袖すりあったご縁 | 自分で考えて生きる

 

お豆腐と卵で作る一品インスタでアップされていて作ってみた。

すごく簡単だった。インパクトはあったけど、味は個人的には普通だった。

よくあるある。笑

 

 

自分の人生の中で袖擦り合わす縁の中で

この人すごいなーーって印象に残っている人をたまに思い出して

ネットで検索すると、すごいことになっているのがやっぱりすごい。笑。

こんな人生を歩いているんだ。凄い。凄いのが、もっと凄いことになっている。

あと10年経過したら、どんなことになっていくんだろう。

努力と勉強の蓄積は凄い。

 

 

スタート地点から何か意欲の高さや伸び代の高さ、人間力の高さを感じる人って、

やっぱり外面も内面も飛躍して掴み取って充実させること成功している人ばかりだ。

とても励みになる。

きっとこの人、その後こうだろうなっていうのって、飛躍でもそうじゃない場合でも

ハズレがない。人間って見たまま、感じたままなんだ。

 

一歩一歩進んでいくことで、気づけば、あの時の自分では見たことがない

景色になっているというのが、生きていく醍醐味なのかもしれない。

 

大きな花でも、小さな花でも、どっちでもいいから私たちはそれぞれ頑張ればいいのだと思う。

 

 

体験していく景色色々だけど、歴史に残るような生き方をした人でも

コテンの歴史番組でハンニバルの歴史のお話は切ない話だった。

あれだけの賢さを持ち合わせ、凡人には持ちえない用意周到さがありながら、

最後自殺になってしまうお話は、どれだけ賢さを持っても

不屈の精神があっても、それを「怒り・復讐」を親友にしたり教師にしたりすると

切ない出口になるのかなと感じた。

負かした方は、あっぱれあっぱれなのだが、個人個人はそれでいいのだが

人類の歴史は、誰かが勝って誰かが負けて嫌な思いを引き受けるという

地獄からは誰も解放されない関係性になっている点は、なんとも狭い色合いだ。

 

怒りを敵と思わず、怒りの使い手になって、加害の処罰をして勝つことは多々あるし

称賛を受けることさえあるのは、周知の事実で、世間一般に広く知れ渡っていること。

でも、加害者を叩きのめして勝っても、どこか居心地悪さや外面上の恥ずかしさから自己防衛で

義憤の義憤の正当化を部外者にするのも人間特有の生きる知恵。

その正当化に味方してくれる友がいることで、人生は楽しいのだが

それ以上の奥行きに行くことがない。

 

どう考えても相手が悪いことはある。

誰に聞いても100%自分が正しくて相手が間違えている場合はある。

だから、その人を糾弾して打ち負かしても、罪悪感を感じる必要はないはず。

でも、正しい方が、幸せにならないのはなぜなのか?

間違えて怒られている方も不幸だが、間違えられて怒りが湧いて、

感情をぶつけている側も大変不幸であり、両方が不幸になっていく。

 

間違えている方が悪いが、その理屈で対処しても、堂々巡りで、看守と囚人の関係で

両方不幸である。

 

ということは、相手が100%悪くても、怒りや叱責でいかに迷惑しているか

変えて欲しいのか表現することは得策ではなさそうだ。

 

ということは、よく考えればわかってくる。

 

怒りは、敵に見るよりも、水や空気にしてしまうと乗り越えてしまえる。

敵にすると用心深く距離を保てるが、水や空気にすると、無害になる。

 

気づくと、景色が変わっていく。