記憶として意識の上に覚えていることはたくさんあっても、
その瞬間、無数にキャッチしていたはずのあらゆる知覚的な情報は、ほんとうに忘れたつもりになって私たちは日々を生きている。
意識の仕組みは甘い。
実際に覚えていることのほんの一部しか、「覚えている」と認識してくれない。
 
 
あの日、あの場所にいた私は、たしかに五感を使って生きていて、いろんな匂いと手触りと感情の中で「私」を保っていた。
忘却の彼方に追いやられた記憶が、何かをきっかけにして一瞬で像を結ぶ時、
それを人は「昨日のことのように」感じるのだ。
 
 
YouTubeを観ていたら、リコメンドされたのは一本のライブ動画。
それは2014年の12月。場所は新宿。
大森靖子と前野健太のツーマンだった。

スマホの小さな画面に映るステージの上の2人を、私はあの日フロアで見ていた。
好きな人と手を繋いで、その繋いだ手を彼のパーカーのポケットに入れていた。

私には夫がいた。
私は恋人のためならすべてを失っても構わないと思っていたけれど、
彼は私を愛してなどいなかった。


 
いつも胸が痛かった。いつでも。その痛みは、もうずっと、はるか昔からそこにあるように、私の胸にズキズキとした生々しい疼きを伴って離れなかった。
 
胸に錐を差し込まれているような痛切さだけが、
私と彼の距離を覆っていた。もがけばもがくほど、その鋭利な切っ先が私に深く突き刺さるような、そんな関係だった。
会っている時の心は傷口そのもののように敏感なのに、
離れてみればただ息苦しかった。

会っている時間のすべてが過剰にサイケデリックで、
会っていない時間のすべてが無意味に灰色だった。

 行き場がなくて、逃げ場がなくて、自分自身も見失いそうで、愛のない体温がもたらす錯覚に縋り付いてどうにか息をしていた。


 
薄暗いライブハウス。
埃の匂い。
青っぽいダウンライトの中で2人が歌う。
美しいロックバラード。
彼の手の感触。
モヘアのマフラーの肌触り。
せり上がってくる涙の気配。
 

ソファに寝そべって何気なく観た数分間にはたしかに5年前の私がいて、
その代え難く濃密な空気を演者や観客と共にかたち作っていた。
光に照らされた塵がキラキラと綺麗だったこと、体を這うような振動と共に全身で音を受け止めたこと、私にとって特別な二人のライブを彼と一緒に観たいと思って誘ったけれど、彼と一緒なら本当はどこだって構わないとも思っていたこと。

四角くパッケージングされた映像だけでは到底伝わらない、圧倒的に個人的で、そして圧倒的に豊かな情景が薫り立つように像を結んだとき、私はあの冬の日を一瞬にして生きた。2019年の東京で。
 
 
 
壮絶な恋の日々が私に与えた影響は甚大で、多分、30歳の私が死んでもいいと思うほどの想いを誰かに手向けていなければ、今こうして恋愛ブログを書くこともなかったし、おそらく人生の道筋は、まったく違ったものになっていただろう。

 
無論、あれからさらに様々なことが私の身には起こり、その果てにあった目覚めと気づきのなかで、自分を変えていったということなのだけれど。


そう思うと、「愛か死しか欲しくない」と願うほどの経験は、人間を深く傷つけもするけれど、その分の実りをもたらしてくれるように思う。

軽度の後遺症はいまも残っているし、
心のわだかまりがゼロになったかといえば嘘になる。でもあの経験は、間違いなく私の財産だ。

大病も借金も水商売もやったことがない世間知らずな私の、人間の器をすこしだけ広げてくれた。


そんなふうにいまは思う。