おじぃちゃんの事件簿 -235ページ目

   衝突   

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※写真中央、新名神高速(滋賀県甲賀市甲賀町神保)

『新名神高速で衝突事故、1人死亡 滋賀』


8日午後11時35分ごろ、滋賀県甲賀市甲賀町小佐治の新名神高速下りでトラックに軽乗用車が追突さらに別のトラックが衝突して横転した。


県警高速隊によると、この事故で計6人が病院に運ばれたが、軽乗用車に乗っていた大阪府四條畷市中野新町のタクシー運転手、●●さん(59)が頭を強く打って死亡したほか、娘の看護師、■■さん(23)が意識不明の重体…。


最初の事故後、トラック運転手と●●さん親子が路肩で話し合おうとしたところ、後続のトラックが路肩に停車中のトラックに衝突。


●●さん親子が巻き込まれたという。


●●さんらは家族4人で愛知県に旅行した帰りだった…。



西日本高速道路によると、横転したトラックが車線をふさいだため、下り甲賀土山-甲南間が約6時間通行止めになった。


 

   暴走   

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※写真、大阪府箕面市白島1丁目

『車暴走、60代主婦4人が死傷 大阪』


9日午前11時40分ごろ、大阪府箕面市白島の市道で、同市桜ケ丘の主婦、●●さん(63)運転の乗用車が暴走して電柱に衝突。


●●さんは病院に搬送されたが、間もなく死亡が確認された。


同乗していた64~68歳の主婦3人も胸や腰の骨を折るなど重軽傷を負った…。


箕面署によると、同乗の3人はいずれも●●さんの友人。


別の乗用車で来た友人女性2人とともに近くのショッピングセンターに向かっていたところ、●●さんの乗用車が突然、幅約3メートルの狭い市道を約50メートルにわたって暴走し、電柱に激突したという。

同署が詳しい事故原因を調べている。



 

   葬儀   

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※写真、故・忌野清志郎さんの告別式に列を作る大勢のファン=東京都港区の青山葬儀所で2009年5月9日午後3時38分


『今日は素晴らしい1日になるでしょう。最後までお見送りください』


2日に58歳で死去したロック歌手、忌野清志郎(いまわの・きよしろう、本名・栗原清志=くりはら・きよし)さんの「葬儀式」が9日、東京都港区の青山葬儀所で営まれた。


ミュージシャンら関係者1000人のほか、夕方までにファン3万5000人が駆け付け「トランジスタ・ラジオ」など数々のヒット曲が大音量で響く中、早過ぎる死を悼んだ…。


桑田佳祐、原由子夫妻やスガシカオさん、大友康平さん、及川光博さんら生前親交のあったミュージシャンらも多数参列。


紅白の幕と色鮮やかな花で飾られた祭壇には、スーツ姿で優しくほほ笑む清志郎さんの遺影が掲げられた。

『アオヤマ・ロックンロール・ショー』

と銘打たれ、祭壇前のステージではバンドメンバーらが生演奏。

前半は親族や友人ら関係者のみでスタートし、屋外で待つファンには室内の様子を伝える大型スピーカーが用意された。

式に先立ち、清志郎さんのヒット曲が大音量で流され、「清志郎ー」「愛してるー」「ありがとうー」の大合唱がこだました。


だが芸能人らの弔辞が始まると一転、屋外は静まりかえった。

式の最中、屋外の気温はどんどんと上昇。

ファンらは日傘をさしたり、頭にタオルをかぶったりしながらも関係者の言葉にじっと耳を傾けていた。


弔辞が終わり、再び曲が流れると、両手を挙げて拍手する人、紙吹雪を投げる人、ホラ貝を吹く人の姿も-。

最後に清志郎さんの生前の歌声に合わせ参列者と

『雨あがりの夜空に』

を歌った。


その後、ファンらは次々と会場に入り、献花。最後の別れに臨んだ…。


会場外には前夜からファンが集まり、葬儀開始時には長蛇の列ができた。


献花が始まっても列は延び続け、ファンの弔問は、夜遅くまで別れを惜しむファンの姿であふれかえった…。


所属レコード会社によると、午後5時現在、約3万5000人が参列。


行列は一時、会場周辺の道路に約4キロにわたり、当初予定していた午後6時の終了時刻を過ぎても、「清志郎!」「ありがとう」などと叫ぶファンらの声援が飛び交った。

献花後も5時間以上、会場の外にとどまっていた山口市の会社員(44)は…

『僕のダメな人生を豊かにしてくれた清志郎に、まだお別れが言えない』

と唇をかみしめた。


20代の頃から「追っかけ」をしていた埼玉県久喜市の主婦(50)も…


『恋人のような存在だった。彼が生きられなかった分、私が頑張って生きていこうと決意した』


とハンカチで涙をぬぐった…。



『忌野清志郎さん葬儀式しめやかに…NHK連夜で特番』


NHKではこの葬儀式の模様を含めて、10、11日と連夜で異例の

“清志郎特番”

を組む。


10日は…

『愛しあってるかい?~キング・オブ・ロック忌野清志郎~』

(総合、午後11時半)

で葬儀式や貴重なライブ映像を放送。


11日には…

『SONGS 忌野清志郎ライブ完全版』

(総合、深夜0時45分)

として、最後のスタジオライブとなった2008年2月6日の雄姿をオンエアする…。


「SONGS」の制作を担当したNHKの三溝敬志チーフプロデューサーが語る。


『清志郎さんには、日本武道館での完全復活ライブ(08年2月10日)のリハーサル中に出ていただきました。今回は、1曲目の前に歌ったウオーミングアップ曲やアンコールを含めて7曲すべてを放送します』

スタジオライブは、初公開となる『ダンスミュージック☆あいつ』で始まり、『雨上がりの夜空に』、『スローバラード』、『毎日がブランニューデイ』、『誇り高く生きよう』、『JUMP』、そしてアンコールで披露した『上を向いて歩こう』まで、気合の入ったものだった。


06年7月、喉頭がんで緊急入院して以来、闘病生活を送っていた清志郎さんが唯一、登場したテレビ番組でもある…。


『選曲は清志郎さんと相談した上で決めました。3曲目の「毎日が-」は清志郎さんがどうしてもやりたい、と言ったもの。曲目のラインアップを見ると清志郎さんの心情が分かりますよね』


収録中の様子はどうだったのか?


『インタビューは真摯に応じていただきました。のどの調子も変わらず驚きました。かすれたり、伸びきらない部分はなかったし、一層パワフルになっていました』


ライブのMCでは、エルビス・プレスリー話も飛び出すなど終始、高揚していた清志郎さん。

ボルテージを上げたのは、ステージを取り巻いた30-40代の男女400人のファンだった。


『観覧者募集には通常の3倍の応募があり、会社帰りに駆け付けた方もいて、NHKの第1スタジオが“復活して良かった。おめでとう”という気持ちであふれてました。私も、生死をさまよい、打ち克った人間のすごみを感じました…』


濃密なライブが蘇る…。




がん性リンパ管症のため2日に58歳で死去した歌手、忌野清志郎さん。

連休中はNHKニュースから全国紙の社会面まで、日本のロック史を切り開いたこの男の偉業を称えた。

同じ1951年4月生まれの音楽評論家

富澤一誠氏

が、マスコミではあまり伝えられなかった清志郎さんの素顔を含めた“ロックな生涯”を振り返った…。

※富澤一誠(とみさわ・いっせい) 1951年、長野県須坂市生まれ。東京大学に入学、歌手を目指して中退するが挫折し71年から音楽評論活動に専念。92年、プロデュースしたアルバム「ASIAN VOICES」で第34回日本レコード大賞企画賞。今年4月、歌手、永井龍雲のシングル「夢は眠っていないか?」で作詞家デビューを飾った。


清志郎さんは、人と同じことをやらないぞ-という姿勢を貫いた反骨精神で、日本のロックビジネスを確立した巨人だった。


矢沢の永ちゃんに続く形で登場した清志郎は、1980年代に巨大ビジネス化する日本のロックの原型をつくった。


70年代後半、ニューミュージックが全盛で、ロックは地味だった。そこへ、RCサクセション(以下、RC)のボーカルとして登場した清志郎は、どぎついメークと派手な衣装でロックをエンターテインメントに高めた。


彼が出てこなければ、BOφWYやブルーハーツ、X JAPAN、GLAYといったメガロックシーンがあったどうか疑問だ。


フォーク時代から取材させていただいてきたが、素顔は寡黙でマジメ、人間的な優しさにあふれていた。


RCが初期に歌った「ぼくの好きな先生」に彼の気持ちがあふれている。


都立日野高校時代に劣等生だった清志郎の気持ちを唯一、分かってくれ、「好きなことをやっていいんだよ」と後押ししてくれた実在する美術教師の歌だった。


一方で、学校や社会など既成の枠から、はみだせない人々に「本当にそれでいいのか」と疑問を投げかけ正義感を燃やし続けてきた。

その清志郎の原点ともいえる1971年秋のライブをよく覚えている。


渋谷の東横ホールで開かれた「唄の市」。


RCはまだ3人組のフォークグループだった。


共演したのが後にギタリストとして合流するチャボこと仲井戸麗市がいた古井戸、ケメ(佐藤公彦)、泉谷しげる、吉田拓郎、小室等と六文銭といったすごいメンバーだった。


すでに、RCは“ハードフォーク”といっていい激しさで、ベースもジャズっぽかった。


とくに清志郎、チャボ、ケメといった面々はルックスがかわいくてフォーク界のアイドル的存在だった。


そのまま行けば、アイドルとして通用したが、清志郎はあえて背を向け、売れそうな曲をつくらなくなった。後に“不遇時代”といわれる期間が70年代後半まで5年近く続いた。


この間、実は異才を発揮して、井上陽水のアルバム「氷の世界」に共作で詞を提供しながら、印税で生活をしていた。


「オレはこんなもんじゃない」

と牙をむいていた。


フォークがニューミュージックと名を変えたころ、そろそろ自分の出番とばかり再びロックバンドとしてRCが復活を遂げた。


80年代に入るとライブのパフォーマンスが大いにウケて、“キング・オブ”と呼ばれるようになっていた。


「ロックは時代の刺激剤たるべき」


というのが清志郎の一貫した姿勢だったと思う。


常に新しいことにチャレンジし続け、予定調和的なことを嫌った。


RCが次第に大きい存在になってくると、所属事務所やレコード会社との思惑が離れてきた。


ビジネスとしては、同じことの焼き直しの方が売れるが、それをよしとせず91年に活動を中止した。


ソロになってからも原発問題を扱った歌詞や、パンク調で歌った「君が代」などが、発売中止や放送中止になるなど“不良”であり続けた。


06年7月に喉頭がんであることを発表。


昨年2月に日本武道館で「完全復活祭」を開いた。


あれだけのステージは、完全に復活していないとできない。


当然、快方に向かっていると思っていたし、転移したとしても克服してくれると信じていた。


亡くなってからのファンの反応、マスコミの扱いの大きさを見ても、清志郎の神話はこれからまた始まっていくのだと思っている…。