あらすじ

英国支配からの独立の気運が高まりつつあるインドにあるチャンドラポアという架空の都市が今回の舞台です。二人のイギリス人女性アデラとムア夫人は、アデラの(ほぼ)許嫁でありムア夫人の息子である、インドの治安判事ロニーを訪れ、そこで彼女らはムスリムのインド人青年医師アジズに出会います。アジズは、「本当のインド」を探し求めるアデラ(彼女の苗字は‘Quested’)と付き添いのムア夫人をマラバール洞窟へ案内することになるのですが、そこで起こるある事件が引き金となり、支配者陣と被支配者陣が対立する裁判に発展することに―。

 

A Passage to Indiaを読み終わり、フォースターの未読長編は残すところThe Longest Journeyのみとなってしまいました。フォースターの文章は正直あまり易しくはないですね。今回はけっこう苦戦したので、瀬尾裕氏の訳本も参照しながら地道に読んでいきましたよ。(途中からはストーリーそのものよりも、「この部分、今度はいかにして意味のとおる日本語に変換してくれるんだろう?(ワクワク)」といったことを考えながら読んでいました。)

 

娯楽的な面白さという点で、今まで読んだフォースターの長編におけるAPTI(←A Passage to Indiaの略)の位置づけを直感的に決めるならば、面白くないほうに入るかも。難しいところだけれど。あくまでも相対的にみればの話です。もちろん作品は面白く(interesting)、他の作品にもみられるフォースターらしい文章も健在でしたので、そこは楽しめました。インドの淀んだ空気や溶けるような暑さ、満員電車の臭い、昼間の熱風が嘘のような夜の静けさまで、リアルに伝わってくるのも良かったですね。ただ、あまり喜劇的な場面はなかったように記憶しています。政治的な要素が強いためか、あるいは「フォースターの傑作」と巷で称されているせいか、「傑作」のわかる人間になれねば、という文学スノビズム的なプレッシャーもあり、肩に力が入っていたのでしょう。(苦笑)とにかく、私もアデラと同様に、この作品を読めば「真のインド」的な何かを垣間見ることができるのでは、という淡い期待を胸に本のページを開いたのでした。

 

さて、まずは全体的な印象について。小説を読んでいると、よくみる「イギリス人とインド人の友情は成り立つのか?」という問いが想起させるような、この作品が「イギリスVSインド」という単純な図式を呈する作品ではないことが分かります。インド側にも、ムスリムとヒンドゥー教徒との間の緊張や、西洋教育の洗礼を受けた者とそうでない者が描き出されています。イギリス側もしかり。支配者側の傲慢無礼な態度をそのまま擬人化したような人間もいれば、大学教授フィールディングのように被植民者に同情的な人もいる。あるいは白人は白人でも、イギリス本土の洗練された「文化的」生活からかけ離れたインドにいることにコンプレックスのようなものを抱いているふしがあるようにも感じました。

 

物語のメインイベントである裁判が起こり、イギリス側とインド側の溝はいよいよ深まるのですが、その争いに関しても原因となったマラバール事件は「台風の目」のような状態で、みんなの関心は裁判の争点以外のところにあるような、火のないところに煙がたっているかのような滑稽ささえ感じられました。それはまるで、マラバール洞窟という源からインドという場所に充満した見えない力のようなものがあって、それが人種の別なく人々を翻弄しているかのようでした。

 

もちろん本当にそんな力があるかは分かりません。「本当のインド」なるものを求めるアデラも、異文化性を乗り越えた友情を信じようとするフィールディングも、インドという場所にはそんな神秘的な‘mystery’があるのではないかという期待を抱いているように思えました。だからこそ、掴みどころのない‘muddle’を目の前にして、結局インドとは渦のような混沌にすぎず、それ以上でもそれ以下でもないのではないかという虚無感を抱いたり、落胆したり、不安になったりするのかなと思いました。

 

と、ここまで書いたところで、なんと具体性を欠いた感想文だろうと我ながら思ってしまいました。(笑)正直なところ、物語のところどころに挿入される哲学めいたパッセージが私にはちょっと難しかったんですよねぇ。

 

最後に、この作品に対する読者の感想で、興味深いコメントを読んだので触れておきます。それというのが、この小説はイギリス人目線の一方的なインドの表象だという類の批判なんですね。確かに、植民者側であるイギリス人のフォースターが虐げられた側のインド人の目線に立ってインドを描くのは、いくらインドへの理解があった彼でも限界があると思います。でもそんなことは作者ももちろん承知のうえだったと思うのです。作品の題であるA Passage to Indiaというのも、主たる名詞はあくまでもIndiaではなくpassage(邦題が『インドへの道』であるように、「道のり」「過程」的なニュアンスが感じられる)です。しかもthe passageではなくa passage。この小説が「この小説こそがインドを映す鏡だ!」というような傲慢なメッセージ付きの作品ではなく、イギリスとインドの相互理解までの道のり、あるいはそのための一試みであるとでもいうような、フォースターの謙虚さが感じられます。もしそうだとしたら、「本当のインドじゃない」といった批判自体ナンセンスだと思います。むしろ人種や宗教や階級という基準で定義しようとしても手に負えないおっかない存在、それがインドなのかと勝手にわたしは納得しております。(笑)階級や性別という仕切りを超えた人間関係を書き続けてきたフォースターらしい作品だと思いました。

 

映画の方はまだ観られていないので機会をうかがってまた観てみたいです!