天使のLove Letter

天使のLove Letter

今ある大切な命 感謝です
神様 仏様 ご先祖様 皆様のおかげです
この世に生まれて 明日があった若い頃
明日がないかもしれない 歳を重ねた今
思い返すと色々ありました
今の歳だから言えることがあります
心自由に 生き生きと楽しく
人生観を綴ります

私は幼なじみの友と、いつも学校帰りに色々話しながら帰りました。

同じ親から生まれたのに、お姉ちゃんと私は大違い、お姉ちゃんは才色兼備でオルガン奏者も何でも上手に出来る。それに比べて私は病気がちで運動も下手、身長は低い、目は大きいが一重だし、

鼻はぺったんこ、歯は少し出っ歯で虫歯たくさんあり、色黒でほくろそばかすあり、お下がりばかり着ている貧乏に、時々お化けのような発疹が出る。オルガンも下手、頭も特に良いわけもなし、ぐうたらで自分の好きな事しかしない、小心者でいいかっこし~で、トホホ・・・どうせそうだも~んと言って開き直っておりました。

今考えますと何であんなに思い込んでいたのでしょうね?それほどひどく無かったのに、上ばかり見ていたのでしょう。

ひよっとして私は、橋の下からの子かなあ~とか話しながら帰っておりました。

男の子はどうせ、優しい心ではなく、意地悪でもわがままでも頭の良い可愛いお金持ちのお嬢さまのような子がいいのよね外見なのよね~クラスの可愛い子や姉を羨ましいと思っていました。

どうせ私達は、ブスでバカだから好きになってくれる男の子いないよね~

母が「上を向いてもきりがない下を向いてもきりがない自分が良い」と言ってましたので自分達を磨こうと言いながら、二人で男は嫌いだ、私達は一生結婚しないで女一人で強く生きていこうと盛り上がっていました。

わからないものです。この時はこの様な事を言ってたのに、現実は二人共早々と結婚しました。

大人になって姉は、小さい頃妹の私が可愛くていいな~とずっと思っていたと言うのです。そんな馬鹿な~隣の芝生は青く見えるのですね。

私は次女でしたので親は、上と下が可愛いと思っておりました。姉が怒られるのを見て同じことをしないように考え要領良くしてました。両親は、病気がちだった私に元気でいてくれるだけでいいと思っていたようです。ですから勉強しなさいともいわれず干渉されずに自由でのびのびとさせてもらえたような気がいたします。この頃の私のおバカなエピソードを1つ

 

 

                        海水浴の写真

 

北海道の夏は、短いですが、学校で1日海水浴の日がありました。

その頃子供海水着は、水玉模様でひらひらスカート首で紐を縛りペラペラビニールシートみたいな布地でしたが、それはもう古くワンピース水着が流行りでした。クラスの女の子で古いひらひら水着を着ているのは2、3人で貧乏な子ですあとは、流行りのワンピース水着です。貧しい子と言う感じが恥ずかしくカッコつけて、せめて水着だけでも(可愛いあのひまわりの水着)と思ったのです。

その頃テレビで日曜の朝(じゃじゃ馬百万長者)を見ていました。100万円あれば何でも買える大金持ちです(お金で買えないものは沢山あり世の中お金ではない事もわからず)そんなおバカな私は、町をウインドを見ながら歩き、もし百万長者だったらこれも買うあれも買うと想像して歩くのが好きでした。町のウインドに子供のマネキンが黄色いワンピース水着で大きなヒマワリが前についている今はやりワンピース水着に一目惚れ自分がこの水着を着たのを想像して欲しいな~と思いました。母に買ってと言っても(お姉ちゃんのお下がりがあるでしょう)と言うに決まっています。そこで私悪いことを考えました。そうだ穴をあければいいと、あのヒマワリの水着を買ってもらうには、この水着がやぶれればいいのだ、そこでハサミで1㎝ほど切って「母さん穴があいてる新しいヒマワリの水着買って」と言ったのですが、現実は厳しい想像と違いました。誰もどうせ見ていない一回きりの海水浴なのに見栄をはった私がおバカでした。ペラペラな古い水着の上にお尻に継ぎでした。クラスで一番私がひどい水着でした。トホホ・・・

ピノキオのように噓をつくとやっぱりいけないのだ、良いことないな~、父の(生まれるのも一人死ぬのも一人)と言った言葉を思い出してこれから私は一匹狼でいいわー、開き直りかっこつけずに細かいことは気にしないで、正直に私は私らしくと忍耐力の修行と思いましたが。命にかかわる事や言わなければいけないことはハッキリ言う事にいたしました。。

リンカーンの言葉に“Every man over forty is responsible for his face"40歳を過ぎた人間は、自分の顔に責任を持たなくてはならない。生まれつきの顔は親の責任だけど40を過ぎたら自分の責任顔は変わっていく内面にある人間性がおもてにでる。人間40歳も過ぎればその品性や知性・考え方がそっくり顔に表れる。どのような人生を歩んできたか、思いやりのある人は優しい顔に、明るく前向きの人は、朗らかに、意志の強い人は、しっかりとした顔に・・・

年を重ねると全てが衰えてきます。今は、自分のお金で、しょうと思えば、インプラント・差し歯・レーザー・整形・かつら・化粧色々あります。心も体も自分の努力ですが、年とってくると外見よりも内面何もしなくても自然にそばにいるだけで癒され笑い安心出来るのがいいですね。私なりに、内面も外面も磨き楽しみます。

私は二年生の冬、もうダメかと思うような病気をしました。小児リュウマチでした。

何日も高熱が続き身体じゅうに、赤い島のような発疹出てとてもかゆいのです。たまらなくて、かくと発疹は、赤く大きくなり熱も出ます。私は、母の背中におんぶされて、いくつもの病院にかかりました。

父と母は、なおらないので、お灸や神頼みまでしてくれました。ありがたかったです。

病気も何か意味があるのでしょうか・・・修行なのでしょうか?

毎日お布団で寝ていました。何もする事が出来ず、ふと、寝屋の天井や壁を見ると、前に住んでいた、女学生のお姉さんが、古い木の家でしたので、すきま風防止とインテリアをかねて、古いカラーカレンダーの絵画を、切り取り壁下半分と天井に何十枚も沢山貼ってありました。それまで気が付きませんでしたが、暇でする事が無かったので、お布団の中から毎日、色*構成*光と影*細かいタッチ等々ずーっと考えて見ていました。

今、思い返すと世界の有名な絵画ばかりでした。

ミレーの落穂拾い*ダビンチのモナリザ*ゴッホのひまわり*ミケランジェロの最後の審判*ルノアールのムーラン・ド・ラ・キャレット*モネの睡蓮etc・・・まるで世界の美術館でした。

そのおかげで私は、絵画コンクールで毎年特撰でした。(将来は、画家になったら)と言われていました。

この時に見ていたモナリザが18才の時に、初めて日本の東京上野美術館に本物が来たのです。私は、東京にいましたので、何十分も長い列に並び、2人の警備員が見張っているところを2メートル位離れた所から押すな押すなで見たのです、これが本物だと思いましたね。それから20年後位して、今度はフランス、ルーブル美術館で本物と再会いたしました。すぐそばから、私一人でゆっくりと鑑賞いたしました。大英博物館*バチカン美術館*ウイッツイ美術館*モンサンミッシェル*ベルサイユ宮殿*ノートルダム大聖堂etc・・・少しずつ見て回っております。素晴らしかったですね。見られた事に感謝です。

昔は、迷子にならぬように、幼い娘たちの手を握って歩いていたのですが、今では反対に、(お母さん、迷子になるよ)と、娘たちに手を握ってもらい東京ディズニーランド、シー、ユニバーサルスタジオジャパン、レゴランド、写真よりも美しい絵画のホキ美術館、東京の中心地とは思えない根津美術館、森美術館ミュシャ展etc・・・美術館巡り等大好きな私なのです。

 

 

    

 

 

また、その頃初めて死を考えたりしました。幼稚園の頃、お友達がずーっと来なくなった事を思い出して、私もかもと考えて、怖くて泣いたり、わめいたりしてました。

私は、どこから来たのとか考えて寝ました。すると夢を見たのです。それもカラーで!

私の背中に羽が生えて可愛い犬や猫の動物達を抱いて、お空の上の神様へ運ぶ天使の夢でした。私は、前世きっと天使と思ったのです。

母は、病気の私に桃の缶詰を食べさしてくれました。こんな美味しいもの沢山食べたいと思いました。食い意地が張っていたのでしょう。病気に負けるものかと思ったのです。それもあってか?

熱が下がり、父は、私を隣りの銭湯に連れて行ってくれました。父と一緒にお風呂に入って、お風呂のタイルに、水滴を指で集めて絵を想像して描くことを教えてくれました。父と(これ雲、これウサギ)

と長く浸かっておりました。

もう少しで日数が足りなくて留年するところでしたが、何とか学校へ行けるようになりました。

病気の時に学校へ行きたくても行けない辛さと、毎日寝ていることの、こんなにつまらないことと思いませんでした。

それからは、私にとって修行だったのかもしれません。季節の変わり目に発疹が出るのです。

大きくなると治るかもしれないと言われましたが。1人で病院に通いました。いつ出るのかわかりません。顔にも出るのです。鏡を見ると、お岩さんのようです。瞼は赤く腫れ、唇はタラコ唇、授業中も突然かゆくなるのです。いつも前髪を垂らして隠していましたが、ある時、男の子に見られて。わ~

おばけだ~とからかわれました。また消えて元に戻りますが、私にとっていつも下を向いていた暗い年でした。

アンデルセンの「みにくいアヒルの子」のように大人になると美しい白鳥になるかもとか、(鉢かつぎ姫)のように心を綺麗にすると本当の意味で美しいのだ、「美女と野獣」のように心を見なければとか思っておりました。

そのような経験と知識から、幼い頃のソフトクリーム、桃の缶詰のように、美味しいもので癒され目が光り輝き、強く元気になり感動します。私には、薬よりも美味しいものが効き目があるようです。

いつも食べると太るし病気になるので少しでも自分にご褒美と(馬に人参)の食道楽です。花粉症アレルギー体質ですので家の中でテレビを見ながら毎日2㎞ウオーキングランナーで歩くようにしています。歩いていると一休さんのようにひらめきます。水、空気、食事、運動、睡眠、心と出来る範囲で備えて免疫力をつけています。諦めずに(夢を持ち続けると花が咲く)のですね、今ある命に感謝・神様・仏様・ご先祖様・全てに感謝です。

 

幼稚園は港近くのかもめ幼稚園でした。走り回れるホール・たくさんのオモチャ・外にはブランコ・すべり台・・・(かもめの水兵さん)を歌い踊り毎日行くのが楽しみでした。

お遊戯会では、『舌切り雀』の雀役をしました。(心優しいお爺さんと欲張りなお婆さん)の話です。

大きなつづらと、小さなつづらとがあって、お爺さんは、年寄ですので軽くて小さなつづらを選び、お婆さんは欲張りなので大きなつづらを選び、帰るまで開けてはならぬの約束を、お爺さんは守り、お婆さんは途中で開ける。お爺さんのつづらの中は金銀財宝。お婆さんのつづらの中は蛇カエルごみ。そんなお話でした。幼い私は、人にも動物達にも優しく正直に生きなければならないのか~と思っておりました。

(お天道様が見ています)の言葉のように、広く優しい心でみかえりを求めずに、人に良いことをすると、心が明るくて元気になり、知らないうちに良いことが自分に倍になって返ってくるのです。

人に意地悪をするとそれもまた自分に返るのです。そのように教えられました。

私は祖父母と両親に、大きな机と椅子・ランドセル等々、買ってもらい毎日入れたり出したりして一年生になるのを心待ちにしておりました。

 

 

 小学校の頃は、日本の高度経済成長時代に入り、世の中、三種の神器(電化製品・テレビ・洗濯機・冷蔵庫)でした。でも、今のように夫婦共働きではなくて、乳児園も保育園もなく専業主婦が多かったのです。男が働いて妻子を養うのが当たり前でした。女は家計と子育てです。女を働かすと、男の甲斐性がないとか言われていました。男は、経済力があって精神的に余裕がある頼りになる誠実な人がいいと言う時代でした。私にも父は、子供がただいまーと帰って来ると、お帰りーと言える甲斐性のある男を選べとか言ってました。

私は、まだ小さな妹がおりましたので、父子家庭ではありませんでしたが入学式は父と2人で行きました。お父さんと来たのは2人だけでした。あとはお母さんばかりでその半分以上は着物に柄の黒羽織姿でした。1クラス42人で松組・竹組・梅組・桜組の竹組で女の先生でした。

入学式の思い出は、クラスの黒板一面に、カラーチョークでバンビの絵が描いてありました。小さい頃からDisneyオタクの私はサラサラとクレヨンで画用紙にバンビの絵を描きました。

先生他皆さんお上手~とビックリされたそうです。懐かしい思い出です。

ある朝、起きてみると家に細い足が4本で立っているような四角い箱のようなものがありました。見るとその中で、色は白黒ですが人が小さく動いて声が聞こえるのです。なんだ!これは?Disneyに出会った時のように驚きました。どうなっているのか、不思議で不思議でたまりませんでした。前には時計みたく小さな丸い1から12までのチャンネルがついていました。それがテレビでした。私の家は、洗濯機,冷蔵庫は遅く買いましたが、テレビだけは早く買いました。多分、父が欲しかったのでしょう。嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。それが、3日くらいして、朝起きて楽しみにテレビを見ますと、な、なんと、テレビがバラバラになっているのです。目が点になりました。大きなブラウン管とガラスで出来ている真空管とかすごかったです。買ってすぐ父が分解したようです。母は、ブツブツと独り言を言ってました。『馬鹿と天才は紙一重』 『馬鹿と鋏は使いよう』と、私は、意味が分からず、「母さん、父さん馬鹿なの?天才なの?」と聞くと、母は、天才に決まっているでしょうと言ったような気がいたしましたが母は、父に怒っているような気がいたしました。それから父は毎日、テスター、はんだごて、を使い楽しそうに組み立てていました。私は、「危ないから触るな」と言われて少し離れた所でずーっと見ていました。丸い映像が映ったり消えたり、音が出たり出なかったり、ガラスの真空管の中に光る電流が通るのを見たりしていました。それから1週間位たった頃でしょうか、朝起きるとテレビが映っていました。

「父さん凄い~」と思ったのですが・・・「あれれれ・・・なんか変だな~」テレビの中の映像が逆さまでした。父は、「しばらくこれで見てくれ」とか言ってました。私は、出来ない逆立ちをしてみたり、寝転んだりしてみていました。1ヶ月位たって朝起きると、普通に映りました。「ヤッター父さん凄い」と言って喜びました。何でもない普通にテレビが映る事が、こんなに嬉しい事とは、思いませんでした。その後も父は、石炭ストーブから石油ストーブに変わった頃石油ストーブも買ってバラバラにしてました。私だったら絶対にバラバラにしないのにと思いましたね。後でわかりましたが、父は、蒸気機関車*デイーゼル*電車等々何でも運転できる資格を持っていたそうです。その他にもテレビ石油ストーブの技術者資格も持っていました。紙芝居もなくなりラジオからテレビの時代です。

 

 

私は、勉強もしないでテレビ・マンガばかり見ていました。

女の子マンガは、マーガレット*少女フレンド*なかよし*りぼん*等々思い出すと・・・

リボンの騎士*ガラスの城*ハニーハニーの冒険*アタックNo1*チッチとサリーの小さな恋の物語*たそがれ時に見つけたの*はいからさんが通る*有閑俱楽部*ベルサイユのばら*王家の紋章etc・・・

男の子マンガは、ジャングル大帝*オバQ*おそ松くん*ゲゲゲの鬼太郎*巨人の星*あしたのジョー*火の鳥etc・・・

テレビ番組では、大人は、レスリング*ボクシング*を手に汗して応援し、ニュース*ジェスチャー*のど自慢*母は、きょうの料理*昼メロ*父は、将棋*碁*子供は、(着ぐるみ姿の可愛い)チロリン村とくるみの木*(大人になったら絶対レンガの家にしょうと思った)ブーフーウー三匹の子豚*

(人形が可愛い)ひょっこりひょうたん島*(ほうれん草の缶詰めがすご~い)ポパイ*(アメリカ家庭ドラマのレディーファースト、コリー犬、車、電気製品全てに憧れ見ていた)名犬ラッシー*少年ケニヤ*南海漂流記*(シェーをした)おそ松くん*日曜日お昼は、「兼高かおる世界の旅」を楽しみにしておりました。流れる「80日間世界一周」の曲を聴きながら、よその国行ってみたいと夢みておりました。私が生きている間に飛行機に乗れるかな~とか、外国を旅する事を夢みていた子供時代です。

また本棚には、キンダーブック*原色百科事典*国語辞典*漢和辞典とか色々ありましたが、調べるのに時間、手前が、かかりました。姉は、図書館に行って調べてました。面倒くさがりな私は、調べませんでした。それが今は、パソコン・スマートフォン検索で直ぐに解ります。時間も手間も場所も要らないすごい時代になりました。テレビもブラウン管のないフラットで板のような4K60V型大型画面チャンネルも離れてできます。最近の子供は、テレビよりSNS、タブレット、インターネットの時代になりました。

私が15,16の頃よく父は、未来は太陽光発電になるだろうとか、情報処理の先生が君たちが大人になったころ携帯電話*ノート型コンピューターになると言ってました。(その頃コンピューターは畳位の大きさで何個も使い磁気テープでした。)なに~夢みたいなことと、笑っていました。

あの頃想像していた、空飛ぶ自動車、ロボット、レーザーで病気がなおり、瞬間移動、若返り薬、もしかしたら夢ではないかもですね。

子供頃、重たい買い物を持ってずーっと歩きました。今は、自分の車を運転して携帯電話を持ち歩いてます・・・素晴らしい時代になり・・・感謝です。

今考えますと、父が国鉄マンだつたからでしょう。幼い頃から色々な所に連れていってもらいました。

『井の中の蛙大海を知らず』と言う、ことわざがありますが、私は大海を時々見る事ができた田舎の幼児でした。

妹が生まれる前には家族4人で、憧れの登別温泉第一滝本へ温泉旅行に行きました。その頃登別温泉の地獄谷はブツブツと沸騰して白い温泉がたくさん噴き出しておりました。子供心に恐ろしくて恐ろしくて、これが本当の地獄と思いましたね。登別温泉はその頃は、男女混浴温泉で、家族4人でお風呂に入って、私は、あまりの温泉の広さと、お風呂の数にビックリしました。あれから50年すぎ、あの幼い頃思い出の登別温泉第一滝本へ、妹の運転で年老いた父と母を連れて家族5人水入らずで温泉旅行に行きました。それは、家族にとって嬉しく*感無量*でした。温泉に入り、みんなで美味しいご馳走を食べすぎてトドのように横になったのが、今は、楽しい思い出でとなっております。*登別第一滝本温泉旅行*

 私は、聞き分けの良い、我慢強い、おとなしい子供だったようです。それで父は、私をどこへでも連れて行きました。今思うと、母は、「何でも要領本文にすべき」と、よく言っておりましたので、きっと父に、私の子守をさせながら父の監視もかねて子ずれで行かせたのかもしれませんね。

父の自転車に乗って夏は、よく海にも行きました。私は、浜で父が泳ぐのと潜るのを見ていました。昔は、ウニ、ひる貝、ナマコ等々とって焚火で焼いて食べたりしてました。新鮮でとても美味しかったです。紺色の日本海が夕焼けに染まるのを見ながら父の自転車に乗って帰りました。

 父と初めてカラーの映画を見にも行きました。内容は覚えていませんが、幼心にとっても色鮮やかでインドのタージマハール白いお城が綺麗だったことだけ覚えております。

 その頃は、札幌に行くことは、凄い事でした。なかなか留萌の町からは札幌どころか旭川まで行くのも凄い事でしたのに、昭和36年か37年頃、父は、幼児の私と姉連れていってくれました。国鉄マンでしたから運賃は、無料でした。札幌の藻岩山ロープウェイに乗り山の上から見る札幌の景色は、広くてビックリです。大通公園のテレビ塔、噴水、雪印パーラーでのアイスクリーム等々・・・大きな本屋さんに長い時間いたことそこで父は、難しい本を何冊も買っておりました。私達には、留萌には、売っていない勉強ドリル、参考書など買ってもらった事を覚えています。そしてまた札幌から留萌へ何時間も(白い煙を吐きながら走るD51蒸気機関車)に乗って帰りました。私は、ずーっと窓の北海道の景色を見ながら考え事をするのが好きでした。そのせいか、今でも好奇心旺盛で旅行好きな叔母さんです。

この頃は北海道の札幌が私にとっては大海でした。今この年になって自分で少しですが世界をめぐって見て思いますことは、幼い頃は、自分が恵まれているとは少しも思わず、あまえて不平不満さえ言ってましたが、今でも世界中で子供達がしたくても勉強も出来ず貧乏で、自由も平和も安全もなく働いている子供達を見て、自分が自由で平和な日本の一番いい時代に生まれ育ったと思います。

神様*仏様*ご先祖様*両親*すべてに合掌*感謝です。