今、オリンピックが幕を閉じた途端、日本は、領土問題で熱くなっている。今日の新聞にも離島につての詳細な解説がついていた。現代国際法が整いつつある時点での話だ。が、フクシマなどどこ吹く風、核超大国、アメリカ、ロシアは、いまだ、核非拡散条約さえ批准していない。政府は、竹島について、国際司法裁判所に提訴するともいう。しかし、アフリカや、中南米で、ゲリラ組織や、テロ組織、クーデターがいまだ絶えないのが現状だ。それを、常任安保理で拒否権を、なりふり構わずふりかざす、アメリカ、ロシア、中国の身勝手さを考えると、どうも、あまりに国際法を仰ぐことが非現実的な話にも思えてきた。

もうお解りかもしれないが、後は、戦争というハードパワーの歴史に、時計を逆戻りさせる、右翼の方々には、ぼくが、売国奴と罵倒される立場になるまでだが。前にも述べた通り、ヨーロッパ近代史をみても、第一次世界大戦後、人類初の共同体、国際連盟の誕生をみるまで、英仏戦争あり、独仏戦争あり、仏西戦争あり、厳密に宗派を問えば別だが、キリスト教を信仰するという同根でありながら、今日の領土問題とさして原因のかわらない、地勢学的な事情で、荒れた農地など、人が集団で都市を形成して、何か繁栄させていこうという土地とは、おおよそ異なる重箱の角のつつきあいから、長くは、百年戦争となる間、多数の、婦人や、子ども、老人を含めた一般市民が戦争に巻き込まれて、尊い多数の人命の犠牲のもとに、戦争は終止符を打った。

一方、近代アジアの歴史をみても、今、日中韓露の北東アジアでは、第二次世界大戦で一般市民が目を覚ますまで、同じく戦争は続いた。孫文が成立させた中華民国の誕生前後、日本は、中国が、欧米各地から脈々と植民地化されたパワーバランスの低下をいいことに戦争を仕掛け、日清戦争、日中戦争、日露戦争、さらには、満鉄、傀儡政権満州国の樹立、朝鮮に対しても1910年に伊藤博文(後に朝鮮人に暗殺される)が、日韓併合を強行した。蒋介石率いる国民党が台湾に、中華民族の国を樹立するまで、日本は、台湾を領土とした。太平洋の南の島々も、次々と日本の領土に組み入れた。

よく、ときの政府は、「歴史的にみても我が国固有の領土である」と述べるが、どこをみて、「歴史的」というのか?2世紀、後漢のとき、使者が貢ぎ物のかわりに「倭」の称号を持ち帰り、「日の出づる国」つまり、「日本」が始まった。ただ、諸外国と地勢学上島国として、例外として挙げる必要があるのは、太平洋戦争中、欧米帝国主義がアジア進出に熱をあげ、それを阻止するため抵抗せざるおえない事態が生じたこと。あとは、元寇のときに、台風という天候が起因して、モンゴル民族の日本進出が果たせなかったこと。この二点を例外に、沖縄は、廃藩置県で、鹿児島県に組み入れられるまで、琉球民族として明と薩摩藩の貿易立国だったこと。蝦夷地は、アイヌ民族の生息地で、日本人にあの過酷な環境の北海道を開拓できなかったこと。これらは、何度も繰り返し述べた。

おおよそ、東北から、九州までが、大和民族が長らく暮らす日本の領土として、歴史上続いていた。確かに、北の海原の新鮮な魚が、美味しいのは認めるが。しかし、中南米、アフリカは、植民地として国境線を欧米列強帝国主義によって勝手に引かれたものであり、「歴史的に、我が国固有の領土である」というフレーズは通用しない。人類の歴史が始まって以来、各々の民族は、生まれ、廃れ、また新たな民族が産まれる。国土についても同じことが言える。むしろ、同じ国の中で異なる民族が対立することは多々ある事例だ。おおよそ、民族、国の領土は、戦争の推移によって変化する。カダフィー大佐が逃亡する最中、衛星放送は、その生々しい様子を画像で伝えた。政府軍と反政府軍とのせめぎ合いで、その領土は、瞬時のうちに変化していった。

しかし、今の時代、スポーツを通じて、本多圭祐は、かのロシアで活躍して、松井秀喜は、アメリカで活躍していたことは周知だが、世界で活躍する、陽の当たらない日本人も多くいる。または、2時間30分台でフルマラソンの記録を出した猫ひろしさんは、カンボジアに国籍を変更し、学問を通じて、89歳の米国出身日本文学者のドナルドキーン氏は、日本に国籍を変更した。芸術、文化、料理、その他、あらゆる私たちの活動についても同じことがいえる。それは、華僑が暮らし、在外朝鮮人が暮らしていことと同様だ。

今の現代社会で暴力をふりまわすことは、犯罪として扱われる。できるかぎりの知恵をしぼりながら、各々が、生きのびていくために、この地球で、生きていくことができる、自分を磨くことだ。今、民間が、世界の至るところで、しのぎをけずっているにも関わらず、日本の政府、政界の惨状をみれば一目瞭然だ。かれらには、何も期待できない。

かの有名な初の日本人宇宙飛行士、毛利衛さんの言葉を引用して終わりにする。「宇宙からは、国境がみえなかった。」
今朝、李明博が竹島に踏み入れたそうだ。あらかじめ断っておくが、私は右翼ではない。ただ、いかなるときも、領土問題については、できる限りの史料をお互いに照合して、議論をすすめていくことが大事だ。

そもそも、領土の根源は、そこに人が住んでいたという事実が、史実にどれだけ残りはじめているかによる。新羅の時代、竹島(独島)の隣の鬱陵島が独島だという記述が、今の韓国側の史実として古いらしい。日本側は、その何百年前から竹島で漁をしていた人々が数人住み続けていたらしい。

が、現代では、領土の紛争解決問題を照らし合わすのに、近代あるいは日本でいう近世の史料ではなく、現代の公文書を参照することが、国際法上、従うべきだと定められている。この現代の公文書によると、日本は、明治維新後、1905年に閣議で正式に竹島を島根県に編入したとある。韓国側は、まだ近代現代国家が成立する以前である。1910年に日韓併合があったが、第二次世界大戦を経て、日本は敗戦国となり、その後、マッカーサーライン、さらにはサンフランシスコ講和条約で、領土の帰属については、日米韓で争点となる。

そして、度重なる、韓国側による日本漁船の攻撃、拿捕などで、日本人44人が死傷されて、日本人約3000人が勾留された。その後、今日に至っては、国際司法裁判所に領土問題の紛争を付託することが国際法上、国際海洋法上、取り決められている。日本側は、重ねて韓国側にその国際司法裁判所への付託を要求したが、韓国側は、重ねて拒否している。領土問題の紛争が困難な場合は、国際司法裁判所は、その判決に基づく客観的な判断が、領土紛争の解決の従うべき道理だという判例が通説だ。だとすれば、それを拒否し続けている韓国側の法的優位性はきわめて劣る。従って、韓国が、一方的な竹島への実行支配続けることは、公式上、多々問題だ。

朝鮮民族は、ロジックより感性に流されやすいのが、一般的庶民の特徴であることはよく知られている。ロジックだけがすべてであると考えるのは誤りだが。一方で、日本のマスコミは、NHKは、大量の韓国歴史ドラマの放映に、税金を垂れ流して(私は、日本の醜い近世を描写する大河ドラマも絶対みない。例外は、西田敏行さん演じる、豊臣秀吉は、本当のこというと、子どものとき感動したが)、まして、民放デジタルは、ほぼ韓流ドラマに占拠されていた。確かに、それによって、領土問題抜きの朝鮮民族への親しみやすさを、結果的に爆発的なアピールに成功したかもしれないが。が、今度は手のひらを返して、ワイドショーは、ペヨンジュから竹島に差し替えて番組を、差し替えて編成するのならば、日本のマスコミの無責任ぶりもはなはなだしい。もちろん歴史の相違もあってか、朝鮮中央テレビはもとより、KBSも日本のドラマなど放映するつもりは全くなかった。幼稚園の童謡に、独島は韓国領だという歌まで唱わせる教育ぶりだ。にもかかわらず、ジャパンマネーは、いまだ韓国にとって重要な外貨獲得源であることに変わりはなく、戦争世代を通り越して、都市部の日本語熱は、冷めることを知らない。

近所同士仲良くないという。とくにあまりに接近していては・・・。客観的な史実を徹底的に追求すると同時に、主体的な日韓の平穏な関係を築きあげていくことが、今私たちに求められている。取り急ぎまで。

P.S.

追伸として。確かに、今回のロンドンオリンピックで、韓国は、金メダルの数で、日本をはるかにうわまわりました。それだけ、今韓国は急成長を遂げています。もし、GLOBAL KOREA として、名だたる朝鮮民族を、世界に知らしめたいのなら、優先順位の筆頭に挙るのは、竹島(独島)を実行占拠することではなく、苦難な歩みを克服して、朝鮮民族による朝鮮民族のための朝鮮半島の統一 (UNITED KOREA) を実現することです。この重大な順序をはきちがいないでください。そのあかつきには、真にアジア全体にとって、北東アジアの平和と繁栄が、もたらされることでしょう。

最後に、南北朝鮮の分断は、米国とロシア(旧ソビエト連邦)の二国間の関係によって起因した、悲劇の歴史であったことも忘れてはならないことです。
今日の新聞の政府広告に、海外旅行のおみやげに、ニセモノを持ち込むと、知的財産法に觝触すると、但し書きが記されていた。が、「ニセモノ」文化は、実に広い。主に、アジアでは、韓国、中国、台湾、香港、東南アジアなどである。一方、「ホンモノ」として、この知的財産法に擁護される対象は、主に、欧米である。この中で、例外として挙げなければいけないのは、北朝鮮の偽米ドル札の製造である。これは、同じ「ニセモノ」でも、おみやげとは異なる。世界の金融システムを根本から脅かす、明らかに国際法にも刑法にも違反する重大な犯罪行為だ。取締りは当然である。

しかし、日本の若い女性や婦人が、手頃なお値段で海外旅行からの帰国の際に持ち帰る、おみやげのニセモノは、私はふだん買い物をしないから、詳しいことはわからないが、ルネサンスの芸術の文化を後世に受け継ぐ、憧れの欧州ブランドだ。しかし、考えてもみてほしい。欧米のブランド会社は、本当に健全な経営に日々努力しているのだろうか?これだけ、円高、ドル安、ユーロ安、おまけにウオン安、という為替相場が変動しているにもかかわらず、国内での「ホンモノ」ブランド旗艦店で、これらの為替相場に対して、その値札は、微動だにしない。にもかかわらず、アジアのニセモノは、仕立てのランク分けまでしている。工場では安い労働力として経済的困窮から高等教育に恵まれない貧しい女工が、早朝から夜おそくまで搾取労働に従事して、欧州危機などどこ吹く風、アジア市場では商売繁盛に沸いている。新聞広告にもまさる、欧州ブランドの広告塔だ。めぐりめぐって、新興国の経済の成長は、新たな世界経済のマーケットとして開拓され、グローバルな経済浮揚効果にもなる。これだけでも、「ホンモノ」を法律によって擁護するに値するのかどうか、ぼくは疑問に思う。

宮中晩餐会でフランス料理が振る舞われることも一因なのか。ぼくは、FaceBookの社員のように、ラーメンなど麺類などでもススったほうが、皇室は国民により親しまれるとも述べた。維新以降、近代国家の建設を急ぐべく、長らく続いた「征夷大将軍」を廃止する代わりに、欧州の立憲君主制をマネた、つまり言ってみれば、「ニセモノ」の大日本帝国憲法を草案して、「天皇」というポストをこしらえた。ぼくに言わせれば、欧州の「王室」のニセモノだ。その富国強兵への道は、「ニセモノ」という神輿をかついで、「ホンモノ」を追い求めた者は、拷問を受け弾圧され、ヒロシマとナガサキで、日本人は頭を冷やさなければいけない運命の試練と向き合った。その後、敗戦後の荒野から、堂々の先進国への仲間入りを果たしたが、その勢いは、バブル期に燃え尽き、90年代以降、萎えた。欧米をモデルにする時代は、もうとっくに通り過ぎた。

むしろ、アップル社の iphone とサムスン電子のスマホ Galaxy は、「ホンモノ」か「ニセモノ」か、瀬戸際の訴訟が世界各地で繰り広げられている。国産の売れないスマホは、携帯各社による、値下げ競争の過熱ぶりが果てしなく続いている。また、国産の液晶TVは、買い手がつかないまま在庫がだぶつきそのまま眠っている。むしろ、有機ELのテレビは、韓国勢の「ホンモノ」が、次の家電攻勢に世界市場を虎視眈々と注視している。白物家電の中国勢の進出もそう遠くはない。日本の家電メーカーには、長期的な戦略ビジョンを描ける余地が、狭まっている厳しい現実を、打破するだけのバイタリティーが必要だ。そのためには、後発組のユニクロや楽天のように、会社の内部まで社員を徹底的に多国籍化するだけの覚悟がないと、激動を遂げる世界の趨勢図が塗り変わっていくグローバル化の嵐の荒波に撃沈するだろう。過去に群を抜いて栄光に輝いていた Made in Japan の信頼性に世界からのシュプレッヒコールが寄せられた時代は、化石となって埋もれてしまうのか。私は、既に若き時代に、お金がなくて買えなかったときから、Machintosh の虜になってしまったが、我が家では、今でも Windonwsは、VAIO。TV は BRAVIA を愛用している。是非とも、21世紀のSONYの活躍ぶりの姿を拝見したいという気持ちは、日本のみならず、世界での期待もいまだ健在だと思う。

話はかわるが、今、日本の鬱蒼とした社会的疾患を、魔法をかけて蘇らせるとプロパガンダを連発する、橋下などのネオナチに、平成天皇も胸を痛められておられることだろう。もう今の時代、あの太平洋戦争にように、いつまでも天皇陛下を祭り上げておくことは、これからの子どもたちには意味不明だ。それ以上に危険だと思う。

それが、エスカレートすると、誰かを祭り上げるということは、即ち、ほかの誰かをみんなでよってたかって虐げて、深刻ないじめへと追いやることもある。良識あるほかの子どもたちが、助けたくても、仲間はずれにされるのを恐れて、見て見ぬふりをせざるをえない実態、その惨めな実態を、おとなになってまで大多数の人々は引きずらざるを得ない、その容易にはどうにもならない、見過ごせない醜い現実こそ、いじめの陰湿さを蝕む一因だ。そんなリスクを、これからの子どもたちにも、過ちを繰り返した私たちと同じように背負っていかなければならないのならば、21世紀のこれからの日本人のマインドや、国のファンダメンタルズにも支障をきたす、「天皇」という、維新後続いたポストを廃止することに、国民的議論を起こしても良いと思う。

なんでもかんでも天皇陛下のせいにして、ふたたびまた戦争への道を誤ってすすむことのないように、日本人ひとりひとりが自分自身に自覚という責任を背負って、日本の国を共和制の国に移行することは、これからの日本の国益のひとつの手段として前向きに検討すべき課題だとぼくは思う。

これからの子どもたちは、自由自在にスマホやパソコンを駆使して、また20年後、30年後、私たちには想像のつかない機械を使いこなして、私たち以上にはるかに、ネットで、健全な論戦を繰り広げることをぼくは願っている。ネットで意見が述べられるのに、なぜわざわざ、ひとの意見は最後まで聴くことすらできない、田舎者の、ひとの発言を平気で妨げるヤジが飛び交う国会議事堂に何の存在価値があるのだろうか。また、反対に、役人が用意したワープロの文書を棒読みするだけの地方自治体の議員の仕事に魅力を感じる子どもたちは、ゼロだろう。何ごとにも例外は付きものだが、今の政治に携わる方々も、例外を除いて、ぼくに言わせれば自らの議席にしがみつくニセモノばかりだ。ようやく、行政のホームページに日本語、中国語、朝鮮語、英語が併記された。地方自治体のホームページに、住民からの要望を住民自身でネットに投稿すればそれで済む話だ。私見だが、10年後、20年後先に、スイスのような直接民主制が、日本の政治決定プロセスに相応しいと思う。

日の丸の由来は、昔、中国の漢から倭の国の称号を贈られたときに、中国への貢ぎ物を今後も献上するみやげに、隷属関係としての中国から見て東に位置するシンボルである日の丸が描かれたという説が圧倒的な有力説だ。「日の出づる国」、日本。何とも、太古の昔から、何ら文明を持たなかったこの国は、当時の先進国だった中国の屈辱的な態度に甘んじていた。中国の律令文明と、はるかインドから大陸を経てもたらされた古代大乗仏教を融合させて、日本独自の飛鳥文化をはじめて普及させた聖徳太子の活躍を基準に、それは、欧米人がキリストの誕生を境に西暦を使っているように、太古の時間を経て、今日に至るまで、親しみを込めて受け継がれている「ヤマト」のほうが、我々大和民族の国の独自の呼称として相応しいのではないだろうか。「日本」という呼称が如何にも漢民族の脈々と続く中国史から派生していた「ニセモノ」のように気になっていた。

北海道など、維新の前は蝦夷地として、松前藩以外に日本人など住んでいなかった。まして東北地方にまでアイヌ民族が点々と暮らしていたそうだ。「ヤマト」で区別すれば、一目瞭然なように、維新後、政府は、アイヌ民族を土人と呼び捨て、蝦夷地の彼らの土地を略奪して、文化を奪い、居住地を奪った。それというのも、シャクシャインの戦いでアイヌ民族が勝利した後、彼を松前藩の藩主は毒殺して、アイヌ民族の存在自体を殺掠した。北海道への大和民族の入植が始まり、それとともに1910年の韓国併合後、朝鮮民族までその先のサハリンまで連行して強制労働に従事させた。今の北海道の歴史には、苦渋の異なる民族の犠牲があったことを、日本人は必死になって風化させようとしている。むろん、アイヌ人が生活を営んでいた択捉島、国後島、歯舞諸島、色丹諸島は、アイヌ民族に返還されるべきだ。私見だが、せめてそれがかなわないのならば、先の国連での先住民族の伝統、文化の尊重を定めた憲章に従って、日本とロシアが共同で、アイヌ自治領を定めるべきだと思う。

まして、沖縄については、繰り返し述べているから簡単に省くが、沖縄は、大和民族の文化、料理、伝統、歴史などは全く異なり、琉球民族の土地として返還されるべきである。繰り返しになるが、琉球民族が在沖米軍の沖縄からの撤収を独自で決めればよいと思う。森本先生が沖縄に渡る資質はなにもない。石原先生などのネオナチズムの発言を耳にするだけで、気分が悪くなる。琉球王朝の一部であった尖閣諸島について大和民族が出しゃばるのは、沖縄の苦渋の歴史を侮蔑していることは、前にも述べた。

話がそれたが、戦後の平和憲法を後世へとバトンタッチできるように、石橋湛山先生がスモールジャパノロジーを唱えられていたことに私は賛成だ。大和民族が、春になるとビールでも飲みながら、みんなで盛り上がって花見をしたりする、かわいらしいサクラでも、国旗にしておけば良いのではないか。サクラが紋章のラグビー日本代表の戦いぶりは、無惨だが、奮闘している。

ばくは、自動車にはあまり乗らないが、この欧米からの輸入車の値段を新聞広告で見るたびにビックリする。あるいは、ショックを避けるためか、最初から庶民はお客様として相手にされないのか、値段を掲載していない場合もある。値段がついていても、国産車と違って、新聞広告の輸入車の値段の文字のフォントはあまりにも小さい。ぼくが、ユーロで覚えている限り、200円近くまでユーロ高の時があった。今は、百円を割っている。普通の商品なら半額だ。が、それらの車の値段も、微動だにともしない。

一方、その為替差益を欧米メーカーの日本法人が政治献金を払ってまで利益を得ているのならば、それは、日本の責任だ。そのヨーロッパでは、EUが誕生してからもう20年近く過ぎるだろうか。ぼくが旅行したときは、EU内の国境では、パスポートの提示もなく、また税関の検閲も何もなかった。一方で、日本政府は、アジアゲートウェイと音頭をとって、アジアの連帯を呼びかけていたはずだ。知的財産法など、内閣法制局の条文の作り方や、解釈次第でどうにでもなる。最後に繰り返しになるが、大多数の日本人は、手頃な値段で渡航できるアジア圏へ、安心して海外旅行できることを楽しみにしている。税関の検閲は、偽ドル札や麻薬密輸など、反社会的な類いだけの最小限度にしてほしい。

若者の海外離れが著しいと繰り返し聴くが、身近に異文化に触れることのできる海外旅行は、将来の若者の欧米への偏重からアジアへの留学への大事な踏み台になることを有識者は忘れないでほしい。これからの、みなホンモノの若者が、アジアを中心とした爆発している新興国と、友好関係を紡ぎあげて、新しい日本の未来の繁栄を開拓していくのだから。
今日、暇だったので、ネット経由でAV映画を観ていた。若かりし頃から、お世話になっているこの類いの映像。もっぱら、当然のことながら、ストレス発散を追求して選んだりしていた。しかし、この歳になって、もちろん普通の編成は、なんら興味の対象にはならない。ストーリー性を可能な限りまで厳選している。実にリアルな世界よりも堪能できることがある。今回、ネットで発見した映画は、観終わってからの印象として、実にコミカルに、しかし、社会風刺の展開に痛烈で、シリアスなパンチをくらった。いじめの問題は、今とても注目を浴びているが、この問題は、昔からそれ程、私たち大人が本当に真摯に向き合ってきたのか、非常に疑問のしこりがほぐれていないとぼくは思う。その映画自体は、登校拒否の少年に家政婦にふんじるAV女優が、性の世話をして、その少年の憂さを晴らし、登校拒否を解決するという一見、軽い物語だ。が、もしその少年が、まともに自分に襲いかかるいじめを苦に、自殺を考えたり、自分のなんらかの死と真正面からせっぱつまって向きあっている瀬戸際にいる実在の少年だったら・・・。私見だが、もしそこに、良識な風俗嬢が、性の手助けに手を差し伸べてあげることができたら・・・。むろん、甘ったれるなという批判は、多々承知だが、頭の鋭い女子と比較して、思春期の男子は、ましてそんな状況におかれている男子は、本当にもろい。教育委員会が指導だのなんだのと・・・事件が起きて尊い命が奪われた後では、本当に、いじめられている少年のことを親身になって、世話していると言えるだろうか?私は、タブー視されているところを見て見ぬふりばかりする「まとも」に取り扱われている大人より、いっときの性のお世話をする良識ある風俗嬢こそ、本当にその少年にとっては、まだまだ夢あふれて未来のある人生へ、まなざしをあたたかく育てあげることができる、立派な大人の役割を果たす女神様だと、ばかかとも思われるが、感動した。従来の役所の縦割りでは、到底考えられない話だが、ふと立ちどまって一考に値する映画に圧巻させられた。
諸兄諸氏の方にには、もうご承知の通りだが、ネットが普及する前まで、東京丸の内周辺では、右翼の街宣車が、高らかに、国威発揚の喧伝でごったがえしていた。私が、サラーリーマンをしていた頃である。今、右翼の街宣車を街で見かけることは、ほぼ皆無である。改造のないごく普通のセダンのバックウインドウに、静かにステッカーが貼られた車が、たまに通り過ぎるだけである。

さて、ネットが普及してからの世代を中心に、バカ丸出しの保守系の代議士と同じ作文のような、自主憲法制定会が、全国各地で催されていることを Facebook で知った。コメントをすれば、きりがないのでブログを書かせていただくことにした。

右翼、さらには、暴力団は、内部抗争と警察とのいたちごっこを通じて、物理的な暴力の使い方には非常にたけている。普通のサラリーマンの比ではない。どうしてかれらが、街宣車を使わなくなったのか。それは、かれらの街宣車が、ネットという嵐の台頭に、ほぼ永続的に、破壊されしまった状態にあると思う。

なぜか。今、ネットという情報の果てしない海で、私たちがもがいている様子を察知して、かれらは、もう自分たちの直接的な暴力の無力さを悟っている。そのしのぎも変化させていった。典型的な例が、成人サイトからカードの過払いを誘導する手口だ。ネット社会の爆発的普及で、店舗型のサラ金は、数少なくなった。今時暴力団が、市民に直接的に暴力をふるっても、一文のしのぎにもならない。

米国も、長らく世界の警察官として君臨して、物理的な戦術には、たけていた。そこに私たちと肌の色が異なるアフリカ系アメリカ人のオバマが登場した。かれらは、長年にわたって、白人社会から差別され、侮蔑され、貧困をしいられて、ハーレムでは、やはり日本の暴力団と同じような構図のもとに、かれらの独自の社会が成り立っていた。

が、ネットの発祥地アメリカで、アメリカ内部の人種構成も劇的に変わりつつある。近いうちに、白人のアメリカの人口に占める割合は、半数を下回る。かわりに、イスパニックが急増することで、政府は、米国各地の主要大学が、アメリカの凋落を食い止めるひとつの手段として、有能な研究者への永住ビザの発給に積極的らしい。しかし、バーガーチェーンや、ピザチェーンにしか外食産業の文化がなく、さらにそこにドライブスルーまで備わっている車社会には、うんざりすることは明らかだ。IT産業でさえ、韓国やインドの台頭がそこまで迫っている厳しい現実に打ち勝つ余力があるとは思えない。

そこで、私は、タイトルに孫子をつけたが、かの著名な言葉「己を知り、相手を知り尽くせば、百戦戦うとも、百戦負けを知らず」である。今の時代、私たちは、その言葉をどう受け止めたら良いのか。それは、情報の資源のほとんどがネットから流されて、その膨大な海の上で私たちがもがいている姿を、もう一度思い浮かべるほかない。

今世界で、戦争や紛争が収まらない所は、そのネット社会から疎外された場所に偏っている。だから、暴力団が、国威発揚を喧伝しても、一文足りともしのぎにはならず、かれらもまた、ネット社会で、六法全書をつぶさに精読しながら、頭脳をフル回転して、しのぎをけずっている。かすかに・・・残るのは、正月の餅つきくらいだ。

私たちは、それではどう戦えば良いのか。もはや、右翼の老舗の暴力団が、頭脳を使うのだから、おそらく、自主憲法などに自衛軍など盛り込むようでは、あまりにツメが甘い。村意識の強い日本は、新興国に素通りされることは、そう遠くはないうちにやってくる。やはり、暴力団や米国のオバマが使っているソフトパワーに注視するべきだ。

ネットからの情報という大津波が断続的にとどまらないこの時に、航路を精確に量り、私たちは、すぐれた食材なら、どこのすぐれた国であっても、栄養価のバランスの優れた和食を摂取しながら、バランスの良い運動を怠らず、暴力団以上に頭脳を明晰に磨き上げる。気配りの優れた日本の和の文化を大事にしながら、今以上にサービス産業の飛躍的発展に勤めることだ。それは、孫子が4000年前に残した言葉の真意が、己を知り相手を知って、情報の大海原を泳いでいく資質を、我々人類が、子孫代々に伝えて、世界の繁栄を継続していくことが、今の私たちに、投げかけられた課題だ、とぼくは思う。

コンパスは、どこの村、あるいは、どこの国ではなく、どこの国の人であろうと、どんな人であるかを見極めることだ。