最近読んだ「さとり系」の本に書いてあったんだけど、


感情から名前(ラベル)を剥がすと、それはただのエネルギーであるらしい。


エネルギーである以上は必ず通り過ぎてゆくもので、


なおかつ、その感情を拒絶しないで、どっぷり受け止めるほうが早く通り過ぎてゆくんだって。


私はもともと泣けない女で、


だから最近はもっぱら「号泣キャンペーン中」だ。


泣けないっていうのは、泣く自分を基本的に許せないってことで、人前ではもちろん、ひとりでいる時もほとんど泣かないで生きていた。


もともと泣かない子だったのかというとそんなことはなく、


小さなころは、繊細すぎるくらいに繊細で、泣き虫だったの。


でも、社会生活を送る中で(主に学校とかね)、こんなに傷つきやすくてはダメだ、ムキーって、自分のナイーブさを押し殺すようになっていった。


その変革の過程は、感じていた感情や場面まで、いまでも鮮明に覚えている。


それは、幼い私の生き残りを賭けた大いなる自己改革作戦だったのだ。



今でこそ、同性から「男前」なんて言われてしまうことが多々あるけれど、


それは、傷つきやすい内面を守るため、自分の中の「侍」をすくすくと育てて鎧を着込んで行った結果だ。


そういう男性性は、ときに役に立つこともあるけれど、


本来の女らしいしなやかなところや、揺れやすいところ、を、外に漏らさないように鉄壁のガードで固めているから、


放つオーラがたぶん「スチールっぽい」んですよ私は。
スチールは、西洋の鎧のスチール。冷たくて無機質で硬い。


そういうオーラを変えたいなと思って、


感情の海に揺れることを自分に許したの。


しかし。


よし、泣きたい時は泣こう!って、思ったはいいがチーン


そもそも、ここまで25年くらいかけて自分を鍛えてきたので、まず「泣きたい時」っていうのがわからない。


「泣きたいときは素直に泣こうね」と自分に言い聞かせてみても、


「うーん、べつにねぇなニヤリ」って感じ。


でも、泣きたいと思わないだけで、心は傷つくし苦しかったり痛かったりはするのだ。


その痛みを、私はひたすら手負いの野武士みたいに耐えてた。


それか、思考を使って、考えて考えて考えて、消化しようとしてた。(うーん、メンズっぽい)


でも、胸のあたりに湧いてくる、チリチリ感とか、ずーんとくる重さを丁寧に点検してあげて、


心が痛いなぁ、とか、心がつらい、たすけてよ。とか、クッションでも抱きしめて(だって女の子なんだもん!という気分で)呟いてみたら、


ふしぎとぽろぽろ泣けてきた。


あと、YouTubeで泣ける動画を観るとか、


泣ける音楽とか(どういう音楽でその時の私が泣くか、というのは重要な分析材料だ)


そういう代替手段でもいいから、


とにかく泣くこと!を、目的にしちゃってもいいかもしれない。


とにかくそうやって、「泣ける心」を思い出すことで、


ちょっとづつ感情が柔らかく動き出すような感覚をたのしむキャンペーンを、みんなやってみればいいとおもうよ!


自分を癒すというのは、


温泉にいったり、美味しいものを食べたりってことでももちろんできるのだけれど、


自分の中に深く潜って、


とにかく自分自身にOKを出すことをやれば、ノーコストである程度は叶えられるのだと思う。


エネルギーは出し惜しみなくねドキドキドキドキ