怒りに至る前に介入する方法 | 自分で考えて生きる

 

 

今日も、3人分のお弁当頑張った。

季節外れの桜弁・・・爆。

 

この桜の型が好きすぎて季節関係なく

お弁当の飾り付けは、いつも桜になってしまう。

可愛い。

 

この位、怒りの手放しも好きになれば最高なのに。

考察が深まる勉強は好きでも実践となると

怒りは掴む前に何処から来るかわかる状態にいないと

怒りの方に鷲掴みにされる。

 

徳川家康の遺訓に「怒りは敵と思絵」とあるが

儒教を熱心に学んだ家康は、この敵とどんな風に戦って

この世界を去っていったのだろうか。

 

怒りについては哲学や宗教の中でたくさん語られており

これらの中で語られる前提は、物事の本質は、平和であって

この本質は、細分化ができず不変、日頃の私たちのように

相互関係の中で考えたり行動したりするようなものではなく

状況に左右されることがないもの、それが本質。

 

その考えから、合理的に考えていくと

変化するものは存在しないという話に行き着く。

そもそも、害をなすための意思も存在せず

変化するものが生み出されることはないという話になっていくので

やはり、世界は存在しないという帰結になる。

 

自分がいると思うから怒りというのはそこに依拠して出現する。

 

つまり、自分がいるという考え方を信じている限り

怒りを表現する経験は逃れられないという話になる

 

逆を言えば、真理は平和で未分化不可能なものであり

分離が不可能という考え方を自分の心に受け入れて

日常をその考え方から行動できるように訓練することで

怒りからは解放されるという理屈になる。

 

そもそも、真理が分離できるのか、できないのか

というよりも、どちらを信じるかで経験が決まってくるという

話だと思う。詰まるところ、攻撃可能だと信じているし

自分も他者もいるし、被害を及ぼせるしまたその逆もありうると

信じきっているからこその世界の様々な現象なわけで

 

よほど、怒りに違和感を覚え、「さよならしたい」という

強い動機が自分の中から生まれない限り

ここまで粘着質の構造を反転させるために日常の一コマ一コマを

活用していこうという動機にならない。

(この構造(怒り・罪悪・攻撃)を支える信念の柱が強固すぎて

すぐ薙ぎ倒されてしまうだろうと思う)

 

こうゆうことに興味があって実践している人を私は

あまり見かけたことがないし、生活レベルでは会わない。

 

ビジネスの世界では特にこうゆうことに興味が及ばないし

形を作ること、その仕組みについての勉強や成長が盛んで

見かけない。

 

パートナーと曜日を決めてシェアー会や勉強会を行い

自分の日常でやり続けて、またシェアーしあって概念的な勉強を行い

を繰り返し続けてきて思うのは、やっと自分の日常に自然な感じで

生活の一部として組み込まれてきたなという感覚だった。

 

もう気づけば、先が十二分に見えてしまう年齢になって

早い人生だったなと思う。

 

この先、どのくらい、世界は存在していないという考え方を

軸にした日常の生き方を自分の中で当たり前にしていけるか

わからないが、この考えを受け入れ実践していった先に自分が

経験していくものがどんなものになるのか楽しみにしながら

自分の日常を送りたい。