真田と言えば 幸隆ー昌幸ー信之 信繁 

4人が有名なのだが・・・

ちなみに信繁はあの有名な真田幸村のことだ。今回は昌幸と信之に注目して兵どもの夢のあとをおいかけていく

まずは真田昌幸の長男で真田幸村のお兄さんである真田信之の像を・・・・

 

 

この美しい長野の松代は東軍、徳川家康に味方した関ケ原の合戦後真田信之が治めた城真田家は明治維新までつづく・・・・

あれ?真田家って真田幸村が大阪夏の陣で、真田丸で徳川家康にあと一歩と迫った家康に反旗を翻したのでは?

なんでその真田家が明治維新までつづいていくの?真田幸村が有名なのであれ?と思うがそれは真田信之というひとを知らないからだ。信之、幸村(本当は信繁が正しい名前だというのですが、真田幸村の名前が定着しているので以後幸村という)のお父さんである真田昌幸の思慮深い考えがあった・・・ここは真田信之が戦国時代から明治まで真田家を継承させた松代だ・・・

    

時代は前後してしまうが日本の夜明けともいえる明治維新、その立役者を育てた佐久間象山が、奇しくも徳川と敵対していた真田家の松代からでて、同じく徳川と敵対していた長州、薩摩と討幕の志士たちと関わっていたというのは因縁めいたものを感じる。

 

それでは真田 昌幸、幸村親子が徳川と敵対していたのに信之が松代藩の藩主となり明治維新までつづいたのか・・・

ここからそう遠くない上田城を訪ねることにしよう・・・

 

まずは上田駅前の真田 信繁(幸村)の像から・・・・

犬伏の別れ・・・

関ケ原合戦を目前にして日本中の武将が、東軍徳川に着くか?西軍石田三成に着くか?悩んでいた。

日和見は許されない皆どちらに着くか態度をはっきりさせなければならない…

「信之は徳川家康の四天王、本田忠勝のむすめを妻にしている・・・・一方幸村は、石田三成の盟友大谷刑部吉継のむすめを妻にしている・・・・それが理由というわけではないが親子で敵対することを決断した。

昌幸と幸村は西軍に信之は東軍に・・・その結果は?

昌幸幸村親子は上田城で中山道から関ケ原に向かう徳川秀忠の軍を足止めし秀忠を関ケ原に遅参するという大失態に追い込んだ

しかし結果はご存知の通り徳川の勝ち・・・昌幸・幸村親子は信之の命乞いで 高野山九度山に蟄居命は助けてもらった。

ところが大阪夏の陣で真田丸は徳川をお追いつめた。二度にわたって徳川を苦しめたのだ。

       

世論は「判官びいき「」いつの世でも夢破れ、はなばなしく散った真田幸村に脚光は浴び今も真田幸村人気はすごい、真田十勇士の像も上田の町を散歩十勇士めぐりができる。しかし信之の生涯もすごいものがある、徳川を一番苦しめた真田の兄なのだ。親弟に弓をひき、時には父弟の命乞いをし、戦い抜いて勝ち取った松代城主。信之の93年の生涯も幸村とはまたちがう功績がある。

 松代・・・上田・・・まさにつわものどもの夢の跡ですね・・・