義母は4年前の今日他界しました。
主人の話によると、誰もがひれ伏す?強くて怖くて元気な母だったとのこと。
次々と襲いかかる「もう助からない」という5つもの病気と戦い続け、
20年近く頑張った末、最後は肺炎で他界。
最期の日も、家族のためにキッチンで「シチュー」を作っていたそうです。
最後まで「家族のための母」であり続けた義母天晴れ!
命日のメニューは「シチュー」です。
さらに尊敬すべきことは、今後の医学の発展のためにと、
献体を希望されていたことです。
そして、今日は、主人の恩師O氏の四十九日。
私も一度だけお会いしましたが、今時なかなか見ない、
とっても豪快で、且つ人情味溢れる、正義の味方のような?方でした。
愛媛松山のご自宅までお招きいただき、中国茶で談義。
奥様が「もうそろそろ…」とおっしゃっても、「空港まで近いから大丈夫だ!」と、
私達のフライト時間ギリギリまでお話しし、O氏の「じゃよろしく」の一声に、
松山空港まで、奥様が猛スピード運転で送ってくださいました。
「いつものこうなの。車を飛ばすのが私の役目・・・。
この間なんて、お客様を猛スピードで空港まで送って行く途中、
スピード違反で捕まっちゃってね。でも、お客様を飛行機に乗せるほうが先!
って告げて、パトカーを待たせて、空港までお送りして、また戻ったのよ。」
おしとやかな奥様の一面を垣間見ました。
そして、横で豪快に笑っていらっしゃるO氏を今でも思い出します。
「砥部焼」は、 別名「喧嘩器」とも呼ばれ、夫婦喧嘩で投げても
割れないことでも有名です。
さすがに、直径30~50センチの大皿は投げられません。
O氏は、主人にとって社会人になったときの初めての上司らしく、
「今の仕事のスタイルや接待方法など、すべてを教えてくれた人」と、
大切な人を亡くしたことを、今でも信じられないようです。
そして、今日は東北大震災から7か月。
どれも私が直接関係した人たちではありませんが、
(義母もO氏も直接おつきあいできなかったことが残念です)
大切な人を失うことの辛さや命の尊さを深く感じた10月11日です。