退院論文
令和5年5月23日  小島誠生

 元々お酒は好きでしたし量も飲める方でした。仕事帰りにコンビニに寄って、500mlのビール、酎ハイ、ハイボールなど2~3本とツマミを適当に買って帰り、自宅のリビングで野球中継など見ながら一人で飲むのが日課でした。休肝日は設定していませんでしたが、休みの日に昼間から飲むということもありませんでしたし、外で飲むのは家族で外食した時や年に数回の職場の飲み会くらいで、健康診断で指摘されることもなく、極めて健全にお酒と付き合うことができていると思っていました。

 転機が訪れたのは2020年。当時、私はとある精神科病院のデイケアで精神保健福祉士として勤務していましたが、その年、畑違いの総務に異動となりました。当初の私は“期待に応えなければ!”とやる気に満ち溢れていました。しかし今思えば、そこに落とし穴が待っていたのでした。新しい部署で実績を残そうとして自分の力を過信し、重要な案件を安請け合いしてしまったのが不幸の始まりでした。
 いい気になって、やり方もよく知らないくせに人に相談することもできなかった私は一人で抱え込んで気持ちだけが焦っていきました。自分で自分を追い込み、徐々に精神的に不安定になって行きました。ついには不安と焦りと恐怖で居ても立っても居られなくなり、近医のメンタルクリニックを受診し休職させてもらうことにしました。一ヶ月程休んだ後一旦復職したものの、自信と意欲を失ってしまった私は立ち直ることができず、最終的には20年近く務めた病院から逃げるように退職してしまったのでした。

 その後は家に引きこもる生活となりました。「自分の人生にこんなことが起こるはずはない!」と現実を拒否してみたり、自分の不運を恨んでみたり、思い上がっていた自分の浅薄さや甘さを後悔してみたり、職場に迷惑をかけた上に逃げてしまった自分を責めてみたり、社会や家庭での役割を失ってしまったことを嘆いてみたり、病気は治るのだろうか、社会復帰できるのだろうかと不安に思ってみたり、人生の敗者となってしまったと絶望に打ちひしがれてみたり、と色々な考えが渦巻いて、それらを紛らわすためにアルコールを用いるようになっていきました。初めのうちは晩酌だけだったのですが、ある時どうにも落ち着かない気持ちがお酒で少し鎮められることを覚えて朝から飲むようになりました。そして気付いた頃には一日中飲んでいないと落ち着いていられなくなっていました。

 ついにはお酒だけでは収まらず、タバコ、ギャンブルと依存の対象が拡がっていき欲望の赴くままに自堕落な生活へと陥っていったのでした。日を追うごとに負のスパイラルは加速度を上げ、自尊心は限りなくゼロに近づき更に自暴自棄となっていきました。家族も含めて自分以外の他人のことなど考えられなくなっていました。今思えば、自分のことも考えられなくなっていたようにも思います。脳は何か自分以外のものによって支配され、セルフコントロールの機能を失ってしまっていました。人生の優先順位が狂わされていました。自分で自分が狂ってしまったと思いました。もう人生は終わりだと思いました。そして家庭全体が暗く沈んだ雰囲気となっていきました。当時、長女は離れて生活していましたが大学四年生で大学院の受験を控えており、次女は高校三年生で大学受験を控えていました。長女は離れて生活していただけに余計な心配をかけてしまったと思います。また次女については、勉強に集中できるはずもなく部屋に閉じこもるようになってしまいました。このような状況を見るに見かねた妻が刈谷病院に相談し、酒、タバコ、ギャンブル、投資と全ての依存を断ち切るために入院させて頂くことになった訳です。ここまでが2022年7月15日に一回目の入院に至った経緯です。この一回目の入院ではアルコール依存症の治療プログラムには参加せず6カ月ほどで退院しました。断酒への決意もなく退院当日に再飲酒し1カ月ほどで元の生活に戻ってしまったため、2023年の3月17日に再入院することになりました。

 入院当初は全てに対して悲観的でした。新聞で交通事故や火事などで誰かが亡くなったという記事を見かけては、「何故、生きる価値のない最低最悪の自分が生きながらえているのに、今朝も普通に一日が始まって何事もなく一日を終えるはずだった善良な一般市民の命が失わなければならないのか?かわりに俺が死ねばよかったのに…」などと被害に遭われた方やそのご家族の気持ちなど全く無視した自分の都合しか考えに及ばない幼稚で身勝手なことを思っていました。一方でアルコール依存症ということに対しては、自分には他の方の言うような連続飲酒発作も幻覚も記憶喪失もなかったため、「自分は余程軽い部類に入るのではないだろうか…」と楽観視していました。

 入院して2週間が経つ頃には病棟での生活にも慣れ、脳もアルコールの影響から回復してきたおかげか落ち込んでいた気分が少し持ち直してきたように感じられてきました。しかしまだ「自分は変わらないだろう…」という諦めの気持ちがあり、依然として将来に希望の見いだせない心境は続いていました。この頃からARP(Alcohol Rehabilitation Program)も本格的に始まりました。

 座学や自助グループへの参加体験を繰り返す中で、自分自身にも思い当たることや共感できる部分が多くあることに気付きました。そして1ヶ月が経った頃には、「実際に回復している先輩がいるならば、もしかしたら自分も変わることができるかもしれない。」と微かな希望が持てるようになってきました。その後、2ヶ月を過ぎる頃には「現実を拒否していては変わることはできない。」という考え方に少しずつ変わってきたのでした。

 再入院する前までは、「自分は仕事で失敗するまでは普通にお酒は飲めていたのだし、アルコール依存症だとしても軽症だろう…」と思っていました。ある時、依存症の症状として、自分中心に世界が回っているように感じたり突然怒り出したりすることを勉強しました。その時、自分もお酒を飲んで妻や子供に絡んでいき、シラフならば気にもとめないような些細なことに対して突然に怒りの感情が沸き起こっては抑えきれなくなり、一方的に暴言や人格攻撃を行っていたことが思い出されました。また別の日、AA(Alcoholics Anonymous)のメンバーから、「アルコール依存症には軽いも重いもなく、なったかならないかの二択しかない。女性にとっての妊娠を考えてみると分かりやすい。“ちょっと妊娠した”とか“だいぶ妊娠した”とか言わないでしょう?」と言われて妙に納得してしまいました。このような経験を通して、「自分はまさにアルコール依存症である」という現実に気付かされるとともに、家族に対してとても申し訳ない気持ちになりました。

 アルコール依存症はうつ病とも相関が高く、その両者を合わせると自殺者の約半数を占めているというデータや、家族をも巻き込みながら少しずつ死に向かっていく不治の病であるという現実は衝撃的でした。一方で幸いなことには、現在では治療法があり回復可能な病でもあるということでした。回復の基本は断酒ということがはっきりしており、それを支える自助グループが各地域にあることも有り難いことだと思いました。

 ビデオ学習において、元薬物依存症者で現在は回復施設の代表をしている方が、「アルコール依存症になって良かったと思っている。」と話されていました。私は初め、「悲惨な過去を慰めるためにそう思い込もうとしているのではないか?」と勘ぐっていました。アルコール依存症の当事者は、家族にとっては人生を狂わせた張本人であり、本人から、「なってよかった」などと開き直ることは許されないかもしれませんが、対人関係の不器用さなど生き辛さを抱えていた自分にとっては、これからの人生をより豊かなものにしていくために必要なプロセスだったのかもしれないと今は思います。

 入院中に色々なことを覚えました。日常生活に関しては、朝散歩(色んなものが落ちてます。ボールペン、真珠のペンダントトップ、スマホの後ろにつけて持ちやすくするやつ、櫛…まあ、私に櫛は必要ないのですが…(爆))、可能な限り歩くこと(一日2時間、2万歩目標)、読書、何でもノートに記録すること、買ったもののレシートをノートに貼ること、感謝日記をつけること、マインドフルネス一行日記、ブログ、瞑想、ティンシャ(実演)、ハンドスピナー(実演)、ゴムパッチン(実演)、囲碁、革細工、100円ショップ巡り(買ったものを披露)、健康サンダル、青汁を飲むこと、乳酸菌飲料は130mlくらいがちょうどよいこと、納豆は大粒が標準、食事は良く噛んで味わって食べることなどです。

 対人関係については、心を開いて話を聞くこと、その際には相手の気持ちを考えながら聞くこと、またそのためには表情や目を見ること、耳に痛いことであってもきちんと聞くこと、自分から話すときは慎み深くして話しすぎないこと、聞かれてもないことは話さないこと、誠意を持って話すこと、相手がどう感じているか考えながら話すこと、そのためには相手の目を見て話すこと、相手に対して失礼のないように話すこと、悩んだときや何かを決めるときには家族や仲間を信じて相談することなどです。

 これらの習慣を続けられるかどうかが、退院後の生活の鍵になると思います。

 仲間の存在もとてもありがたかったです。年齢、性別、境遇、地位、価値観など様々で、アルコール依存症という共通項のみで繋がることになった方々とお互いに助け合いながら過ごした日々は、私自身の視野を広げ、思いやりと真心の尊さに気付かせてくれました。A4病棟自体が最も身近な自助グループでした。

 元々の知人から連絡をもらえたことにも力付けられました。自分が同じ立場だったら果たして同じことができただろうかと考え、恵まれていることに感謝するとともにその思いに応えたい気持ちになりました。

 以前の私は何でも人と比べて卑屈になったり不満ばかりを言っていた気がします。アルコール依存症となり入院生活を送る中で、普通に生活できていたことがいかにありがたく幸せなことであったのか、当たり前は当たり前じゃなく色々な人に支えられて成り立っていたことが身に沁みてわかりました。そう考えられるようになって自然と感謝の心を持てるようになってきました。

 私がこれまで周囲にかけてしまった迷惑は償いきれるものではないですし、失ってしまった信頼やお金が返ってくることはありません。過去に思っていた未来はだいぶ違ったものになってしまいました。しかし、いくら後悔しても過去をやり直す方法は全くなく、自分の愚かな行いをなかったことにはできません。この事実を受け入れるのには時間が必要でしたが、最近やっと、「それならば、今私がするべきことは、失ってしまったものを嘆いて時間を無駄に過ごすことではなく、今自分に与えられているものに感謝して、自分ができることに取り組んでいくべきではないか。」と思えるようになってきました。

 今なぜ断酒を決意するのかと問われるならば、「私はもう二度とあんな惨めな思いはしたくないし、与えられたチャンスを活かしてこの手にもう一度人生の主導権を取り戻したい。私は必ず生まれ変わってみせる。」と答えます。これからは自分を大きく見せようとせず、ありのままの自分を認めて、何事に対しても誠実に生きていきたいと考えています。(誠生)

 50歳にして生き方を修正していくことには困難を伴うと思いますが、今私が感じている感謝の気持ちを忘れず、入院生活で新たに身に付けた良い生活習慣を続けていくならば、それは必ず実現できると思います。

 これから日常生活に戻るに当たり、家族のこと、病気のこと、仕事のことなど、問題は色々と生じてくると思いますが、自分一人で解決しようなどと無理をせず、家族と仲間を信じて一つずつ取り組んでいきたいと思います。

 実はつい最近新しい目標ができました。それはリサイクルショップの店員になることです。調べてみたら、お宝倉庫とかセカンドストリートとかキンブルとかエコパークとか、リサイクルショップではないですがドン・キホーテとか色々なところで結構募集があることがわかりました。一番働きたいと思っているのはエレクトリックマーケット(エレマ)です。退院後、生活が安定したらチャレンジしてみたいと思っています。

 断酒会やAAにも引き続き出席していきます。私が困ったときには、皆様にもぜひ相談に乗って頂けたら幸いです。そしていつかは、「あの刈谷病院での経験があったから今幸せに生活できているのだなあ…」としみじみと感じられるようになっていたいです。

 最後に、入院生活を支えて下さった刈谷病院の職員の皆様、共に生活し支え合った仲間の方々、いつも気にかけてくれて定期的に連絡をくれた友人知人、そして根気強く励まし続けてくれた妻、また不安定な家庭環境の中で必死に生き抜いてくれた子供たちに心からの感謝を伝えたいです。皆様、本当にありがとうございました。そして今後ともよろしくお願い致します。

 それでは皆様、次回はエレマでお会いしましょう。(拍手)