三連休で、お約束通り、旦那の実家に帰り、義母の面会の為に特養を訪れました。
義母の入所している特養は、古い建物で、今主流のユニットタイプではなく、大部屋です。
義母は、以前面会に行った時から部屋が変わっていました。
三人部屋で、私たちが訪ねた時は、義母も含め三人ともベッドで寝ていました。
訪ねた時間は、お昼ご飯の少し前。
ちょうど、義母のところには職員さんがいたので、ベッドから起こして
車いすに移乗させてもらいました。
ベッドでの義母の姿に、私も旦那も言葉が出ませんでした。
足が拘縮して曲がったままで、膝と膝の間にクッションがはさまれていました。
体格のいい女性の職員さんでしたが、いとも簡単に「ほいっ」って感じで抱きかかえ
車いすに移乗させていました。
やせ細った身体。
宙を泳ぐ目。
そんなふうになっても、文句ひとつ言うわけでもなく、ただ、されるがままになっている。
人間の身体って、こんなふうになっちゃうんだ。
どうして、こんな曲がったままになっちゃうの?
痛くないの?辛くないの?苦しくないの?
普段見ているじじばばを含めた、私の知っている年寄りとは、全然違う。
「死」が間近に迫ってきている感じ。
でも、車いすに座ってからは、顔を見ておしゃべりができました。
旦那のことも、私のことも、いつも行っているお義兄ちゃんのことも
誰だかわかっていなかったけど、
「よう来たな。」
「よう来てくれたな。」
って、何回も何回も言ってくれました。
お義兄ちゃんの話では、つい最近まで、車いすに乗ると前傾してしまい、
座位を保つことができなかったそう。
その時に比べれば、今の方が状態がいいようです。
お義母さんの姿を見て、特養の様子を見て、現在の介護の在り方・問題等、
いろいろ考えさせられました。
お義母さんが特養に入所したのと、私がじじばばを引き取って在宅介護を始めたのは
ほぼ同時期。
もちろん、年齢も違うし、病気も違う。進行具合も違う。
でも、一つだけわかったのは、廃用症候群って言葉があるけど、
人間は動かないと動けなくなるってこと。
よたよた歩くのを待ったり、見守ったりするのは、時間も根気もいる。
車いすに乗せてしまった方が、介護する側は楽。
介護側の「楽」を優先させると、要介護者自身は、どんどん動けなくなる。
施設介護では、人手も足りないし、仕方ないことだと思う。
でも、在宅で介護している私は、今まで通り、じじばばには自分でできることはやってもらおう。
自分でトイレに行けば、漏らしたり汚したりする。
散歩に行けば、途中で歩けなくなったりする。
ご飯を炊いてもらえば、水が多くておかゆになったりすることもある。
皿だって、ちゃんと洗えてるかどうか、わかったもんじゃない。
後で、フォローがとっても大変なのは事実だけど。
少しでも長く、今の状態を保っててほしいから。
私は、お義母さんに対して、何もしてあげることができなかった。
何も口出しも、手出しもできる立場じゃない。
うちのじじばばに関しては、私は主介護者であり、一人っ子であるため、
すべての決断や決定は私一人の意志でできる。
文句だって言い放題。
それができない立場なのは、本当にもどかしい。
お義母さんは、もしかしたらレビーなんじゃないの?
投薬が間違ってるんじゃないの?
ケアの仕方が悪くて、拘縮してしまったんじゃないの?
言いたいことはいっぱいある。聞きたいこともいっぱいある。
でも、どれもできない。
できることは、会いに行くことだけ。
これからも、何回でも会いに行こうと思う。
それしか、できないから。
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