ま、タイトルの通りなんだけど。

 

人との距離感をつかむのが苦手な人っている。

 

 

私も人のことを言えるほどコミュ力が高いわけじゃないし、なんなら何気なく言った言葉があまりにあけすけすぎて、人から苦笑いされたり窘められたりすることは今だにある。

 

 

自らを「コミュ障」と自虐する人は、比較的若い世代に多い。

 

 

それって単に経験不足なんじゃないかと、多くの場合を見ていて思う。

 

 

私も若い頃は自分を「コミュ障」だと思っていて、

 

 

あれから10年くらい経つけど、気づけば自分のことをそんな風に思うことはなくなった。

 

 

この10年を埋めたものはなんだったのかと言うと、ひたすら他者と関わり続けたという経験だけだ。

 

 

ていうことは、

 

 

無論、発達障害とかで脳のシステムが少し違っていて、それでいくら経験を積んでもスムーズに人と関われない人もいるにはいるんだろうけど、

 

 

私の肌感覚だと、「自称コミュ障」の多くは、単に人との折衝経験が浅いだけってことになる。

 

 

 

まず、「傷つくことを恐れてバリアを張りつつ、同時に他者との繋がりを求めている」状態がコミュ障を発揮している心の素地にあるんじゃないかと思ってて、

 

 

人に心を開くタイミングがわからなくていつになってもよそよそしい人。

 

相手のパーソナルスペースを汲めずに近づきすぎて気味悪がられた人。

 

親密度と介入度の相関が読めずにたいして関係の深くない知人にも過剰にサービスしてしまう人。

 

あと、実際会うと人見知りで無口なのにメールとかLINEだとやたら饒舌だったり馴れ馴れしかったりする人。

 

 

いずれにせよ、なんかの失敗をして人間関係につまづいて傷ついた経験を元に、「自分はコミュ障なんだ」って思うのかもしれない。(で、自分はコミュ障なんだと思うことによってさらにコミュ障度が加速する)

 

 

でもコミュ力なんて、トライ&エラーの上でしか磨かれないし、いまは並みのコミュ力を持つ人たちだって過去にはたくさん失敗している。

 


だから「自称・コミュ障」の人は傷つき方が足りないとも言えるし、傷つくことが当たり前の人間関係に耐性ができていないとも言えるし、多少傷つくことがあっても得るものの方が多い人間関係の醍醐味をまだ知らないとも言える。

 

 

たとえば、傷つく時って、じっさいに心に(時に体に)不快感が湧いてくる。

 

 

その時に湧いてきた思考はとりあえず横によけておいて、

 

 

不快感のみに集中すると、それが人生を犠牲にしてまで逃げ回るほどのものじゃないってことがわかる。

 

 

今まで受けてきた傷は、蓋をするんじゃなくて、傷ついた自分ごと認めてあげるのがいいと思う。

 

 

その時にでてきた感情を否定しないこと。「あいつ死ね」と思ったことも、「死にたい」と思ったことも、とりあえずは否定しないこと。

 

 

でもおそらく一番大切なのは、自分に刃物を向けないことウインクウインク

 

 

自己否定の感情も否定しなくていいけど、

 

 

丸ごとの自分を受け入れ続けることができれば(それは魔法でもなんでもなくて、とても地道な作業です)、やがて自分を責めることはなくなるんじゃないかな。

 

 

どれだけ情けなくても、恥ずかしくても、醜くても、自分だけは自分のことを全力で愛してあげる覚悟を持つことが、

 

 

傷つくリスクを常に伴う他者との関わりあいに飛び込むだけの勇気をくれるのではないかと思う。

 

 

と言うか、自分以上に自分のことを理解してくれて、認めてくれて、愛してくれる人間はこの世に存在しないと思った方がいい。

 

 

親だって恋人だって家族だって、他者である以上、100%自分の思った通りに自分を愛してくれることは少ないよ。

 

 

だから、自分以上に自分のすべてを受け入れて愛してくれる他者の存在なんて、幻想だと思ったほうがいい。

 

 

でもそれは孤独なことじゃなくて、とても幸せな発見だと思います。

 

 

自分を見つけて、しっかり手を繋ぐことができれば、なにがあっても人は生きて行ける。

 

 

そんなふうに私は思います。

 

 

それがやがて、同じようなを外側からも引き寄せるのだと思う。