大学時代、東急東横線界隈に住んでいたため、渋谷にはよく行きました。
2月の中頃に東京に行く機会があったため、懐かしの場所が現在どんな姿になっているか、ちょいと散策してきました。
JR渋谷駅を降り、相変わらず人ごみの凄いクランブル交差点。
目線は渋谷109方面です。サッカーとか、イベントは無い為ハイタッチで横断歩道をすり抜ける人はさすがにいませんでした。
109の下、地下鉄半蔵門線に潜る階段あたりには「くじら屋」という鯨料理専門店がありました。くじら屋ではお刺身などはちょっとお高めだったので、から揚げ定食をよく頼みました。今回は時間の関係で確認は出来なかったのですが、お店はまだ有るのかな??
こちら側は公園通りへ向かう方向。
渋谷公会堂やNHKホール、BEAMS、NAMSB(ナムスビ)、SHIPSといったお店に向かうにはこっちを進んでいきました。本や洋服見て回るの、大好きでした。電力館もあったかな。
バブルが飽和を迎えつつあったこの頃、ファッション界はDCブランド大ブームでマルイやパルコが業界を席巻していましたが、私は当時はまだ小さなショップであった先に挙げた店舗めぐりを愉しんでいました。店内に陳列された商品はセレクトショップの色合いが強く、店毎に異なる商品にはバイヤーの洒落たセンスを感じました。
セントジェームスのバスクシャツや、ピカデリー、リベルト、シピーといった、リーバイス以外のジーンズは、他人と被らないファッションの確立に役立ちました。で、まだまだ当時はお店独自のオリジナルブランドは大変少なかったように思います。そんな中でBEAMSのジーンズやSHIPSのシャンブレーシャツなどはスタイルも質も良く、とてもお気に入りでした。製品からはデザイナーやプランナー達の、古くからのアメリカのファッションブランドへのリスペクトと憧れを、大いに見てとることが出来ました。
大盛堂という本のデパートもこちらですね。そこでは学業に必要な専門書を探したり、手塚治虫の単行本を買いまくりました。
渋谷egg man行くのも公園通りでした。
1980年代後半頃はロックのサクセスストーリーというと、ホコ天で演奏し、egg manで人を集め、渋谷公会堂でホールデビューし、ついには代々木オリンピックでイベント的にコンサートでしたが、もう今は違ってきていますね。後に渋公が命名権の関係でccレモンホールと名乗ったときにはもう倒れましたけど(苦笑)。
上條淳士の「To-y」というコミックの最終回で、この公園通りにすごい数の人が集まってきたことは、そういった時代背景に寄るのだよなぁ、と思います。
渋谷センター街。ここも相変わらずの人ごみ。
当時の私は渋谷に巣食うサブカル人間でした。暇さえあれば渋谷に赴き、音楽や書籍、映画やファッションなど、サブカルチャーの洗礼を受けていました。それまでの開発がひと段落し、新都庁建設の前夜だった新宿のユースカルチャーとは一線を画していたと思います。新宿は一世代上の大人の街でした。あ、でも新宿西口はまた別ですね。音楽で言えば海賊盤に自主制作盤、中古レコードを専門に扱う店。ライヴでは新宿ロフトなどなど。あそこはアングラの聖地でした(笑) プリンスの"Black Album"や、ポール・マッカートニーがソ連のレーベル、メロディアから発売した"снова в ссср"(Back in the USSR.)、など結構なお値段で買いましたよ。さすが西口!でした。地下道を歩くと、怪しい人がアクセサリーや詩集を、謎の外国人が不法な洋楽のカセットテープを売っていました。おっとっと、話しが逸れてきた。
渋谷センター街は、その当時から渋谷を象徴する場所だっと思います。新宿より建物が低いことと、お店の入れ替わりがとにかく激しくて、プチ・アメリカンドリームというか、栄枯盛衰を感じました。
渋谷センター街あたりの話は、part 2へ続きたいと思います。



