。なるほどわたしどもの間にはもはや悲しむべき隔てが出来たのかと思うと、わたしはもう話も出来ない。
彼は頭を後ろに向け
「水生(すいせい)や、旦那様にお辞儀をしなさい」
と背中に躱(かく)れている子供を引出した。これはちょうど三十年前の閏土と同じような者であるが、それよりずっと痩せ黄ばんで頸のまわりに銀の輪がない。
「これは五番目の倅ですが、人様の前に出たことがありませんから、はにかんで困ります」
母は宏兒を連れて二階から下りて来た。大方われわれの話声(はなしごえ)を聞きつけて来たのだろう。閏土は丁寧に頭を低(さ)げて
「大奥様、お手紙を有難く頂戴致しました。わたしは旦那様がお帰りになると聞いて、何しろハアこんな嬉しいことは御座いません」
「まあお前はなぜそんな遠慮深くしているの、先(せん)にはまるで兄弟のようにしていたじゃないか。やっぱり昔のように迅ちゃんとお言いよ」
母親はいい機嫌であった。
「奥さん、今はそんなわけにはゆきません。あの時分は子供のことで何もかも解りませんでしたが」
閏土はそう言いながら子供を前に引出してお辞儀をさせようとしたが、子供は羞(はずか)しがって背中にこびりついて離れない。
「その子は水生だね。五番目かえ。みんなうぶだから懼(こわ)がるのは当前(あたりまえ)だよ。宏兒がちょうどいい相手だ。さあお前さん達は向うへ行ってお遊び」
宏兒はこの話を聞くとすぐに水生をさし招いた。水生は俄に元気づいて一緒になって馳け出して行った。母は閏土に席をすすめた。彼はしばらくうじうじして遂に席に著(つ)いた。長煙管を卓の側(そば)に寄せ掛け、一つの紙包を持出した。
「冬のことで何も御座いませんが、この青豆は家(うち)の庭で乾かしたんですから旦那様に差上げて下さい」
わたしは彼に暮向(くらしむき)のことを訊ねると、彼は頭を揺り動かした。
「なかなか大変です。あの下の子供にも手伝わせておりますが、どうしても足りません。……世の中は始終ゴタついておりますし、……どちらを向いてもお金の費(い)ることばかりで、方途(ほうず)が知れません……実りが悪いし、種物を売り出せば幾度も税金を掛けられ、元を削って売らなければ腐れるばかりです」
彼はひたすら頭を振った。見ると顔の上にはたくさんの皺が刻まれているが、石像のようにまるきり動かない。たぶん苦しみを感ずるだけで表現することが出来ないのだろう。しばらく思案に沈んでいたが煙管を持出して煙草を吸った。
母は彼の多忙を察してあしたすぐに引取らせることにした。まだ昼飯も食べていないので台所へ行って自分で飯を焚いておあがりと吩付(いいつ)けた。
あとで母とわたしは彼の境遇について歎息した。子供は殖(ふ)えるし、飢饉年は続くし、税金は重なるし、土匪(どひ)や兵隊が乱暴するし、官吏や地主がのしかかって来るし、凡(すべ)ての苦しみは彼をして一つの木偶(でく)とならしめた。「要らないものは何でも彼にやるがいいよ。勝手に撰(よ)り取らせてもいい」と母は言った。
午後、彼は入用の物を幾つか撰り出していた。長卓二台、椅子四脚、香炉と燭台一対ずつ、天秤(てんびん)一本。またここに溜っている藁灰も要るのだが、(わたしどもの村では飯を焚く時藁を燃料とするので、その灰は砂地の肥料に持って来いだ)わたしどもの出発前(ぜん)に船を寄越して積取ってゆく。
晩になってわたしどもはゆっくり話をしたが、格別必要な話でもなかった。そうして次の朝、彼は水生を連れて帰った。
九日目にわたしどもの出発の日が来た。閏土は朝早くから出て来た。今度は水生の代りに五つになる女の児を連れて来て船の見張をさせた。その日は一日急がしく、もう彼と話をしている暇もない。来客もまた少からずあった。見送りに来た者、品物を持出しに来た者、見送りと持出しを兼ねて来た者などがゴタゴタして、日暮れになってわたしどもがようやく船に乗った時には、この老屋の中にあった大小の我楽多道具はキレイに一掃されて、塵ッ葉一つ残らずガラ空きになった。
船はずんずん進んで行った。両岸の青山はたそがれの中に深黛色(しんたいしょく)の装いを凝らし、皆連れ立って船後の梢に向って退(しりぞ)く。
わたしは船窓に凭(よ)って外のぼんやりした景色を眺めていると、たちまち宏兒が質問を発した。
「叔父さん、わたしどもはいつここへ帰って来るんでしょうね」
「帰る? ハハハ。お前は向うに行き著きもしないのにもう帰ることを考えているのか」
「あの水生がね、自分の家(うち)へ遊びに来てくれと言っているんですよ」
宏兒は黒目勝ちの眼をみはってうっとりと外を眺めている。
わたしどもはうすら睡(ねむ)くなって来た。そこでまた閏土の話を持出した。母は語った。
「あの豆腐西施は家(うち)で荷造りを始めてから毎日きっとやって来るんだよ。きのうは灰溜の中から皿小鉢を十幾枚も拾い出し、論判(ろっぱん)の挙句、これはきっと閏土が埋(うず)めておいたに違いない、彼は灰を運ぶ時一緒に持帰る積りだろうなどと言って、この事を非常に手柄にして『犬ぢらし』を掴んでまるで飛ぶように馳け出して行ったが、あの纏足の足でよくまああんなに早く歩けたものだね」
(犬ぢらしはわたしどもの村の養鶏の道具で、木盤の上に木柵を嵌(は)め、中には餌(え)を入れておく。鶏は嘴が長いから柵をとおして啄(ついば)むことが出来る。犬は柵に鼻が閊(つか)えて食うことが出来ない。故に犬じ[#「じ」はママ]らしという)
だんだん故郷の山水に遠ざかり、一時ハッキリした少年時代の記憶がまたぼんやりして来た。わたしは今の故郷に対して何の未練も残らないが、あの美しい記憶が薄らぐことが何よりも悲しかった。
母も宏兒も睡ってしまった。
わたしは横になって船底のせせらぎを聴き、自分の道を走っていることを知った。わたしは遂に閏土と隔絶してこの位置まで来てしまった。けれど、わたしの後輩はやはり一脈の気を通わしているではないか。宏兒は水生を思念しているではないか。わたしは彼等の間に再び隔膜が出来ることを望まない。しかしながら彼等は一脈の気を求むるために、凡てがわたしのように辛苦展転して生活することを望まない。また彼等の凡てが閏土のように辛苦麻痺して生活することを望まない。また凡てが別人のように辛苦放埒して生活することを望まない。彼等はわたしどものまだ経験せざる新しき生活をしてこそ然(しか)る可(べ)きだ。
わたしはそう思うとたちまち羞しくなった。閏土が香炉と燭台が要ると言った時、わたしは内々彼を笑っていた。彼はどうしても偶像崇拝で、いかなる時にもそれを忘れ去ることが出来ないと。ところが現在わたしのいわゆる希望はわたしの手製の偶像ではなかろうか。ただ彼の希望は遠くの方でぼんやりしているだけの相違だ。
夢うつつの中(うち)に眼の前に野広い海辺の緑の沙地が展開して来た。上には深藍色の大空に掛るまんまろの月が黄金色であった。
希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。
(一九二一年一月)
引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42939_15330.html
おお! これこそ二十年来ときどき想い出す我が故郷ではないか。
わたしの想い出す故郷はまるきり、こんなものではない。わたしの故郷はもっと佳(よ)いところが多いのだ。しかしその佳いところを記すには姿もなく言葉もないので、どうやらまずこんなものだとしておこう。そうしてわたし自身解釈して、故郷はもともとこんなものだと言っておく。――進歩はしないがわたしの感ずるほどうら悲しいものでもなかろう。これはただわたし自身の心境の変化だ。今度の帰省はもともと何のたのしみもないからだ。
わたしどもが永い間身内と一緒に棲んでいた老屋がすでに公売され、家を明け渡す期限が本年一ぱいになっていたから、ぜひとも正月元日前に行(ゆ)かなければならない。それが今度の帰省の全部の目的であった。住み慣れた老屋と永別して、その上また住み慣れた故郷に遠く離れて、今食い繋ぎをしているよそ国に家移りするのである。
わたしは二日目の朝早く我が家の門口に著(つ)いた。屋根瓦のうえに茎ばかりの枯草が風に向って顫(ふる)えているのは、ちょうどこの老屋が主を更(か)えなければならない原因を説明するようである。同じ屋敷内(うち)に住む本家の家族は大概もう移転したあとで、あたりはひっそりしていた。わたしが部屋の外側まで来た時、母は迎えに出て来た。八歳になる甥の宏兒(こうじ)も飛出(とびだ)して来た。
母は非常に喜んだ。何とも言われぬ淋しさを押包みながら、お茶を入れて、話をよそ事に紛らしていた。宏兒は今度初めて逢うので遠くの方へ突立って真正面からわたしを見ていた。
わたしどもはとうとう家移りのことを話した。
「あちらの家も借りることに極(き)めて、家具もあらかた調えましたが、まだ少し足らないものもありますから、ここにある嵩張物(かさばりもの)を売払って向うで買うことにしましょう」
「それがいいよ。わたしもそう思ってね。荷拵(にごしら)えをした時、嵩張物は持運びに不便だから半分ばかり売ってみたがなかなかお銭(あし)にならないよ」
こんな話をしたあとで母は語を継いだ。
「お前さんは久しぶりで来たんだから、本家や親類に暇乞いを済まして、それから出て行くことにしましょう」
「ええそうしましょう」
「あの閏土(じゅんど)がね、家へ来るたんびにお前のことをきいて、ぜひ一度逢いたいと言っているんだよ」と母はにこにこして
「今度到著(とうちゃく)の日取を知らせてやったから、たぶん来るかもしれないよ」
「おお、閏土! ずいぶん昔のことですね」
この時わたしの頭の中に一つの神さびた画面が閃き出した。深藍色(はなだいろ)の大空にかかる月はまんまろの黄金色(こがねいろ)であった。下は海辺の砂地に作られた西瓜(すいか)畑で、果てしもなき碧緑の中に十一二歳の少年がぽつりと一人立っている。項(えり)には銀の輪を掛け、手には鋼鉄の叉棒(さすぼう)を握って一疋(ぴき)の土竜(もぐら)に向って力任せに突き刺すと、土竜は身をひねって彼の跨(また)ぐらを潜(くぐ)って逃げ出す。
この少年が閏土であった。わたしが彼を知ったのは十幾つかの歳であったが、別れて今は三十年にもなる。あの時分は父も在世して家事の都合もよく、わたしは一人の坊ッちゃまであった。その年はちょうど三十何年目に一度廻って来る家(うち)の大祭の年に当り、祭は鄭重を極め、正月中掲げられた影像の前には多くの供え物をなし、祭器の撰択が八釜(やかま)しく行われ、参詣人が雑沓(ざっとう)するので泥棒の用心をしなければならぬ。わたしの家(うち)には忙月(マンユエ)が一人きりだから手廻りかね、祭器の見張番に倅(せがれ)をよびたいと申出たので父はこれを許した。(この村の小作人は三つに分れている。一年契約の者を長年(チャンネン)といい、日雇いの者を短工(トワンコン)という。自分で地面を持ち節期時や刈入時に臨時に人の家に行って仕事をする者を忙月(マンユエ)という)
わたしは閏土が来ると聞いて非常に嬉しく思った。というのはわたしは前から閏土の名前を聞き及んでいるし、年頃もわたしとおつかつだし、閏月(うるうづき)生れで五行の土が欠けているから閏土と名づけたわけも知っていた。彼は仕掛罠で小鳥を取ることが上手だ。
わたしは日々に新年の来るのを待ちかねた。新年が来ると閏土も来るのだ。まもなく年末になり、ある日の事、母はわたしを呼んで
「閏土が来たよ」と告げた。わたしは馳(か)け出して行ってみると、彼は炊事部屋にいた。紫色の丸顔! 頭に小さな漉羅紗帽(すきらしゃぼう)をかぶり、項にキラキラした銀の頸輪(くびわ)を掛け、――これを見ても彼の父親がいかに彼を愛しているかが解る。彼の死去を恐れて神仏に願を掛け、頸に輪を掛け、彼を庇護しているのである――人を見て大層はにかんだが、わたしに対して特別だった。誰もいない時に好く話をして、半日経たぬうちに我々はすっかり仲よしになった。
われわれはその時、何か知らんいろんな事を話したが、ただ覚えているのは、閏土が非常にハシャいで、まだ見たことのないいろいろの物を街へ来て初めて見たとの話だった。
次の日わたしは彼に鳥をつかまえてくれと頼んだ。
「それは出来ません。大雪が降ればいいのですがね。わたしどもの沙地(すなぢ)の上に雪が降ると、わたしは雪を掻き出して小さな一つの空地を作り、短い棒で大きな箕(み)を支え、小米を撒きちらしておきます。小鳥が食いに来た時、わたしは遠くの方で棒の上に縛ってある縄を引くと、小鳥は箕の下へ入ってしまいます。何でも皆ありますよ。稲鶏(いねどり)、角鶏(つのどり)、※鴣(のばと)[#「孛+鳥」、105-11]、藍背(あいせ)……」
そこでわたしは雪の降るのを待ちかねた。閏土はまた左(さ)のような話をした。
「今は寒くていけませんが、夏になったらわたしの処へ被入(いら)っしゃい。わたしどもは昼間海辺に貝殻取に行きます。赤いのや青いのや、鬼が見て恐れるのや、観音様の手もあります。晩にはお父さんと一緒に西瓜の見張りに行きますから、あなたも被入(いら)っしゃい」
「泥棒の見張をするのかえ」
「いいえ、旅の人が喉が渇いて一つぐらい取って食べても、家(うち)の方では泥棒の数に入れません。見張が要るのは猪(いのしし)、山あらし、土竜の類(るい)です。月明りの下でじっと耳を澄ましているとララと響いて来ます。土竜が瓜を噛んでるんですよ。その時あなたは叉棒を攫(つか)んでそっと行って御覧なさい」
わたしはそのいわゆる土竜というものがどんなものか、その時ちっとも知らなかった。――今でも解らない――ただわけもなく、小犬のような形で非常に猛烈のように感じた。
「彼は咬(か)みついて来るだろうね」
「こちらには叉棒がありますからね。歩いて行って見つけ次第、あなたはそれを刺せばいい。こん畜生は馬鹿に利巧な奴で、あべこべにあなたの方へ馳け出して来て、跨の下から逃げてゆきます。あいつの毛皮は油のように滑(すべ)ッこい」
わたしは今までこれほど多くの珍らしいことが世の中にあろうとは知らなかった。海辺にこんな五色(しき)の貝殻があったり、西瓜にこんな危険性があったり――わたしは今の先(さ)きまで西瓜は水菓子屋の店に売っているものとばかし思っていた。
「わたしどもの沙地の中には大潮の来る前に、たくさん跳ね魚が集(あつま)って来て、ただそれだけが跳ね廻っています。青蛙のように二つの脚があって……」
ああ閏土の胸の中には際限もなく不思議な話が繋がっていた。それはふだんわたしどもの往来(ゆきき)している友達の知らぬことばかりで、彼等は本当に何一つ知らなかった。閏土が海辺にいる時彼等はわたしと同じように、高塀に囲まれた屋敷の上の四角な空ばかり眺めていたのだから。
惜しいかな、正月は過ぎ去り、閏土は彼の郷里に帰ることになった。わたしは大哭(おおな)きに哭いた。閏土もまた泣き出し、台所に隠れて出て行くまいとしたが、遂に彼の父親に引張り出された。
彼はその後父親に託(ことづ)けて貝殻一包(つつみ)と見事な鳥の毛を何本か送って寄越した。わたしの方でも一二度品物を届けてやったこともあるが、それきり顔を見たことが無い。
現在わたしの母が彼のことを持出したので、わたしのあの時の記憶が電(いなずま)の如くよみがえって来て、本当に自分の美しい故郷を見きわめたように覚えた。わたしは声に応じて答えた。
「そりゃ面白い。彼はどんな風です」
「あの人かえ、あの人の景気もあんまりよくないようだよ」
母はそういいながら室(へや)の外を見た。
「おやまた誰か来たよ。木器(もくき)買うと言っては手当り次第に持って行くんだから、わたしがちょっと見て来ましょう」
母が出て行くと門外の方で四五人の女の声がした。わたしは宏兒を側(そば)へ喚(よ)んで彼と話をした。字が書けるか、この家(うち)を出て行きたいと思うか、などということを訊いてみた。
「わたしどもは汽車に乗ってゆくのですか」
「汽車に乗ってゆくんだよ」
「船は?」
「まず船に乗るんだ」
「おや、こんなになったんですかね。お鬚がまあ長くなりましたこと」
一種尖ったおかしな声が突然わめき出した。
わたしは喫驚(びっくり)して頭を上げると、頬骨の尖った唇の薄い、五十前後の女が一人、わたしの眼の前に突立っていた。袴も無しに股引穿(ももひきば)きの両足を踏ん張っている姿は、まるで製図器のコンパスみたいだ。
わたしはぎょっとした。
「解らないかね、わたしはお前を抱いてやったことが幾度もあるよ」
わたしはいよいよ驚いたが、いい塩梅にすぐあとから母が入って来て側(そば)から
「この人は永い間外に出ていたから、みんな忘れてしまったんです。お前、覚えておいでだろうね」
とわたしの方へ向って
「これはすじ向うの楊二嫂(ようにそう)だよ。そら豆腐屋さんの」
おおそう言われると想い出した。わたしの子供の時分、すじ向うの豆腐屋の奥に一日坐り込んでいたのがたしか楊二嫂とか言った。彼女は近処(きんじょ)で評判の「豆腐西施(せいし)」で白粉(おしろい)をコテコテ塗っていたが、頬骨もこんなに高くはなく、唇もこんなに薄くはなく、それにまたいつも坐っていたので、こんな分廻(ぶんまわ)しのような姿勢を見るのはわたしも初めてで、その時分彼女があるためにこの豆腐屋の商売が繁盛するという噂をきいていたが、それも年齢の関係で、わたしは未(いま)だかつて感化を受けたことがないからまるきり覚えていない。ところがコンパス西施はわたしに対してはなはだ不平らしく、たちまち侮りの色を現し、さながらフランス人にしてナポレオンを知らず、亜米利加(アメリカ)人にしてワシントンを知らざるを嘲る如く冷笑した。
「忘れたの? 出世すると眼の位まで高くなるというが、本当だね」
「いえ、決してそんなことはありません、わたし……」
わたしは慌てて立上がった。
「そんなら迅(じん)ちゃん、お前さんに言うがね。お前はお金持になったんだから、引越しだってなかなか御大層だ。こんな我楽多(がらくた)道具なんか要るもんかね。わたしに譲っておくれよ、わたしども貧乏人こそ使い道があるわよ」
「わたしは決して金持ではありません。こんなものでも売ったら何かの足しまえになるかと思って……」
「おやおやお前は結構な道台(おやくめ)さえも捨てたという話じゃないか。それでもお金持じゃないの? お前は今三人のお妾(めかけ)さんがあって、外に出る時には八人舁(かつ)きの大轎(おおかご)に乗って、それでもお金持じゃないの? ホホ何と被仰(おっしゃ)ろうが、私を瞞(だま)すことは出来ないよ」
わたしは話のしようがなくなって口を噤んで立っていると
「全くね、お金があればあるほど塵ッ葉一つ出すのはいやだ。塵ッ葉一つ出さなければますますお金が溜るわけだ」
コンパスはむっとして身を翻し、ぶつぶつ言いながら出て行ったが、なお、行きがけの駄賃に母の手袋を一双、素早く掻っ払ってズボンの腰に捻じ込んで立去った。
そのあとで近処の本家や親戚の人達がわたしを訪ねて来たので、わたしはそれに応酬しながら暇を偸(ぬす)んで行李(こうり)をまとめ、こんなことで三四日も過した。
非常に寒い日の午後、わたしは昼飯を済ましてお茶を飲んでいると、外から人が入って来た。見ると思わず知らず驚いた。この人はほかでもない閏土であった。わたしは一目見てそれと知ったが、それは記憶の上の閏土ではなかった。身の丈けは一倍も伸びて、紫色の丸顔はすでに変じてどんよりと黄ばみ、額には溝のような深皺が出来ていた。目許は彼の父親ソックリで地腫れがしていたが、これはわたしも知っている。海辺地方の百姓は年じゅう汐風に吹かれているので皆が皆こんな風になるのである。彼の頭の上には破れた漉羅紗帽が一つ、身体の上にはごく薄い棉入れが一枚、その著(き)こなしがいかにも見すぼらしく、手に紙包と長煙管(ながぎせる)を持っていたが、その手もわたしの覚えていた赤く丸い、ふっくらしたものではなく、荒っぽくざらざらして松皮(まつかわ)のような裂け目があった。
わたしは非常に亢奮して何と言っていいやら
「あ、閏土さん、よく来てくれた」
とまず口を切って、続いて連珠の如く湧き出す話、角鶏、飛魚、貝殻、土竜……けれど結局何かに弾かれたような工合(ぐあい)になって、ただ頭の中をぐるぐる廻っているだけで口外へ吐き出すことが出来ない。
彼はのそりと立っていた。顔の上には喜びと淋しさを現わし、唇は動かしているが声が出ない。彼の態度は結局敬い奉るのであった。
「旦那様」
と一つハッキリ言った。わたしはぞっとして身顫いが出そうになった。なるほどわたしどもの間にはもはや悲しむべき隔てが出来たのかと思うと、わたしはもう話も出来ない。
彼は頭を後ろに向け
「水生(すいせい)や、旦那様にお辞儀をしなさい」
と背中に躱(かく)れている子供を引出した。これはちょうど三十年前の閏土と同じような者であるが、それよりずっと痩せ黄ばんで頸のまわりに銀の輪がない。
「これは五番目の倅ですが、人様の前に出たことがありませんから、はにかんで困ります」
母は宏兒を連れて二階から下りて来た。大方われわれの話声(はなしごえ)を聞きつけて来たのだろう。閏土は丁寧に頭を低(さ)げて
「大奥様、お手紙を有難く頂戴致しました。わたしは旦那様がお帰りになると聞いて、何しろハアこんな嬉しいことは御座いません」
「まあお前はなぜそんな遠慮深くしているの、先(せん)にはまるで兄弟のようにしていたじゃないか。やっぱり昔のように迅ちゃんとお言いよ」
母親はいい機嫌であった。
「奥さん、今はそんなわけにはゆきません。あの時分は子供のことで何もかも解りませんでしたが」
閏土はそう言いながら子供を前に引出してお辞儀をさせようとしたが、子供は羞(はずか)しがって背中にこびりついて離れない。
「その子は水生だね。五番目かえ。みんなうぶだから懼(こわ)がるのは当前(あたりまえ)だよ。宏兒がちょうどいい相手だ。さあお前さん達は向うへ行ってお遊び」
宏兒はこの話を聞くとすぐに水生をさし招いた。水生は俄に元気づいて一緒になって馳け出して行った。母は閏土に席をすすめた。彼はしばらくうじうじして遂に席に著(つ)いた。長煙管を卓の側(そば)に寄せ掛け、一つの紙包を持出した。
「冬のことで何も御座いませんが、この青豆は家(うち)の庭で乾かしたんですから旦那様に差上げて下さい」
わたしは彼に暮向(くらしむき)のことを訊ねると、彼は頭を揺り動かした。
「なかなか大変です。あの下の子供にも手伝わせておりますが、どうしても足りません。……世の中は始終ゴタついておりますし、……どちらを向いてもお金の費(い)ることばかりで、方途(ほうず)が知れません……実りが悪いし、種物を売り出せば幾度も税金を掛けられ、元を削って売らなければ腐れるばかりです」
彼はひたすら頭を振った。見ると顔の上にはたくさんの皺が刻まれているが、石像のようにまるきり動かない。たぶん苦しみを感ずるだけで表現することが出来ないのだろう。しばらく思案に沈んでいたが煙管を持出して煙草を吸った。
母は彼の多忙を察してあしたすぐに引取らせることにした。まだ昼飯も食べていないので台所へ行って自分で飯を焚いておあがりと吩付(いいつ)けた。
あとで母とわたしは彼の境遇について歎息した。子供は殖(ふ)えるし、飢饉年は続くし、税金は重なるし、土匪(どひ)や兵隊が乱暴するし、官吏や地主がのしかかって来るし、凡(すべ)ての苦しみは彼をして一つの木偶(でく)とならしめた。「要らないものは何でも彼にやるがいいよ。勝手に撰(よ)り取らせてもいい」と母は言った。
午後、彼は入用の物を幾つか撰り出していた。長卓二台、椅子四脚、香炉と燭台一対ずつ、天秤(てんびん)一本。またここに溜っている藁灰も要るのだが、(わたしどもの村では飯を焚く時藁を燃料とするので、その灰は砂地の肥料に持って来いだ)わたしどもの出発前(ぜん)に船を寄越して積取ってゆく。
晩になってわたしどもはゆっくり話をしたが、格別必要な話でもなかった。そうして次の朝、彼は水生を連れて帰った。
九日目にわたしどもの出発の日が来た。閏土は朝早くから出て来た。今度は水生の代りに五つになる女の児を連れて来て船の見張をさせた。その日は一日急がしく、もう彼と話をしている暇もない。来客もまた少からずあった。見送りに来た者、品物を持出しに来た者、見送りと持出しを兼ねて来た者などがゴタゴタして、日暮れになってわたしどもがようやく船に乗った時には、この老屋の中にあった大小の我楽多道具はキレイに一掃されて、塵ッ葉一つ残らずガラ空きになった。
船はずんずん進んで行った。両岸の青山はたそがれの中に深黛色(しんたいしょく)の装いを凝らし、皆連れ立って船後の梢に向って退(しりぞ)く。
わたしは船窓に凭(よ)って外のぼんやりした景色を眺めていると、たちまち宏兒が質問を発した。
「叔父さん、わたしどもはいつここへ帰って来るんでしょうね」
「帰る? ハハハ。お前は向うに行き著きもしないのにもう帰ることを考えているのか」
「あの水生がね、自分の家(うち)へ遊びに来てくれと言っているんですよ」
宏兒は黒目勝ちの眼をみはってうっとりと外を眺めている。
わたしどもはうすら睡(ねむ)くなって来た。そこでまた閏土の話を持出した。母は語った。
「あの豆腐西施は家(うち)で荷造りを始めてから毎日きっとやって来るんだよ。きのうは灰溜の中から皿小鉢を十幾枚も拾い出し、論判(ろっぱん)の挙句、これはきっと閏土が埋(うず)めておいたに違いない、彼は灰を運ぶ時一緒に持帰る積りだろうなどと言って、この事を非常に手柄にして『犬ぢらし』を掴んでまるで飛ぶように馳け出して行ったが、あの纏足の足でよくまああんなに早く歩けたものだね」
(犬ぢらしはわたしどもの村の養鶏の道具で、木盤の上に木柵を嵌(は)め、中には餌(え)を入れておく。鶏は嘴が長いから柵をとおして啄(ついば)むことが出来る。犬は柵に鼻が閊(つか)えて食うことが出来ない。故に犬じ[#「じ」はママ]らしという)
だんだん故郷の山水に遠ざかり、一時ハッキリした少年時代の記憶がまたぼんやりして来た。わたしは今の故郷に対して何の未練も残らないが、あの美しい記憶が薄らぐことが何よりも悲しかった。
母も宏兒も睡ってしまった。
わたしは横になって船底のせせらぎを聴き、自分の道を走っていることを知った。わたしは遂に閏土と隔絶してこの位置まで来てしまった。けれど、わたしの後輩はやはり一脈の気を通わしているではないか。宏兒は水生を思念しているではないか。わたしは彼等の間に再び隔膜が出来ることを望まない。しかしながら彼等は一脈の気を求むるために、凡てがわたしのように辛苦展転して生活することを望まない。また彼等の凡てが閏土のように辛苦麻痺して生活することを望まない。また凡てが別人のように辛苦放埒して生活することを望まない。彼等はわたしどものまだ経験せざる新しき生活をしてこそ然(しか)る可(べ)きだ。
わたしはそう思うとたちまち羞しくなった。閏土が香炉と燭台が要ると言った時、わたしは内々彼を笑っていた。彼はどうしても偶像崇拝で、いかなる時にもそれを忘れ去ることが出来ないと。ところが現在わたしのいわゆる希望はわたしの手製の偶像ではなかろうか。ただ彼の希望は遠くの方でぼんやりしているだけの相違だ。
夢うつつの中(うち)に眼の前に野広い海辺の緑の沙地が展開して来た。上には深藍色の大空に掛るまんまろの月が黄金色であった。
希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。これこそ地上の道のように、初めから道があるのではないが、歩く人が多くなると初めて道が出来る。
(一九二一年一月)
引用
http://www.aozora.gr.jp/cards/001124/files/42939_15330.html
こんにちは~
いやぁ~、何ヶ月ぶりかの更新ですわ。。
最近、私はこんな本を読みました
題名: 「It」と呼ばれた子 幼年期
みなさん、Itとは、英語で「それ」を意味します。
人間に対して「It(それ)」と皆さんは呼んだことが御座いますでしょうか?
もちろん、あるはずが無いですよね。
この本は
母親が自分の子供を虐待し、被害者の子供さんが書いた実話です。
私はまだ、幼年期しか読んでいませんが
いろんなことを教えてくれるとてもいい本です。
読んでいるときは、登場人物の母親に対してムカつき感を覚えますが。。。
その他にも、「少年期」「青春編」「完結編」「指南編」とあるみたいです。
では、幼年期から
■児童虐待について
デイヴ・ペルザー
暗黒の世界に生きていた子どものころ、私は生きることに不安を抱き、自分はひとりぼっちだと思っていました。大人になった今では、自分がひとりではなかったことがわかります。虐待されている子どもはほかにもたくさんいたのです。
情報はいろいろですが、現在のアメリカでは子どもの五人に一人が、肉体的、精神的、性的に虐待を受けていると見られます。あいにくなことに、実態を知らない人々のなかには”虐待”と言っても、たいていは両親がわが子をしつける「権利」を行使して、それがちょっと度を超しているだけのことだと信じている人もいます。そういった人々は、しつけがきびしすぎたからといって、まさかその子が大人になっても影響を受け続けるようなことはない、と思いこんでいるのかもしれません。それは実に悲しい誤解です。
児童虐待というくらい過去の犠牲者が大人になったとき、鬱積(うつせき)したフラストレーションのはけ口を、社会に向けたり、あるいは愛する人々に向けたりする場合があります。世間に知れわたるのは、きわめて異常な例だけです。マスコミは珍しい事件に飛びつき、視聴率を稼ぐからです。
弁護士をしている父親が、子どもをけんこつでなぐりつけ、気絶して床に倒れたままほったらかして寝てしまったという事件がありました。幼い子どもを便器に投げこんだ父親の話も耳にしました。どちらの子も亡くなっています。もっと奇異な例では、母親と父親がそれぞれに子どもを殺して、その遺体を四年ものあいだ隠していました。
ほかにもいろいろと目を引く事件があります。たとえば虐待されていた子どもが大人になってから、マクドナルドで片っぱしから人を殺害するとうことがありました。無抵抗の被害者たちを撃ち殺して、ついには本人も警官に殺されたのです。
けれども、ほとんどの人々は世間に知られることはありません。たとえば、高速道路の橋の下で眠り、段ボール箱をわが家と呼ぶホームレスの少年たちがいます。虐待を受けている少女たちが毎年何千人も家出しては、生活のために体を売っています。また、身を持ちくずして犯罪組織の一味となり、暴力ざたや破壊行為に手を染める子どもたちもいます。
児童虐待の犠牲者は自分の過去を心の奥深くに隠してしまうことが多く、自分が虐待する側になると言う可能性には考えも及びません。普通の生活を送り、夫や妻となって家庭を築き、仕事でも実績を積んでいます。
しかし、むかし虐待の被害者だった人々は、日常生活につきもののちょっとしたもんだいが引き金となって、こどものころに身にしみついた行動をとってしまいがちです。そうなると、今度は配偶者や子どもたちが不満のはけ口にされ、知らず知らずのうちにかつての状況が再現されて、果てしない”怒りの循環”ができあがってしまうのです。
虐待を受けた人々はひっそりと自分の殻に閉じこもってしまう場合もあります。目をそらして認めずにいれば、過去なんか消えてしまうはずだと思い込んでいるのです。<パンドラの箱>は閉じたままにしておかなければならない、と信じているように見えます。
アメリカでは毎年、何百万ドルものお金が児童保護の機関につぎこまれています。こうしたお金は、フォスターホームや教護院のような各地の施設へ送られます。児童虐待を抜本的に防止するための活動、虐待する親やその犠牲者たちのカウンセリングなどに取り組む民間団体にも、助成金が与えられています。
児童虐待の件数は、年々増加しています。アメリカでは一九九○年に二五○万件以上の児童虐待が報告されました。一九九一年には、その数は二七○万件を上回るほどになっています。今現在のすいてでは、既に三百万件を超えています。
なぜでしょう?何が原因で児童虐待という悲劇が起こるのでしょうか。本当にそれほどひどい事態なのでしょうか。食い止めることは不可能なのでしょうか。
そして、おそらくもっとも重要な問題は、子どもの目から見た虐待とはどういうものなのか、ということでしょう。
本書でみなさんにお読みいただいたのは、隠された秘密によって荒廃していくごく平凡な一家の話です。まず、読者に知っていただきたいことがふたつあります。
第一には、愛情と思いやりにあふれていた親が、急に残忍な怪物に変わり果て、無力な子どもを不満のはけ口にすることが、現実にありえるということ。
第二には、被害者となった子どもは、とても乗り越える見込みなどなさそうな状況にあっても、最後には打ち勝ってみごとに生き抜くことができるのだ、ということです。
読者のなかには、この話が現実ばなれしていて、気味が悪いと思う方もいるでしょう。しかし児童虐待というのは、われわれの社会で実感に起きている、気味の悪い現象にほかならないのです。
児童虐待は、その家庭に関わるすべての人に広がっていく”ドミノ効果”をもっています。虐待された子どもにもっともひどい被害が及ぶのはもちろんのこと、それは肉親にも影響をもたらし、とくに配偶者は、相手と子どものあいだで板ばさみになって苦しむことが多いのです。
さらにはその家庭のほかの子どもたちも、事態を理解できないまま恐怖にさらされます。また、周囲の人々も巻き込まれていきます。叫び声を耳にしながらどうすることもできない近所の人たち。子どもの体のアザを目にし、勉強にまるで集中できない子どもを相手にしなければならない先生たち。口を出したくても、関係がまずくなるのを恐れる親類の人々もいます。
され、本書は生きる闘いについての話というだけではありません。魂の勝利と、それを讃える(たたえる)話なのです。どれほど暗く救いのない場面であっても、心はけっして征服されていません。体が生き抜くことも大切ですが、人間の精神が打ち勝つことのほうが、もっと意味があるのです。
長いあいだ私は自分の心の暗闇に閉じこもって、孤独であわれな「敗者」でいました。はじめのうちは、ほかの人たちとおなじようになりたい、ただそれだけを願っていたのですが、やがて思いがふくらんできました。私は、私の人生の「勝者」になりたちと思ったのです。
現在の私は、セミナーやワークショップを開き、悩みを持つ人々が苦しみながら解き放れるための手伝いをするなど、さまざまな奉仕活動をしています。身をもって虐待を経験した立場から、虐待を受けている子どもたちと、その子たちのために力を尽くす人々に向けてメッセージを送っています。
私は児童虐待の残酷は実態を踏まえた上で、よりよい明日への希望に支えられた展望をもっています。そして私にとってさらに重要なのは、憎しみの循環を断ち切って父親となった私が、息子を心から愛し、力づけることができるという事実です。ただひとつ罪があるとしたら、ちょっと甘やかしすぎていることぐらいでしょう。
矛盾しているようですが、虐待された過去がなかったなら、たぶん私は今日の私にはなっていなかったでしょう。暗い子ども時代を過ごしたからこそ、人生を深く理解することができるのです。これは、私の人生物語です。
現在も必死に助けを求めている人々が大勢います。救いの手を必要とする人々を援助することが、私の使命だと考えています。過去に何があったとしても、それを乗り越えて、明るい世界に向かって突き進んでいくことができる、それを知ることが大切なのだと思います。
おそらく、今日ほど家族がストレスにさらされている時代はこれまでなかったでしょう。経済と社会の変化が家族を極限まで追いつめ、児童虐待の起こりやすい状況を作ってしまったのです。社会がこの問題に真正面から取り組むつもりなら、まず問題をさらけ出さなければなりません。
いったんさらけ出されれば、児童虐待の原因が理解されるようになり、そのときこそ本当の支援が始まるのです。
子どもたちは、何の心配もなく太陽の下であそぶことができなければいけません。心の暗闇に引きこもって、悪夢の中で生きるべきではないのです。
引用
ヴィレッジブックス 「It」と呼ばれた子 幼年期 P260~P266
いやぁ~、何ヶ月ぶりかの更新ですわ。。
最近、私はこんな本を読みました
題名: 「It」と呼ばれた子 幼年期
みなさん、Itとは、英語で「それ」を意味します。
人間に対して「It(それ)」と皆さんは呼んだことが御座いますでしょうか?
もちろん、あるはずが無いですよね。
この本は
母親が自分の子供を虐待し、被害者の子供さんが書いた実話です。
私はまだ、幼年期しか読んでいませんが
いろんなことを教えてくれるとてもいい本です。
読んでいるときは、登場人物の母親に対してムカつき感を覚えますが。。。
その他にも、「少年期」「青春編」「完結編」「指南編」とあるみたいです。
では、幼年期から
■児童虐待について
デイヴ・ペルザー
暗黒の世界に生きていた子どものころ、私は生きることに不安を抱き、自分はひとりぼっちだと思っていました。大人になった今では、自分がひとりではなかったことがわかります。虐待されている子どもはほかにもたくさんいたのです。
情報はいろいろですが、現在のアメリカでは子どもの五人に一人が、肉体的、精神的、性的に虐待を受けていると見られます。あいにくなことに、実態を知らない人々のなかには”虐待”と言っても、たいていは両親がわが子をしつける「権利」を行使して、それがちょっと度を超しているだけのことだと信じている人もいます。そういった人々は、しつけがきびしすぎたからといって、まさかその子が大人になっても影響を受け続けるようなことはない、と思いこんでいるのかもしれません。それは実に悲しい誤解です。
児童虐待というくらい過去の犠牲者が大人になったとき、鬱積(うつせき)したフラストレーションのはけ口を、社会に向けたり、あるいは愛する人々に向けたりする場合があります。世間に知れわたるのは、きわめて異常な例だけです。マスコミは珍しい事件に飛びつき、視聴率を稼ぐからです。
弁護士をしている父親が、子どもをけんこつでなぐりつけ、気絶して床に倒れたままほったらかして寝てしまったという事件がありました。幼い子どもを便器に投げこんだ父親の話も耳にしました。どちらの子も亡くなっています。もっと奇異な例では、母親と父親がそれぞれに子どもを殺して、その遺体を四年ものあいだ隠していました。
ほかにもいろいろと目を引く事件があります。たとえば虐待されていた子どもが大人になってから、マクドナルドで片っぱしから人を殺害するとうことがありました。無抵抗の被害者たちを撃ち殺して、ついには本人も警官に殺されたのです。
けれども、ほとんどの人々は世間に知られることはありません。たとえば、高速道路の橋の下で眠り、段ボール箱をわが家と呼ぶホームレスの少年たちがいます。虐待を受けている少女たちが毎年何千人も家出しては、生活のために体を売っています。また、身を持ちくずして犯罪組織の一味となり、暴力ざたや破壊行為に手を染める子どもたちもいます。
児童虐待の犠牲者は自分の過去を心の奥深くに隠してしまうことが多く、自分が虐待する側になると言う可能性には考えも及びません。普通の生活を送り、夫や妻となって家庭を築き、仕事でも実績を積んでいます。
しかし、むかし虐待の被害者だった人々は、日常生活につきもののちょっとしたもんだいが引き金となって、こどものころに身にしみついた行動をとってしまいがちです。そうなると、今度は配偶者や子どもたちが不満のはけ口にされ、知らず知らずのうちにかつての状況が再現されて、果てしない”怒りの循環”ができあがってしまうのです。
虐待を受けた人々はひっそりと自分の殻に閉じこもってしまう場合もあります。目をそらして認めずにいれば、過去なんか消えてしまうはずだと思い込んでいるのです。<パンドラの箱>は閉じたままにしておかなければならない、と信じているように見えます。
アメリカでは毎年、何百万ドルものお金が児童保護の機関につぎこまれています。こうしたお金は、フォスターホームや教護院のような各地の施設へ送られます。児童虐待を抜本的に防止するための活動、虐待する親やその犠牲者たちのカウンセリングなどに取り組む民間団体にも、助成金が与えられています。
児童虐待の件数は、年々増加しています。アメリカでは一九九○年に二五○万件以上の児童虐待が報告されました。一九九一年には、その数は二七○万件を上回るほどになっています。今現在のすいてでは、既に三百万件を超えています。
なぜでしょう?何が原因で児童虐待という悲劇が起こるのでしょうか。本当にそれほどひどい事態なのでしょうか。食い止めることは不可能なのでしょうか。
そして、おそらくもっとも重要な問題は、子どもの目から見た虐待とはどういうものなのか、ということでしょう。
本書でみなさんにお読みいただいたのは、隠された秘密によって荒廃していくごく平凡な一家の話です。まず、読者に知っていただきたいことがふたつあります。
第一には、愛情と思いやりにあふれていた親が、急に残忍な怪物に変わり果て、無力な子どもを不満のはけ口にすることが、現実にありえるということ。
第二には、被害者となった子どもは、とても乗り越える見込みなどなさそうな状況にあっても、最後には打ち勝ってみごとに生き抜くことができるのだ、ということです。
読者のなかには、この話が現実ばなれしていて、気味が悪いと思う方もいるでしょう。しかし児童虐待というのは、われわれの社会で実感に起きている、気味の悪い現象にほかならないのです。
児童虐待は、その家庭に関わるすべての人に広がっていく”ドミノ効果”をもっています。虐待された子どもにもっともひどい被害が及ぶのはもちろんのこと、それは肉親にも影響をもたらし、とくに配偶者は、相手と子どものあいだで板ばさみになって苦しむことが多いのです。
さらにはその家庭のほかの子どもたちも、事態を理解できないまま恐怖にさらされます。また、周囲の人々も巻き込まれていきます。叫び声を耳にしながらどうすることもできない近所の人たち。子どもの体のアザを目にし、勉強にまるで集中できない子どもを相手にしなければならない先生たち。口を出したくても、関係がまずくなるのを恐れる親類の人々もいます。
され、本書は生きる闘いについての話というだけではありません。魂の勝利と、それを讃える(たたえる)話なのです。どれほど暗く救いのない場面であっても、心はけっして征服されていません。体が生き抜くことも大切ですが、人間の精神が打ち勝つことのほうが、もっと意味があるのです。
長いあいだ私は自分の心の暗闇に閉じこもって、孤独であわれな「敗者」でいました。はじめのうちは、ほかの人たちとおなじようになりたい、ただそれだけを願っていたのですが、やがて思いがふくらんできました。私は、私の人生の「勝者」になりたちと思ったのです。
現在の私は、セミナーやワークショップを開き、悩みを持つ人々が苦しみながら解き放れるための手伝いをするなど、さまざまな奉仕活動をしています。身をもって虐待を経験した立場から、虐待を受けている子どもたちと、その子たちのために力を尽くす人々に向けてメッセージを送っています。
私は児童虐待の残酷は実態を踏まえた上で、よりよい明日への希望に支えられた展望をもっています。そして私にとってさらに重要なのは、憎しみの循環を断ち切って父親となった私が、息子を心から愛し、力づけることができるという事実です。ただひとつ罪があるとしたら、ちょっと甘やかしすぎていることぐらいでしょう。
矛盾しているようですが、虐待された過去がなかったなら、たぶん私は今日の私にはなっていなかったでしょう。暗い子ども時代を過ごしたからこそ、人生を深く理解することができるのです。これは、私の人生物語です。
現在も必死に助けを求めている人々が大勢います。救いの手を必要とする人々を援助することが、私の使命だと考えています。過去に何があったとしても、それを乗り越えて、明るい世界に向かって突き進んでいくことができる、それを知ることが大切なのだと思います。
おそらく、今日ほど家族がストレスにさらされている時代はこれまでなかったでしょう。経済と社会の変化が家族を極限まで追いつめ、児童虐待の起こりやすい状況を作ってしまったのです。社会がこの問題に真正面から取り組むつもりなら、まず問題をさらけ出さなければなりません。
いったんさらけ出されれば、児童虐待の原因が理解されるようになり、そのときこそ本当の支援が始まるのです。
子どもたちは、何の心配もなく太陽の下であそぶことができなければいけません。心の暗闇に引きこもって、悪夢の中で生きるべきではないのです。
引用
ヴィレッジブックス 「It」と呼ばれた子 幼年期 P260~P266
10月12日13時16分配信 産経新聞
12歳の出産・死亡…少女の命を奪ったイエメンの「強制結婚」
中東の最貧国イエメンで9月11日、ひとりの少女が出産の際の合併症で、赤ん坊とともに死亡した。12歳。3日間にわたる陣痛と多量の出血に苦しんだ末の死だった。結婚制度を含む法律の不整備、相次ぐ紛争で疲弊し、貧困にあえぐ地方、根強く残る部族社会、そしてそれらを統制できず有効な手だてが打てない中央政府-。少女の死の背景には、イエメンが抱える問題が横たわっている。(大内清)
■病院に行けず
イエメンの人権団体「子供の保護のためのセヤージュ(柵)」(本部・首都サヌア)などによると、少女の名前はファウジヤ・アブドラ・ユーセフさん。同国西部ホデイダ州の貧しい家庭に生まれ、2008年、11歳のときに父親から24歳の男性との結婚を強要された。小学校は4年生でやめさせられた。
ファウジヤさんは間もなく妊娠。今年9月に入って陣痛が始まった。大量の出血を伴っていたが、この時は病院に連れて行ってもらえず、3日後、やっと病院で医師の診察を受けたときには手遅れになっていた。
イエメンでは、経済的に困窮した家庭が、新郎側から支払われる婚資金目当てに幼い娘を結婚させるケースが多く、ファウジヤさんも同様の事情で結婚を強要されたとみられる。
こうした「強制結婚」は地方を中心に広がっており、既婚女性の約半数が15歳以下で結婚しているとのデータもあるという。
■8歳女児の訴え
中には耳を疑うような事例もある。
2008年には、当時8歳の小学2年生の女児が、28歳の男性との結婚契約書に署名させられた。米CNNテレビやフランス通信(AFP)などによると、この女児は署名後も18歳までは自宅で両親と暮らす約束だったが、じきに父親から男性と同居するよう強制された。
数週間後、“夫”から暴力を受けるようになった女児は家を飛び出した。タクシーに乗り込んで裁判所まで来ると、助けを求めるためにベンチに座って裁判官が通るのを待った。まだ文字も満足に読めない女児が必死に絞った知恵だった。
女児はその後、知り合った弁護士の助言を受けて正式に離婚を申し立て、同年4月、主張が裁判で認められて離婚が成立した。
■あいまいな規定
「強制結婚」問題の背景には、イエメンの法律に結婚の最低年齢に関する明確な規定がないことがある。
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチによると、女性は「性交渉が可能になるまで結婚できない」などとされているだけで基準があいまいな上、夫婦間の暴力を罰する刑法上の規定もない。同国の女性の人権問題に関する政府機関が、女性が結婚できる最低年齢を18歳とすることや、違反者には禁固や罰金などの刑罰を課すよう法律の改正を求めているものの、議会側の抵抗で実現の見通しは立っていないのが実情だ。
また、「結婚の年齢制限はイスラム教の教えに反する」と主張する部族指導者も多いという。イエメンでは部族の独立性が高く、中央政府による押さえが効いていないとの指摘もある。
■紛争が生む貧困
相次ぐ紛争と貧困も強制結婚が後を絶たない原因の一つだ。
イエメンでは1994年、政府軍と南部の分離独立派との間で内戦が発生。2004年からは北部で、政府軍とイスラム教シーア派の一派であるザイド派の反政府勢力が断続的に衝突を繰り返している。紛争が起きるたびに国内難民が大量発生し、経済が疲弊してますます社会情勢が不安定化するという悪循環に陥っているといえる。
そんななか、貧困にあえぐ家庭にとって、娘を結婚させることは、家計への負担を減らすとともに、婚資金として収入を得られる手段となっているのだ。
また、ファウジヤさんの死について、セヤージュの代表者はCNNに対し、「直接の原因は医療ケアがなかったためだが、本当の問題は、イエメンでは教育が欠如していることだ」と指摘。男性で約67%、女性では25%程度ともいわれる識字率の低さが、人権意識の普及や適切な保健教育の充実を阻害していると訴える。
「強さ」や「男らしさ」を重んじる男性中心の部族文化が根強いイエメン。ファウジヤさんの悲劇は、氷山のほんの一角だとみられている。
引用
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091012-00000516-san-int
12歳の出産・死亡…少女の命を奪ったイエメンの「強制結婚」
中東の最貧国イエメンで9月11日、ひとりの少女が出産の際の合併症で、赤ん坊とともに死亡した。12歳。3日間にわたる陣痛と多量の出血に苦しんだ末の死だった。結婚制度を含む法律の不整備、相次ぐ紛争で疲弊し、貧困にあえぐ地方、根強く残る部族社会、そしてそれらを統制できず有効な手だてが打てない中央政府-。少女の死の背景には、イエメンが抱える問題が横たわっている。(大内清)
■病院に行けず
イエメンの人権団体「子供の保護のためのセヤージュ(柵)」(本部・首都サヌア)などによると、少女の名前はファウジヤ・アブドラ・ユーセフさん。同国西部ホデイダ州の貧しい家庭に生まれ、2008年、11歳のときに父親から24歳の男性との結婚を強要された。小学校は4年生でやめさせられた。
ファウジヤさんは間もなく妊娠。今年9月に入って陣痛が始まった。大量の出血を伴っていたが、この時は病院に連れて行ってもらえず、3日後、やっと病院で医師の診察を受けたときには手遅れになっていた。
イエメンでは、経済的に困窮した家庭が、新郎側から支払われる婚資金目当てに幼い娘を結婚させるケースが多く、ファウジヤさんも同様の事情で結婚を強要されたとみられる。
こうした「強制結婚」は地方を中心に広がっており、既婚女性の約半数が15歳以下で結婚しているとのデータもあるという。
■8歳女児の訴え
中には耳を疑うような事例もある。
2008年には、当時8歳の小学2年生の女児が、28歳の男性との結婚契約書に署名させられた。米CNNテレビやフランス通信(AFP)などによると、この女児は署名後も18歳までは自宅で両親と暮らす約束だったが、じきに父親から男性と同居するよう強制された。
数週間後、“夫”から暴力を受けるようになった女児は家を飛び出した。タクシーに乗り込んで裁判所まで来ると、助けを求めるためにベンチに座って裁判官が通るのを待った。まだ文字も満足に読めない女児が必死に絞った知恵だった。
女児はその後、知り合った弁護士の助言を受けて正式に離婚を申し立て、同年4月、主張が裁判で認められて離婚が成立した。
■あいまいな規定
「強制結婚」問題の背景には、イエメンの法律に結婚の最低年齢に関する明確な規定がないことがある。
国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチによると、女性は「性交渉が可能になるまで結婚できない」などとされているだけで基準があいまいな上、夫婦間の暴力を罰する刑法上の規定もない。同国の女性の人権問題に関する政府機関が、女性が結婚できる最低年齢を18歳とすることや、違反者には禁固や罰金などの刑罰を課すよう法律の改正を求めているものの、議会側の抵抗で実現の見通しは立っていないのが実情だ。
また、「結婚の年齢制限はイスラム教の教えに反する」と主張する部族指導者も多いという。イエメンでは部族の独立性が高く、中央政府による押さえが効いていないとの指摘もある。
■紛争が生む貧困
相次ぐ紛争と貧困も強制結婚が後を絶たない原因の一つだ。
イエメンでは1994年、政府軍と南部の分離独立派との間で内戦が発生。2004年からは北部で、政府軍とイスラム教シーア派の一派であるザイド派の反政府勢力が断続的に衝突を繰り返している。紛争が起きるたびに国内難民が大量発生し、経済が疲弊してますます社会情勢が不安定化するという悪循環に陥っているといえる。
そんななか、貧困にあえぐ家庭にとって、娘を結婚させることは、家計への負担を減らすとともに、婚資金として収入を得られる手段となっているのだ。
また、ファウジヤさんの死について、セヤージュの代表者はCNNに対し、「直接の原因は医療ケアがなかったためだが、本当の問題は、イエメンでは教育が欠如していることだ」と指摘。男性で約67%、女性では25%程度ともいわれる識字率の低さが、人権意識の普及や適切な保健教育の充実を阻害していると訴える。
「強さ」や「男らしさ」を重んじる男性中心の部族文化が根強いイエメン。ファウジヤさんの悲劇は、氷山のほんの一角だとみられている。
引用
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091012-00000516-san-int
※引用です
■自殺予防週間に寄せて=きっかけは多忙とパニック障害だった
【PJニュース 2009年9月11.12日】
9月10日は世界自殺予防デー。2007(平成19)年6月に閣議決定された「自殺総合対策大綱」において、毎年、9月10日からの11週間を自殺予防週間として設定し、国、地方公共団体が連携して、幅広い国民の参加による啓発活動を強力に推進することとされている。この自殺予防週間に合わせ、私の身に起きた事例を通し3回に分けて、自殺予防について考えてみた。
1996(平成8)年4月、上海日本人学校から宮崎に戻った私に待ち受けていたのは、文部省(当時)の研究指定校の研究主任であった。日本人学校でも研究主任をしていたので、帰国後は少しゆっくりしたいと考えていた。
学級担任から外され、理科専科として週9時間の授業を受け持ち、その他大半の勤務時間を研究指定校の研究に充てた。学校にいながら児童と接する時間は少なく、同僚から持ち込まれる研究に関する相談や資料作りに追われた。また、たびたび教育事務所に出向いては、担当の指導主事から細かい点を指摘され、そのたびに胃が痛くなる思いをした。
朝、子どもたちの顔を見ることなく出勤し、夜遅く帰宅して子どもたちの寝顔を見る生活が3年間続いた。休日も学校にいることが多く、家族サービスらしいこともできなかった。
研究主任という立場上、また、校長からは「あなたは海外で仕事をしてきたのだからどんな逆境にも耐えられるはずだ」という変な思い込みから、学校には相談相手はいなかった。
なんとか研究発表が終わり、年度が替わった99(平成11)年4月22日、私の人生の中で忘れられない出来事が起きた。
この学校では、職員朝礼の前に、校長、教頭、教務主任、研究主任の4人で本日の業務に関する打ち合わせを行う。その打ち合わせの最中に、突然私は立ち上がり、校長に対して激しく怒りをぶちまけてしまった。どうしてそのようなことをしてしまったのか、分からなかった。言葉を発した後、私は呼吸困難に陥り、校長室で倒れた。パニック症候群による過呼吸状態であった。初めてのことで、とても怖かった。
私は校長室のソファに横になり、学校医と養護教諭がそばにいた。学校医は、これまでのストレスがたまっていたのだろうと話した。この日は早退して帰宅した。
しかし、帰宅後、さななる出来事が待ち受けていた。
テーブルの上にメモがあった。「子どもを連れて実家へ帰ります」・・・。こういう話はドラマだけかと思ったが、自分の目を疑った。静まり返った部屋の中でぼうぜんとしていた。この日を境に、私はおかしくなっていった。
うつ病と診断されるのに、そう時間はかからなかった。
校長に病気のことを話し、学校での勤務の合間を縫って、時間休(1時間単位でとることができる休暇)を使って病院に通う日が続いた。
「早く治したい」という自分の意思とは裏腹に、なかなか症状が改善しなかった。子どもの前に立つことがつらい日もあり、たびたび学校を休むことも。校長の勧めで、一時入院した。
研究公開、パニック障害、離婚など、この学校ではいろいろなことがありすぎた。気分を一新するため、2001(平成13)年4月に転勤したが、そこでさらなる問題が起きることとなった。
私は保護者の目を避けるため、隣町の公立病院の心療内科に通っていたが、その私の姿を保護者が見つけたのだろう。大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で事件が発生した01年6月8日、学校に匿名の電話がかかってきた。
「おたくの学校に精神病患者の先生がいるようだが、大丈夫なのか?」
私はこの電話のことは知らなかったのだが、翌日、教頭に呼び出され、「昨日、学校に匿名の電話があったが、あなたは精神病患者なのか?」とただされた。私はあ然とした。
転勤した際に、校長と教頭には、私の病気のことは説明したのだが、この教頭はまったく理解していなかったのである。このことはすぐに同僚も知るところなり、次第に学校から私の居場所がなくなっていった。心療内科の主治医からは、快方に向かっているとの説明を聞き喜んでいたのだが。
再度、入院することとなった。02(平成14)年1月の3学期からは復帰できると主治医から診断書をいただいたが、校長の回答は「ノー」。復帰してほしくないということであった。
どうすることもできなくなった私がとった手段は、自殺であった。
昔、かぐや姫が歌っていた「マキシーのために」の歌詞を思い出した。この曲は実話で、学生運動に参加し、その後自殺した女性をモデルにしている。その歌詞の中に、睡眠薬のことが出てくる。家には睡眠薬はなかったが、その代わりに抗うつ剤ならたくさんある。何も考えず、70錠近く飲んだ。本当は死にたくないのに、このような方法でしか抗議できない自分が悔しかった。
私のこの無念の思いを誰かに伝えたくて、インターネットの電子掲示板に書き込んだ。「死にたくはない・・・」と。
矛盾するような行動だが、自殺を図ろうとする人の多くは、本当は死にたくないのである。この世に自分の居場所がなくなり、自分の話を聞いてくれる人がいないという絶望感から、このような行動をとるのである。
次第に意識が朦朧(もうろう)としていく中で、救急車のサイレンの音だけが大きく聞こえた。ネットの電子掲示板の私の書き込みを見た大阪と福島の方が、私の地元の消防署に連絡をしてくれたのである。
胃が洗浄され、血液の透析を受けた。私の赤い血液がゆっくりと透析機へ流れていく。約6時間、その様子を眺めていた。
「自殺は止めよう」
私が学校に復帰して、子どもたちの前に立つことはなかった。主治医は、「うつ病のときは一人で大きな物事を決めてはいけない。家族と相談しなさい」と言われたが、仕事のことで離婚し、アパートには私一人。親に迷惑をかけることもできない。
もしかして、私の病気は、学校を辞めることで治るのではないだろうか。
そう考えるようになったきっかけがあった。主治医の勧めで、近くの公民館でボランティア活動を始めた。パソコンを教えるボランティアである。20代から80代までの受講生さんと接していく中で、自分が変わっていくような気がした。私の過去を知る友人からは、「顔色がよくなった」「笑い顔も出るようになった」と言われるようになった。
教育は学校だけではない。公民館にも学びたい人はたくさんいる。私はそのような人に教えていきたい。いつの間にか、前向きな考え方を持つようになった。
最終回に続く
引用
http://news.livedoor.com/article/detail/4342631/
http://news.livedoor.com/article/detail/4344504/
■自殺予防週間に寄せて=きっかけは多忙とパニック障害だった
【PJニュース 2009年9月11.12日】
9月10日は世界自殺予防デー。2007(平成19)年6月に閣議決定された「自殺総合対策大綱」において、毎年、9月10日からの11週間を自殺予防週間として設定し、国、地方公共団体が連携して、幅広い国民の参加による啓発活動を強力に推進することとされている。この自殺予防週間に合わせ、私の身に起きた事例を通し3回に分けて、自殺予防について考えてみた。
1996(平成8)年4月、上海日本人学校から宮崎に戻った私に待ち受けていたのは、文部省(当時)の研究指定校の研究主任であった。日本人学校でも研究主任をしていたので、帰国後は少しゆっくりしたいと考えていた。
学級担任から外され、理科専科として週9時間の授業を受け持ち、その他大半の勤務時間を研究指定校の研究に充てた。学校にいながら児童と接する時間は少なく、同僚から持ち込まれる研究に関する相談や資料作りに追われた。また、たびたび教育事務所に出向いては、担当の指導主事から細かい点を指摘され、そのたびに胃が痛くなる思いをした。
朝、子どもたちの顔を見ることなく出勤し、夜遅く帰宅して子どもたちの寝顔を見る生活が3年間続いた。休日も学校にいることが多く、家族サービスらしいこともできなかった。
研究主任という立場上、また、校長からは「あなたは海外で仕事をしてきたのだからどんな逆境にも耐えられるはずだ」という変な思い込みから、学校には相談相手はいなかった。
なんとか研究発表が終わり、年度が替わった99(平成11)年4月22日、私の人生の中で忘れられない出来事が起きた。
この学校では、職員朝礼の前に、校長、教頭、教務主任、研究主任の4人で本日の業務に関する打ち合わせを行う。その打ち合わせの最中に、突然私は立ち上がり、校長に対して激しく怒りをぶちまけてしまった。どうしてそのようなことをしてしまったのか、分からなかった。言葉を発した後、私は呼吸困難に陥り、校長室で倒れた。パニック症候群による過呼吸状態であった。初めてのことで、とても怖かった。
私は校長室のソファに横になり、学校医と養護教諭がそばにいた。学校医は、これまでのストレスがたまっていたのだろうと話した。この日は早退して帰宅した。
しかし、帰宅後、さななる出来事が待ち受けていた。
テーブルの上にメモがあった。「子どもを連れて実家へ帰ります」・・・。こういう話はドラマだけかと思ったが、自分の目を疑った。静まり返った部屋の中でぼうぜんとしていた。この日を境に、私はおかしくなっていった。
うつ病と診断されるのに、そう時間はかからなかった。
校長に病気のことを話し、学校での勤務の合間を縫って、時間休(1時間単位でとることができる休暇)を使って病院に通う日が続いた。
「早く治したい」という自分の意思とは裏腹に、なかなか症状が改善しなかった。子どもの前に立つことがつらい日もあり、たびたび学校を休むことも。校長の勧めで、一時入院した。
研究公開、パニック障害、離婚など、この学校ではいろいろなことがありすぎた。気分を一新するため、2001(平成13)年4月に転勤したが、そこでさらなる問題が起きることとなった。
私は保護者の目を避けるため、隣町の公立病院の心療内科に通っていたが、その私の姿を保護者が見つけたのだろう。大阪府池田市の大阪教育大学附属池田小学校で事件が発生した01年6月8日、学校に匿名の電話がかかってきた。
「おたくの学校に精神病患者の先生がいるようだが、大丈夫なのか?」
私はこの電話のことは知らなかったのだが、翌日、教頭に呼び出され、「昨日、学校に匿名の電話があったが、あなたは精神病患者なのか?」とただされた。私はあ然とした。
転勤した際に、校長と教頭には、私の病気のことは説明したのだが、この教頭はまったく理解していなかったのである。このことはすぐに同僚も知るところなり、次第に学校から私の居場所がなくなっていった。心療内科の主治医からは、快方に向かっているとの説明を聞き喜んでいたのだが。
再度、入院することとなった。02(平成14)年1月の3学期からは復帰できると主治医から診断書をいただいたが、校長の回答は「ノー」。復帰してほしくないということであった。
どうすることもできなくなった私がとった手段は、自殺であった。
昔、かぐや姫が歌っていた「マキシーのために」の歌詞を思い出した。この曲は実話で、学生運動に参加し、その後自殺した女性をモデルにしている。その歌詞の中に、睡眠薬のことが出てくる。家には睡眠薬はなかったが、その代わりに抗うつ剤ならたくさんある。何も考えず、70錠近く飲んだ。本当は死にたくないのに、このような方法でしか抗議できない自分が悔しかった。
私のこの無念の思いを誰かに伝えたくて、インターネットの電子掲示板に書き込んだ。「死にたくはない・・・」と。
矛盾するような行動だが、自殺を図ろうとする人の多くは、本当は死にたくないのである。この世に自分の居場所がなくなり、自分の話を聞いてくれる人がいないという絶望感から、このような行動をとるのである。
次第に意識が朦朧(もうろう)としていく中で、救急車のサイレンの音だけが大きく聞こえた。ネットの電子掲示板の私の書き込みを見た大阪と福島の方が、私の地元の消防署に連絡をしてくれたのである。
胃が洗浄され、血液の透析を受けた。私の赤い血液がゆっくりと透析機へ流れていく。約6時間、その様子を眺めていた。
「自殺は止めよう」
私が学校に復帰して、子どもたちの前に立つことはなかった。主治医は、「うつ病のときは一人で大きな物事を決めてはいけない。家族と相談しなさい」と言われたが、仕事のことで離婚し、アパートには私一人。親に迷惑をかけることもできない。
もしかして、私の病気は、学校を辞めることで治るのではないだろうか。
そう考えるようになったきっかけがあった。主治医の勧めで、近くの公民館でボランティア活動を始めた。パソコンを教えるボランティアである。20代から80代までの受講生さんと接していく中で、自分が変わっていくような気がした。私の過去を知る友人からは、「顔色がよくなった」「笑い顔も出るようになった」と言われるようになった。
教育は学校だけではない。公民館にも学びたい人はたくさんいる。私はそのような人に教えていきたい。いつの間にか、前向きな考え方を持つようになった。
最終回に続く
引用
http://news.livedoor.com/article/detail/4342631/
http://news.livedoor.com/article/detail/4344504/
「どんぐりの背比べ」(文章 原案)
文 ヨシ ・ 作画 瑞・葉☆
どんぐりは、木になっている時は、木と一体で、
自分は「木」であると思っています。
でも、時が来ると、木から落ちて離れてしまいます。
そうすると、どんぐりは、もう「木」ではなくなります。
そして、「自分は、どんぐりなんだ。」と思い信じます。
でも木は どんぐりのことを
自分の可愛いこどもだと思い続けます 。
いつまでも愛し続けるのです 。
しかしどんぐりは 地面のことしか目に映りません。
もう木の事なんか、すっかりわすれてしまいます。
そして目の前の 同じ木で育った兄弟ドングリと
大きさや、背の高さや、色・艶・美しさを比べ合い競い合い
それに夢中になってしまいます 。
とうとう、中には憎しみ合い殺し合うどんぐりまで出てきてしまいました 。
元は同じ「木」だったのに・・・。
終に、どんぐりは、一番大切なことをわすれてしまいます。
そう、どんぐりは、本当はどんぐりなのではなく、
「木」であったことを・・・。
自分は 本当は「木」になれることを・・・。
「木」は、そういうドングリを見て、悲しみました。
みんな 自分の可愛い子供たちです。
「木」は、子供たちに愛で呼びかけ、そして、「太陽」にお願いして、
陽の光をもっと当ててくれるよう頼みました 。
競い合うことに疲れたどんぐりたちのうち、
その呼びかけと陽の光に気づくどんぐりが現れました。
そのどんぐりは、自分が「木」であったことを
とうとう思い出しました。
自分は本当は 木になれるんだということを 。
そうすると後は自然とどんぐりから 根が出て芽が出てきました。
そのどんぐりは すくすくと育ち
立派な「木」になりました。
その「木」は特別な木でしたので、
隣の木と根でしっかりと繋がりました。
そして「木」と「木」は根で繋がり 森が一体となりました。
すると 森と森も根で繋がりました。
とうとう星全体が一つの森となり 「木」はすべてと繋がりました。
最初に自分に気づき、
「木」であることを思い出したどんぐりこうささやきました 。
「あぁ、みんな同じ”木”みんなは ひとつ」
そして、どんぐりたちはいちばん最初に ”木”になったどんぐりを
「成長したどんぐり!!」と言いました。
そして、自分たちも同じように成長できるんだ
そう気がつきました 。
その後時が経って
”成長したどんぐり”は 枝一杯にどんぐりの実をつけました 。
その沢山のドングリのうち、冒険心に富む一つのドングリが、
産まれた星から飛び出して、違う「星」に旅立っていきました。
ヨシ
マゾン書籍などインターネットからも9月 発売☆
ひとりでも多くの人に知ってもらいたい
アセンションの真実です。
やがて残る心が愛だけでありますように・・・
愛が基準の惑星になりますように・・・
全ての心の基準が 愛だけに なりますように・・・
苦しいときも 悲しいときも
辛いときも 分かってもらえない寂しい夜でも
どれもが同じ愛 すべてが愛なのだということ
すべての兄弟どんぐり達が
愛を基準に 行動を起こしますように・・・
一個のどんぐり兄弟 瑞・葉☆と(なんとなく)アミから
宇宙大の愛をみなさんへおとどけしたいのです。
LOVE AND LIGHT
引用
http://ameblo.jp/mya-myaon/entry-10337495424.html
■半径9mmに地球が集中すれば はい、ブラックホールの完成
なんでも飲み込み、入ったら二度と出ることができない、宇宙でもっともヤバい存在…ブラックホール。今回は宇宙の謎の大トロともいえるブラックホールの謎に迫ります! さっそく、『ブラックホール宇宙』の著者である、大阪教育大学の福江純教授に話を伺ってみました。
「ブラックホールは膨大な重力が1点に集まったもので、あまりに重力が強すぎるため、時空や光を曲げてしまうんです。地球1個分の質量(6000000000兆トン)が、半径9mmの球に集中していることを想像してください。それぐらいブラックホールは高密度なんです」
小指の先に地球が! やっぱりブラックホール、ヤバい…。
ところで、時空を曲げるっていったい…?
「通常、光は直進しますが、これは光には最短経路で進む性質があるからです。しかし、ブラックホール周辺では、光は直進することができず曲がってしまう。質量がないはずの光をなぜ重力で曲げることができるのかというと、重力が空間自体を曲げてしまっているからです。光は真っすぐ進んでいるつもりでも、外から見ると曲がって見えるのです。仮にブラックホールの中から外に向けて光を放っても、中心方向に曲げる力の方が大きく、光はブラックホールから脱出できず、中心に戻ってしまいます」
空間ごとゆがめるなんて…人間が入ったらちょっとヤバいカタチになるかも…。そもそもブラックホールはなぜ誕生するんですかね?
「ブラックホールは非常に重い星(太陽の8倍以上の重さ)が爆発した後に誕生します。星の命は“太く短く、細く長く”です。重い星ほどたくさんのエネルギーを使って光り輝く(熱エネルギーをつくる)ので、そのぶん燃費が悪く、数百万年ぐらいで燃料を使い果たしてしまいます。星の状態が安定しているのは、熱による膨張と重力が釣り合っているからで、エネルギーを使い果たした星はバランスを失い爆発してしまいます。その時、星の表面は飛び散りますが、中心核は爆発の反作用などの影響で非常に高密度になり、圧縮されて縮んでいきます。物を圧縮すると、重力が大きくなるので、星は自分の重力に耐えきれなくなり、中心に向かって崩壊し始める。こうなると歯止めがきかなくなり、倍々ゲームで重力が増え続けた結果、ある時点でブラックホールが誕生します。ブラックホールが別名“重力崩壊星”といわれるのはそのためです」
なるほど…なんだか分かってきましたよ。オニギリを握り倒せば、いつかはブラックホールができるんですね! でも、ホントにブラックホールはあるんですかね?
「ブラックホールはアインシュタインの相対性理論から導き出されたものですが、すでに50個ほどの存在が確認されています。それも確認されているだけなので、実際は少なく見積もっても約1000万個のブラックホールが銀河系にあるでしょう。しかも、各銀河の中心にはとてつもなく巨大なモンスターブラックホールが存在します。我々がいる天の川銀河の中心にも“いて座A*”という、太陽の370万倍もの質量を持つ、半径2000万kmのブラックホールがありますよ」
う~ん、宇宙アブねぇ…。
そんなにブラックホールがあったら、いつか宇宙を自由に行き来できるようになった時に吸い込まれることも…。ならば、思い切って自分から吸い込まれてみますか!
■ブラックホールに入っても 中心にたどり着くまで生きている!?
時間や空間、光すらねじ曲げ、なんでも吸い込むブラックホール。その正体は、爆発した星の残骸の重力が、ビンビンMAXになったものだ。で、実際、ブラックホールの中に入ったらどうなるんスかね? 『ブラックホール宇宙』の著者である、大阪教育大学の福江純教授に、僕がブラックホールに入った場合の変化をシミュレーションしてもらいました。
「例えば、半径30kmの一般的な大きさのブラックホールに近づいてみましょう。まず、ブラックホールの半径の3倍(90km)まで近づいた時点で、どんな物体でも重力に引かれて引き返せなくなります」
おおっ! ブラックホールに吸い寄せられて落ちていきます。
い、痛い! 全身がいだいよ! それに熱い!
「実は、通常の大きさのブラックホールだと、近くまで行くと潮の満ち引きと同じように重力源に近い方と遠い方を引き伸ばす力(潮汐力)が強く働きます。体は落ちる方向に引き伸ばされ、側面は縮められ、ブラックホールに入る前に引き裂かれてしまいます。もちろん、周りのガスの温度が高ければ焼かれてしまいます」
そ、そ、そんばぁ…ひでぶ!
…ひどいじゃないですか先生…やっぱりブラックホールには入れないんですか!
「今度は半径3億kmの巨大なブラックホールで、ガスの温度はとりあえずなしにして考えましょう。この場合、潮汐力は小さくなるので、ブラックホールに入ることができます」
おおっ! 体がどんどん引き寄せられて、目の前になんか黒いのが見えます。ついにブラックホールに突入かっ! どうなる、オレ!
「ブラックホールの中心は重力が無限大になった“特異点”です。ただ、特異点そのものをブラックホールというのではなく、それ以上近づくと光すら引き返せなくなる境界線までがブラックホールと認識されています。その境界線を“事象の地平線”と呼び、特異点から事象の地平線までがブラックホールの半径です。もしかしたら、特異点にたどり着くまでは生きていられるかもしれません」
あぁ、いま通りましたよ、事象の地平線。前方に真っ暗な球が見えますね。ん? 周りは青い光がいっぱい!
「前方の黒いものが特異点で、周りの青い光はあなたと一緒に吸い込まれている惑星のガスや光です。後ろを振り返ってごらんなさい」
赤い光がいっぱい見えます! …あぁ、そうか。あの光はブラックホールの解明に挑んできた科学者たちの魂ですね?
「違います。赤い光はあなたの後に吸い込まれたガスや光です。近づいてくる光は波長が短くなるので青く見え、遠ざかる光は波長が長くなるので赤く見えるんです。これを光のドップラー効果といいます」
ひょえ~、これがブラックホールの中! ああ…アムロ…刻が見える…。あっ…。
「ついに特異点に到達しましたね。そこは重力が無限大になっているから、実は今の物理学では破たんして扱えません…要するによく分かっていないんです。一瞬で体がつぶれるかもしれませんし、どこか別世界へ出られるかもしれません。でも、私にはブラックホールに落ちていくあなたがまだ見えますよ」
え? 僕、もう中に入ってますけど…。
「実はブラックホールに落ちる人を観測すると、面白い現象が起こります。アインシュタインの一般相対性理論では、重力が強くなるほど時間はゆっくりと流れます。だからブラックホールに近づくあなたを私が見ていると、だんだんスローモーションになっていくんです」
ウソ! 一瞬で吸い込まれましたよ。
「それは私とあなたとで時間の流れ方の差ができたからです。仮に、あなたが1秒で吸い込まれても、私の時間では100時間や100日かけてゆっくり入っていくように見えるんです。そして、最終的にはブラックホールの手前であなたの体が止まったままの状態で見えます。これはとてつもない重力によって、時間のズレが無限大になってしまったから。ただし、光のことを一緒に考慮すると、実際はブラックホールに近づくと、光が届かなくなってくるので、あなたの体は停止するより前に、赤く暗くなり見えなくなります。時間のズレを無限大にする(止めてしまう)ブラックホールが、別名“凍結星”といわれているのはそのためです」
空間や光だけでなく、時間すらねじ曲げてしまうとは!
それに物理学が通用しない特異点って!
いつか科学の力でブラックホールの中身が解き明かされる日を期待してます!
引用
http://r25.jp/b/report/a/report_details/id/110000007568?vos=nr25ln0000001
http://r25.jp/b/report/a/report_details/id/110000007568/part/2
なんでも飲み込み、入ったら二度と出ることができない、宇宙でもっともヤバい存在…ブラックホール。今回は宇宙の謎の大トロともいえるブラックホールの謎に迫ります! さっそく、『ブラックホール宇宙』の著者である、大阪教育大学の福江純教授に話を伺ってみました。
「ブラックホールは膨大な重力が1点に集まったもので、あまりに重力が強すぎるため、時空や光を曲げてしまうんです。地球1個分の質量(6000000000兆トン)が、半径9mmの球に集中していることを想像してください。それぐらいブラックホールは高密度なんです」
小指の先に地球が! やっぱりブラックホール、ヤバい…。
ところで、時空を曲げるっていったい…?
「通常、光は直進しますが、これは光には最短経路で進む性質があるからです。しかし、ブラックホール周辺では、光は直進することができず曲がってしまう。質量がないはずの光をなぜ重力で曲げることができるのかというと、重力が空間自体を曲げてしまっているからです。光は真っすぐ進んでいるつもりでも、外から見ると曲がって見えるのです。仮にブラックホールの中から外に向けて光を放っても、中心方向に曲げる力の方が大きく、光はブラックホールから脱出できず、中心に戻ってしまいます」
空間ごとゆがめるなんて…人間が入ったらちょっとヤバいカタチになるかも…。そもそもブラックホールはなぜ誕生するんですかね?
「ブラックホールは非常に重い星(太陽の8倍以上の重さ)が爆発した後に誕生します。星の命は“太く短く、細く長く”です。重い星ほどたくさんのエネルギーを使って光り輝く(熱エネルギーをつくる)ので、そのぶん燃費が悪く、数百万年ぐらいで燃料を使い果たしてしまいます。星の状態が安定しているのは、熱による膨張と重力が釣り合っているからで、エネルギーを使い果たした星はバランスを失い爆発してしまいます。その時、星の表面は飛び散りますが、中心核は爆発の反作用などの影響で非常に高密度になり、圧縮されて縮んでいきます。物を圧縮すると、重力が大きくなるので、星は自分の重力に耐えきれなくなり、中心に向かって崩壊し始める。こうなると歯止めがきかなくなり、倍々ゲームで重力が増え続けた結果、ある時点でブラックホールが誕生します。ブラックホールが別名“重力崩壊星”といわれるのはそのためです」
なるほど…なんだか分かってきましたよ。オニギリを握り倒せば、いつかはブラックホールができるんですね! でも、ホントにブラックホールはあるんですかね?
「ブラックホールはアインシュタインの相対性理論から導き出されたものですが、すでに50個ほどの存在が確認されています。それも確認されているだけなので、実際は少なく見積もっても約1000万個のブラックホールが銀河系にあるでしょう。しかも、各銀河の中心にはとてつもなく巨大なモンスターブラックホールが存在します。我々がいる天の川銀河の中心にも“いて座A*”という、太陽の370万倍もの質量を持つ、半径2000万kmのブラックホールがありますよ」
う~ん、宇宙アブねぇ…。
そんなにブラックホールがあったら、いつか宇宙を自由に行き来できるようになった時に吸い込まれることも…。ならば、思い切って自分から吸い込まれてみますか!
■ブラックホールに入っても 中心にたどり着くまで生きている!?
時間や空間、光すらねじ曲げ、なんでも吸い込むブラックホール。その正体は、爆発した星の残骸の重力が、ビンビンMAXになったものだ。で、実際、ブラックホールの中に入ったらどうなるんスかね? 『ブラックホール宇宙』の著者である、大阪教育大学の福江純教授に、僕がブラックホールに入った場合の変化をシミュレーションしてもらいました。
「例えば、半径30kmの一般的な大きさのブラックホールに近づいてみましょう。まず、ブラックホールの半径の3倍(90km)まで近づいた時点で、どんな物体でも重力に引かれて引き返せなくなります」
おおっ! ブラックホールに吸い寄せられて落ちていきます。
い、痛い! 全身がいだいよ! それに熱い!
「実は、通常の大きさのブラックホールだと、近くまで行くと潮の満ち引きと同じように重力源に近い方と遠い方を引き伸ばす力(潮汐力)が強く働きます。体は落ちる方向に引き伸ばされ、側面は縮められ、ブラックホールに入る前に引き裂かれてしまいます。もちろん、周りのガスの温度が高ければ焼かれてしまいます」
そ、そ、そんばぁ…ひでぶ!
…ひどいじゃないですか先生…やっぱりブラックホールには入れないんですか!
「今度は半径3億kmの巨大なブラックホールで、ガスの温度はとりあえずなしにして考えましょう。この場合、潮汐力は小さくなるので、ブラックホールに入ることができます」
おおっ! 体がどんどん引き寄せられて、目の前になんか黒いのが見えます。ついにブラックホールに突入かっ! どうなる、オレ!
「ブラックホールの中心は重力が無限大になった“特異点”です。ただ、特異点そのものをブラックホールというのではなく、それ以上近づくと光すら引き返せなくなる境界線までがブラックホールと認識されています。その境界線を“事象の地平線”と呼び、特異点から事象の地平線までがブラックホールの半径です。もしかしたら、特異点にたどり着くまでは生きていられるかもしれません」
あぁ、いま通りましたよ、事象の地平線。前方に真っ暗な球が見えますね。ん? 周りは青い光がいっぱい!
「前方の黒いものが特異点で、周りの青い光はあなたと一緒に吸い込まれている惑星のガスや光です。後ろを振り返ってごらんなさい」
赤い光がいっぱい見えます! …あぁ、そうか。あの光はブラックホールの解明に挑んできた科学者たちの魂ですね?
「違います。赤い光はあなたの後に吸い込まれたガスや光です。近づいてくる光は波長が短くなるので青く見え、遠ざかる光は波長が長くなるので赤く見えるんです。これを光のドップラー効果といいます」
ひょえ~、これがブラックホールの中! ああ…アムロ…刻が見える…。あっ…。
「ついに特異点に到達しましたね。そこは重力が無限大になっているから、実は今の物理学では破たんして扱えません…要するによく分かっていないんです。一瞬で体がつぶれるかもしれませんし、どこか別世界へ出られるかもしれません。でも、私にはブラックホールに落ちていくあなたがまだ見えますよ」
え? 僕、もう中に入ってますけど…。
「実はブラックホールに落ちる人を観測すると、面白い現象が起こります。アインシュタインの一般相対性理論では、重力が強くなるほど時間はゆっくりと流れます。だからブラックホールに近づくあなたを私が見ていると、だんだんスローモーションになっていくんです」
ウソ! 一瞬で吸い込まれましたよ。
「それは私とあなたとで時間の流れ方の差ができたからです。仮に、あなたが1秒で吸い込まれても、私の時間では100時間や100日かけてゆっくり入っていくように見えるんです。そして、最終的にはブラックホールの手前であなたの体が止まったままの状態で見えます。これはとてつもない重力によって、時間のズレが無限大になってしまったから。ただし、光のことを一緒に考慮すると、実際はブラックホールに近づくと、光が届かなくなってくるので、あなたの体は停止するより前に、赤く暗くなり見えなくなります。時間のズレを無限大にする(止めてしまう)ブラックホールが、別名“凍結星”といわれているのはそのためです」
空間や光だけでなく、時間すらねじ曲げてしまうとは!
それに物理学が通用しない特異点って!
いつか科学の力でブラックホールの中身が解き明かされる日を期待してます!
引用
http://r25.jp/b/report/a/report_details/id/110000007568?vos=nr25ln0000001
http://r25.jp/b/report/a/report_details/id/110000007568/part/2

