あらためて・・
12月25~29日まで岩手県遠野市・釜石市に行ってきた・・
4月5~11日の宮城県石巻市以降、約8か月ぶりの被災地での活動。
今回は日本財団という日本の社会福祉業界の中でも
1番大きな財団の「足湯ボランティア」で参加してきた。
石巻市の時も日本財団の足湯ボランティアを視掛けることはあったが
まさか自分がメンバーとして参加することになるとは思わなかった。
元々、4月に行ったのは被災地の現場を経験するのと同時に東京で
活動する際に現場を知らなきゃ話にならないと思ったからだ。
石巻市に入る前から活動が終わった後、これから先も
ボランティアがたくさん入ると思い、先陣に行くことを重視していた。
ずっと被災地に住みながら活動する人も必要であるが、俺は
それよりもボランティアが行きやすい流れをつくる必要性を感じていた。
なぜ今回、また被災地の現場に行ったのかと疑問を持たれる方もいるだろう。
正直な話、新潟中越に比べ、東日本大震災に関しては東京でも忘れている人は
ほぼいない。活動している人にとってはだいぶ薄れてきていると感じる人が多いが、
それはない。なぜなら直接、関東全域で被害を受けたのと今でも「放射能」の影響があるからだ。
だが、それでも最近、ボランティアに行く人が少なくなってきている・・
その要因としてはずっと被災地に住みながら活動している人が少し増えてきていること、
活動の質つまり復興段階が変わり始め、何ができるのかわかりづらくなってきている中で
専門性(重機・医療・福祉・教育など)の能力も求められている等、初めてボランティアに
参加する人にとっては参加しづらい雰囲気がある。
また参加団体によっては自己負担がかなり大きくなってしまうのも要因になるだろう。
(料金が高い、色んな団体があって統一されていないから見えづらい、期間が長い等)
さて話を戻すと、この時期は東北にとって1番難関な時期だと思う。
東北に住んでいない人にとっても過酷であるからボランティアが
少なくなるだろうと4月の時点で思っていたので、石巻市から
帰ってきてからはあまり自ら動くことよりも様子を見ることに徹していた。
「できるひとができる時にやればいい」
そう自分に言い聞かせ、知り合いのNPO/NGOから情報収集をひたすら続けてきた。
でも正直、周りが色んな活動で動き始めていた時はもどかしかった。
「俺だって動こうと思えばいつでも動けるのに・・!!」
心のどこかでそう思い、本気で悔しかった。だが、それを
言い聞かせていたのは、「俺が動くのは今じゃない」と自覚していたから。
先月までそう思っていたが、最近は福島から東京に避難してきた親子の託児ケアに
携わることができ、もう1度、現場に行く必要があるかもしれないと思い始めた。
実は今回の足湯ボラを知ったのは行く1週間前だった。
偶然、見つけたのもあって思い切って応募したら通った。
今回、岩手県を選んだのは宮城・福島の状況は自然と入ってくることが多いが
岩手は活動している団体がその2県に比べて、だいぶ少ない。またボランティアも
2県に比べて入っていないことも知っているので動く理由となった。
25日の朝、溜池山王にある日本財団に行くと参加者は俺を含めて約11名。
(その中で2名は災害ボラ事務局の大学院生アルバイトだから実際は9名)
思った通り、参加者は少なかったが参加者全員、
災害ボラ経験者というのは心強かった。
午前中はオリエンテーションと足湯の事前講習を行なった。
難しいことは1つもなく、12時終了が30分早く終わった。
昼飯も皆で近くの中華料理屋で食べて交流を深め、13時半には
新幹線(バスの予定だったが人数が少ないため)で岩手に向かい、
17時には新花巻駅に着いた。
18時まで釜石線が出ないことはびっくりしたがその間、交流を深める時間ができた。
そこから拠点となる「遠野まごころ寮」に着いたのは19時半になった。
というのも、18時45分には遠野駅には着いたが外は吹雪で歩きづらかった(笑)
ちなみに「遠野まごころ寮」は遠野まごころネットという
地元のNPOと静岡ボランティア協会が運営している。
電気・ガス・水道設備も完璧で無線LANも使える
ボランティアの拠点となるプレハブ寮のこと。
遠野を拠点にする場合、日本財団とまごころネットが
連携して活動を行なっているらしい。
その夜、ジンギンスカン(何故か遠野名物らしいww)を皆で食べに行き、
次の日のミーティングが行なわれ、活動場所とメンバーの割り振りされた。
26日(活動初日)の朝、6時半には起床して7時には朝飯を
食べてから寮の清掃を行ない、電車で移動する班は7時半に出発し、
車で移動する班は車に荷物を入れる等の準備をするので8時に出発。
俺は車で移動する班だったので拠点から釜石まで車で約40分ぐらい。
遠野は雪がすごいが数か所のトンネル(山を越える)をぬけると
釜石は全く雪が無い。その上、気温も遠野が-4℃だったのが
0℃と上がっている。(寒いのは変わんねえww)
車で釜石市内を走っていると特に被害もない上にお店もやっていて、
目的地の施設に着くと荷物を降ろして中に入った。そこは地元の
スポーツ協会の事務所となっている場所で建物も普通だった。
「もしかして釜石は被災してないのか?」
だが、その疑問はすぐに消えた。
なぜなら、その建物の裏に仮設住宅があったからだ!
この時はまだ足湯ボラが仮設住宅の中に入っていくことを
あまり知らなかったのでかなり驚いた。
暫くすると事務局の人が出てきて話をすると
「今日、足湯が来ることは聴いていない」と
初日にしてトラブルが発生!!
どうしたものかと考えると事務局の人が社協の人と電話して
必要な仮設に派遣できるよう、話をつけてくれた。
また現在の釜石市の仮設住宅の状況も教えてくれた。
今、約38か所の仮設住宅があり、1つの仮設エリアで平均で50世帯は
住んでいて年齢層も高齢者が多く、地域性もバラバラで知らない人ばかりで
交流が少ない。また若者がいるエリアとそうでないエリアで分かれている。
陸前高田のように外部から入る団体は多くない。
社協の人と調整してくれている間、近くにある酒屋さんで買い物をした・・
あるボランティアさんから以前、地元の人と話をしてる中で
「現場でお金を使うことによって経済が回りやすくなるからドンドン使ってくれ」と
言われたことがあると話をしてくれた。
買い物が終わってから移動し、野田町の仮設施設団地に着くと社協の人が
仮設集会所(談話室)を案内してくれて、ようやく活動ができることになった。
時間としては10時半と活動開始時間を1時間もオーバーした。
足湯を楽しみにしてくれた人もいたらしく、呼びかけで困ることもなかった。
足湯を担当するのはローテーションで必ずメンバー全員ができるようにする。
それを聴いた時、驚いた・・
都民ボラではまさしく「できる人ができる時にやればいい」と
考えるスタイルだったので、お湯を沸かしてる人は
その日ずっと担当するものだと思うし、待合室で
「おちゃっこ」(方言でお茶会らしい)をしながら
話したり、準備する人もその位置だと考えていたからだ。
と言いつつ、その日1番足湯を担当していたのは俺だったww(4名)
1人ひとりと会話して「ニーズ」や「本音を吐きださせる」ことが目的で
あくまで足湯は手段なので、1人終わったら「つぶやきカード」というものを記入する。
「つぶやきカード」を記入する際、俺とかは「ニーズ」の部分か
「ニーズ」が含まれている会話の1部しか書かないものだと思って
書いたら書き直しをくらった。
というのも、「つぶやきカード」は
その人との会話をすべてそのまま書くものらしい。
職業病というものはこういう時に出るんだなぁ~(笑)
そう感じながらも慣れない書き方のなので下手なのは仕方ない。。
その日、1番印象的だったのは30代の女性の方で
小学生ぐらいの娘さんと一緒に来て足湯を
楽しんでくれたんだけど、色んな会話をしていく内に
地域の子どもたちについて話をしてくれた。(掲載許可を得ている)
この仮設住宅で小学生は娘さんしかいないそうで
ほとんどの友達は社宅や別の仮設などでバラバラになっている。
学校では会えているが、前と違って遊ぶ約束をちゃんとしないと
いけない(東京と東北との文化の違い)状況になったり、
遊ぶ場所も限られている。
実際、この野田町の仮設も元は唯一の公園で
近所の子どもたちに対しても遊ぶ場所を
奪ってしまう形になってしまったと話をしてくれた。
昼飯が食べ終わってから、外にあるお湯の様子を見に行ったら
2人姉弟(幼児)が遊んでいるのが見えたので、一緒に遊んで
さっき来てくれた小学生の子が1人でなわとびをしていたので
「二重とびできるぅ~?」と離れていたので聴こえるか
不安だったけど、やって見せてくれた(^^♪
それから近くに行って話しかけるとなわとびで
一緒に遊んだり、色んなことを話をしてくれた。
その日、足湯に参加してくれたおじいちゃん・おばあちゃんが
「子どもがいなかったら地域再生はあり得ない」って
言ってたことがよくわかった。
足湯が終わってから社協の人が来て、地域で必要としてるとこは
多いと話をしてくれたので皆で「どこでも行くので気軽に言ってください」と
伝えたら、ものすごく喜んでくれて信頼関係が一気つながった。
27日(活動2日目)は社協の人から初日の場所から
15分ぐらいのとこにある小佐野町の仮設に行ってほしいと
初日に地図をもらい、向かった。
そこは廃校となった中学校のグラウンドを活用した仮設住宅だった。
到着した後、入口近くに集会所だったので準備は順調。
ただ驚いたのはそこの集会所は綺麗なスロープがあったのと
車いす用トイレがあったこと。
その日は左手を怪我したおばあちゃんから始まり、漁師のおじさんと
おちゃっこしながら、震災当時のことを教えてくれた。
ちょうど3月11日、14時46分の30分前ぐらいにおじさんは
津波が来ると思い、防波堤に避難した。最初はいつものように
すぐ治まるだろうと思っていたが、ドンドン津波の勢いが
強まっていくのに気付き、自主的に防波堤に避難して助かった。
今は分け前制で割りに合わないらしい・・漁師は自営業だから
船が無くなると仕事ができなくなる。とはいえ、他の仕事を
やると言っても難しい。
かなり前向きなおじさんだった。。
でも、「街は10年あっても立て直せない」という
ネガティブなことも言っていた。
おばさんは今回の震災で左手を怪我して先日、手術をしたらしい。
右手は脳梗塞で後遺症があってあまり上手く動かせないらしく、
怪我する前は畑仕事などは左手を使っていたから今、上手く
動かせないのは悔しいが「生きてるだけで儲けもんだ」と
精神力の強さを感じた。
この仮設は隣が小学校ということもあり、子どもが多く住んでいて
ユニセフからもキッズキット(おもちゃ、絵本、文房具など)が
届けられていたが必要な分だけ出して整理されていなかった。
また別の支援物資であろう棚も活用されていなかったので
集会所管理の住人の方に許可を得て、棚を活用して整理整頓をさせてもらった。
その効果が午後にあった・・
子どもたちが遊びに来てくれた時にどこに何があるのかを
わかりやすくしたので、子どもと一緒に来た
おじいちゃん・おばあちゃんは「これもあったんだ!」と驚いていた。
キッズスペースの管理を自治体だけでなく、
ユニセフ職員やボランティア、仮設の住人が一緒に行なうことで
「子どもの遊べる環境づくり」ができることがわかった。
28日(活動最終日)は5時にたたき起こされた(笑)
というのも前日に「皆で豆乳を飲みに行くぞ」と
言われたのがはじまり・・(T_T)
どうやら今まで遠野に来ているボランティアの風習で
「遠野に来たらこれ!」というのが出来たての豆乳らしく、
朝5時半にめちゃくちゃ寒い中、豆腐屋に行って豆乳を飲んだ。。
滑りかけて危なかったぁ~(;一_一)ww
その後、いつも通りに準備をして、その日は
甲子町(かしまち)という山に近い場所に仮設住宅団地があり、
世帯数が少ない(それでも45世帯)ので集会所がない。
なので、廃校となっている小学校の一部
(産直を行なっているとこ)を使って行なった。
そこの壁には鹿踊り(ししおどり)という遠野から釜石まで
伝わる伝統文化について書かれた展示物があった。
また卒業制作らしきものも鹿踊りに関するものが
展示されているのを見ると相当盛んな踊りだったと思う。
その日は足湯に来る方も少なく、話を聴くと・・
「働きに出ている人や今日は皆、大掃除とかしていると思うよ」と
声もあれば、「昨日、大槌からここに来たからよくわからない」という
人まで様々だった。
昼飯頃に集会所が無かったため、水を入れられるとこが
無かったのを朝、「あたしの家の水道を使っていいわよ」と
ご厚意で貸してくれた方から・・
「お腹すいてない?全員、あたしの家に来なさい!」
とローテーションでその方のお家におじゃまして御馳走になった。。
俺の番になり、初めて住宅の中に入ると集会所より狭かったが
ソファーとこたつが入るぐらいの広さはあった。
そこで「くるみ餅」と「赤カブの漬物」を
御馳走になり、お話を聴かせてもらった。
そのまま時間が経って活動が終わり、遠野に戻るのかなと
思ったら「まだ被災したところ、見てないですよね?」と
コーディネーターから聴かれたのでYESと答えたら
「今からこの周辺で1番被害があった大槌町を見てください」と
連れて行ってくれた。
そこで初日に感じた「もしかして釜石は被災してないのか?」という
誤解が解けることになった。
初日に行った酒屋さんから車で10分ぐらいで商店街側に着くと
ボロボロになっている建物が多かった。ドンドン沿岸部に
向かえば向かうほど建物が無くなっていく。
そして釜石市内から30分ぐらいで大槌町に着くと・・
本当に何もかも無くなっていた。。
あれは車内にいても唖然とするぐらいの地獄絵図に近い景色だった。
建物らしきものがあっても、いつ倒れてくるかわからないものも
あれば、跡地になっている。
また石巻同様、ガレキの集積所があった。
ただ、そう暗くなることばかりだけじゃない。
少しずつだがローソンとイオン、パチンコ屋が
リニューアルしてOPENしていた。
立ち寄った時も人がかなりいて驚いたのと同時に
日本の復興力がものすごいと思った。
ひとまず、その夜に深夜バスで東京に戻り、無事に
今年の活動を終えることができた。
今度いつ被災地に行くのか、もう行かないかもしれないが
復興まで長くなるのは確実である。
ただ東京にいてもやれること等もあるので、
そういった意味では長く関わることになると思う。
今回の現地の写真はFacebookでアップしています。(Facebookをやっていない人も見れます)
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.242001852540227.58239.100001912432232&type=1&l=75a8ef99ad
4月5~11日の宮城県石巻市以降、約8か月ぶりの被災地での活動。
今回は日本財団という日本の社会福祉業界の中でも
1番大きな財団の「足湯ボランティア」で参加してきた。
石巻市の時も日本財団の足湯ボランティアを視掛けることはあったが
まさか自分がメンバーとして参加することになるとは思わなかった。
元々、4月に行ったのは被災地の現場を経験するのと同時に東京で
活動する際に現場を知らなきゃ話にならないと思ったからだ。
石巻市に入る前から活動が終わった後、これから先も
ボランティアがたくさん入ると思い、先陣に行くことを重視していた。
ずっと被災地に住みながら活動する人も必要であるが、俺は
それよりもボランティアが行きやすい流れをつくる必要性を感じていた。
なぜ今回、また被災地の現場に行ったのかと疑問を持たれる方もいるだろう。
正直な話、新潟中越に比べ、東日本大震災に関しては東京でも忘れている人は
ほぼいない。活動している人にとってはだいぶ薄れてきていると感じる人が多いが、
それはない。なぜなら直接、関東全域で被害を受けたのと今でも「放射能」の影響があるからだ。
だが、それでも最近、ボランティアに行く人が少なくなってきている・・
その要因としてはずっと被災地に住みながら活動している人が少し増えてきていること、
活動の質つまり復興段階が変わり始め、何ができるのかわかりづらくなってきている中で
専門性(重機・医療・福祉・教育など)の能力も求められている等、初めてボランティアに
参加する人にとっては参加しづらい雰囲気がある。
また参加団体によっては自己負担がかなり大きくなってしまうのも要因になるだろう。
(料金が高い、色んな団体があって統一されていないから見えづらい、期間が長い等)
さて話を戻すと、この時期は東北にとって1番難関な時期だと思う。
東北に住んでいない人にとっても過酷であるからボランティアが
少なくなるだろうと4月の時点で思っていたので、石巻市から
帰ってきてからはあまり自ら動くことよりも様子を見ることに徹していた。
「できるひとができる時にやればいい」
そう自分に言い聞かせ、知り合いのNPO/NGOから情報収集をひたすら続けてきた。
でも正直、周りが色んな活動で動き始めていた時はもどかしかった。
「俺だって動こうと思えばいつでも動けるのに・・!!」
心のどこかでそう思い、本気で悔しかった。だが、それを
言い聞かせていたのは、「俺が動くのは今じゃない」と自覚していたから。
先月までそう思っていたが、最近は福島から東京に避難してきた親子の託児ケアに
携わることができ、もう1度、現場に行く必要があるかもしれないと思い始めた。
実は今回の足湯ボラを知ったのは行く1週間前だった。
偶然、見つけたのもあって思い切って応募したら通った。
今回、岩手県を選んだのは宮城・福島の状況は自然と入ってくることが多いが
岩手は活動している団体がその2県に比べて、だいぶ少ない。またボランティアも
2県に比べて入っていないことも知っているので動く理由となった。
25日の朝、溜池山王にある日本財団に行くと参加者は俺を含めて約11名。
(その中で2名は災害ボラ事務局の大学院生アルバイトだから実際は9名)
思った通り、参加者は少なかったが参加者全員、
災害ボラ経験者というのは心強かった。
午前中はオリエンテーションと足湯の事前講習を行なった。
難しいことは1つもなく、12時終了が30分早く終わった。
昼飯も皆で近くの中華料理屋で食べて交流を深め、13時半には
新幹線(バスの予定だったが人数が少ないため)で岩手に向かい、
17時には新花巻駅に着いた。
18時まで釜石線が出ないことはびっくりしたがその間、交流を深める時間ができた。
そこから拠点となる「遠野まごころ寮」に着いたのは19時半になった。
というのも、18時45分には遠野駅には着いたが外は吹雪で歩きづらかった(笑)
ちなみに「遠野まごころ寮」は遠野まごころネットという
地元のNPOと静岡ボランティア協会が運営している。
電気・ガス・水道設備も完璧で無線LANも使える
ボランティアの拠点となるプレハブ寮のこと。
遠野を拠点にする場合、日本財団とまごころネットが
連携して活動を行なっているらしい。
その夜、ジンギンスカン(何故か遠野名物らしいww)を皆で食べに行き、
次の日のミーティングが行なわれ、活動場所とメンバーの割り振りされた。
26日(活動初日)の朝、6時半には起床して7時には朝飯を
食べてから寮の清掃を行ない、電車で移動する班は7時半に出発し、
車で移動する班は車に荷物を入れる等の準備をするので8時に出発。
俺は車で移動する班だったので拠点から釜石まで車で約40分ぐらい。
遠野は雪がすごいが数か所のトンネル(山を越える)をぬけると
釜石は全く雪が無い。その上、気温も遠野が-4℃だったのが
0℃と上がっている。(寒いのは変わんねえww)
車で釜石市内を走っていると特に被害もない上にお店もやっていて、
目的地の施設に着くと荷物を降ろして中に入った。そこは地元の
スポーツ協会の事務所となっている場所で建物も普通だった。
「もしかして釜石は被災してないのか?」
だが、その疑問はすぐに消えた。
なぜなら、その建物の裏に仮設住宅があったからだ!
この時はまだ足湯ボラが仮設住宅の中に入っていくことを
あまり知らなかったのでかなり驚いた。
暫くすると事務局の人が出てきて話をすると
「今日、足湯が来ることは聴いていない」と
初日にしてトラブルが発生!!
どうしたものかと考えると事務局の人が社協の人と電話して
必要な仮設に派遣できるよう、話をつけてくれた。
また現在の釜石市の仮設住宅の状況も教えてくれた。
今、約38か所の仮設住宅があり、1つの仮設エリアで平均で50世帯は
住んでいて年齢層も高齢者が多く、地域性もバラバラで知らない人ばかりで
交流が少ない。また若者がいるエリアとそうでないエリアで分かれている。
陸前高田のように外部から入る団体は多くない。
社協の人と調整してくれている間、近くにある酒屋さんで買い物をした・・
あるボランティアさんから以前、地元の人と話をしてる中で
「現場でお金を使うことによって経済が回りやすくなるからドンドン使ってくれ」と
言われたことがあると話をしてくれた。
買い物が終わってから移動し、野田町の仮設施設団地に着くと社協の人が
仮設集会所(談話室)を案内してくれて、ようやく活動ができることになった。
時間としては10時半と活動開始時間を1時間もオーバーした。
足湯を楽しみにしてくれた人もいたらしく、呼びかけで困ることもなかった。
足湯を担当するのはローテーションで必ずメンバー全員ができるようにする。
それを聴いた時、驚いた・・
都民ボラではまさしく「できる人ができる時にやればいい」と
考えるスタイルだったので、お湯を沸かしてる人は
その日ずっと担当するものだと思うし、待合室で
「おちゃっこ」(方言でお茶会らしい)をしながら
話したり、準備する人もその位置だと考えていたからだ。
と言いつつ、その日1番足湯を担当していたのは俺だったww(4名)
1人ひとりと会話して「ニーズ」や「本音を吐きださせる」ことが目的で
あくまで足湯は手段なので、1人終わったら「つぶやきカード」というものを記入する。
「つぶやきカード」を記入する際、俺とかは「ニーズ」の部分か
「ニーズ」が含まれている会話の1部しか書かないものだと思って
書いたら書き直しをくらった。
というのも、「つぶやきカード」は
その人との会話をすべてそのまま書くものらしい。
職業病というものはこういう時に出るんだなぁ~(笑)
そう感じながらも慣れない書き方のなので下手なのは仕方ない。。
その日、1番印象的だったのは30代の女性の方で
小学生ぐらいの娘さんと一緒に来て足湯を
楽しんでくれたんだけど、色んな会話をしていく内に
地域の子どもたちについて話をしてくれた。(掲載許可を得ている)
この仮設住宅で小学生は娘さんしかいないそうで
ほとんどの友達は社宅や別の仮設などでバラバラになっている。
学校では会えているが、前と違って遊ぶ約束をちゃんとしないと
いけない(東京と東北との文化の違い)状況になったり、
遊ぶ場所も限られている。
実際、この野田町の仮設も元は唯一の公園で
近所の子どもたちに対しても遊ぶ場所を
奪ってしまう形になってしまったと話をしてくれた。
昼飯が食べ終わってから、外にあるお湯の様子を見に行ったら
2人姉弟(幼児)が遊んでいるのが見えたので、一緒に遊んで
さっき来てくれた小学生の子が1人でなわとびをしていたので
「二重とびできるぅ~?」と離れていたので聴こえるか
不安だったけど、やって見せてくれた(^^♪
それから近くに行って話しかけるとなわとびで
一緒に遊んだり、色んなことを話をしてくれた。
その日、足湯に参加してくれたおじいちゃん・おばあちゃんが
「子どもがいなかったら地域再生はあり得ない」って
言ってたことがよくわかった。
足湯が終わってから社協の人が来て、地域で必要としてるとこは
多いと話をしてくれたので皆で「どこでも行くので気軽に言ってください」と
伝えたら、ものすごく喜んでくれて信頼関係が一気つながった。
27日(活動2日目)は社協の人から初日の場所から
15分ぐらいのとこにある小佐野町の仮設に行ってほしいと
初日に地図をもらい、向かった。
そこは廃校となった中学校のグラウンドを活用した仮設住宅だった。
到着した後、入口近くに集会所だったので準備は順調。
ただ驚いたのはそこの集会所は綺麗なスロープがあったのと
車いす用トイレがあったこと。
その日は左手を怪我したおばあちゃんから始まり、漁師のおじさんと
おちゃっこしながら、震災当時のことを教えてくれた。
ちょうど3月11日、14時46分の30分前ぐらいにおじさんは
津波が来ると思い、防波堤に避難した。最初はいつものように
すぐ治まるだろうと思っていたが、ドンドン津波の勢いが
強まっていくのに気付き、自主的に防波堤に避難して助かった。
今は分け前制で割りに合わないらしい・・漁師は自営業だから
船が無くなると仕事ができなくなる。とはいえ、他の仕事を
やると言っても難しい。
かなり前向きなおじさんだった。。
でも、「街は10年あっても立て直せない」という
ネガティブなことも言っていた。
おばさんは今回の震災で左手を怪我して先日、手術をしたらしい。
右手は脳梗塞で後遺症があってあまり上手く動かせないらしく、
怪我する前は畑仕事などは左手を使っていたから今、上手く
動かせないのは悔しいが「生きてるだけで儲けもんだ」と
精神力の強さを感じた。
この仮設は隣が小学校ということもあり、子どもが多く住んでいて
ユニセフからもキッズキット(おもちゃ、絵本、文房具など)が
届けられていたが必要な分だけ出して整理されていなかった。
また別の支援物資であろう棚も活用されていなかったので
集会所管理の住人の方に許可を得て、棚を活用して整理整頓をさせてもらった。
その効果が午後にあった・・
子どもたちが遊びに来てくれた時にどこに何があるのかを
わかりやすくしたので、子どもと一緒に来た
おじいちゃん・おばあちゃんは「これもあったんだ!」と驚いていた。
キッズスペースの管理を自治体だけでなく、
ユニセフ職員やボランティア、仮設の住人が一緒に行なうことで
「子どもの遊べる環境づくり」ができることがわかった。
28日(活動最終日)は5時にたたき起こされた(笑)
というのも前日に「皆で豆乳を飲みに行くぞ」と
言われたのがはじまり・・(T_T)
どうやら今まで遠野に来ているボランティアの風習で
「遠野に来たらこれ!」というのが出来たての豆乳らしく、
朝5時半にめちゃくちゃ寒い中、豆腐屋に行って豆乳を飲んだ。。
滑りかけて危なかったぁ~(;一_一)ww
その後、いつも通りに準備をして、その日は
甲子町(かしまち)という山に近い場所に仮設住宅団地があり、
世帯数が少ない(それでも45世帯)ので集会所がない。
なので、廃校となっている小学校の一部
(産直を行なっているとこ)を使って行なった。
そこの壁には鹿踊り(ししおどり)という遠野から釜石まで
伝わる伝統文化について書かれた展示物があった。
また卒業制作らしきものも鹿踊りに関するものが
展示されているのを見ると相当盛んな踊りだったと思う。
その日は足湯に来る方も少なく、話を聴くと・・
「働きに出ている人や今日は皆、大掃除とかしていると思うよ」と
声もあれば、「昨日、大槌からここに来たからよくわからない」という
人まで様々だった。
昼飯頃に集会所が無かったため、水を入れられるとこが
無かったのを朝、「あたしの家の水道を使っていいわよ」と
ご厚意で貸してくれた方から・・
「お腹すいてない?全員、あたしの家に来なさい!」
とローテーションでその方のお家におじゃまして御馳走になった。。
俺の番になり、初めて住宅の中に入ると集会所より狭かったが
ソファーとこたつが入るぐらいの広さはあった。
そこで「くるみ餅」と「赤カブの漬物」を
御馳走になり、お話を聴かせてもらった。
そのまま時間が経って活動が終わり、遠野に戻るのかなと
思ったら「まだ被災したところ、見てないですよね?」と
コーディネーターから聴かれたのでYESと答えたら
「今からこの周辺で1番被害があった大槌町を見てください」と
連れて行ってくれた。
そこで初日に感じた「もしかして釜石は被災してないのか?」という
誤解が解けることになった。
初日に行った酒屋さんから車で10分ぐらいで商店街側に着くと
ボロボロになっている建物が多かった。ドンドン沿岸部に
向かえば向かうほど建物が無くなっていく。
そして釜石市内から30分ぐらいで大槌町に着くと・・
本当に何もかも無くなっていた。。
あれは車内にいても唖然とするぐらいの地獄絵図に近い景色だった。
建物らしきものがあっても、いつ倒れてくるかわからないものも
あれば、跡地になっている。
また石巻同様、ガレキの集積所があった。
ただ、そう暗くなることばかりだけじゃない。
少しずつだがローソンとイオン、パチンコ屋が
リニューアルしてOPENしていた。
立ち寄った時も人がかなりいて驚いたのと同時に
日本の復興力がものすごいと思った。
ひとまず、その夜に深夜バスで東京に戻り、無事に
今年の活動を終えることができた。
今度いつ被災地に行くのか、もう行かないかもしれないが
復興まで長くなるのは確実である。
ただ東京にいてもやれること等もあるので、
そういった意味では長く関わることになると思う。
今回の現地の写真はFacebookでアップしています。(Facebookをやっていない人も見れます)
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.242001852540227.58239.100001912432232&type=1&l=75a8ef99ad
あれから(後半)
3月31日、いつものように情報収集で「ボラ市民ウェブ」
(東京ボランティア・市民活動センターHP)を見ていた時、
「3月11日に被災した宮城県での災害ボランティア募集!」という記事があった。
その内容は「東京都から災害支援ボランティア(都民ボランティア)派遣が
決定し、第1期から第4期までのメンバーを募集する」ということだった。
4月1日に240名の枠で3日にある説明会を朝10時からHPで申込みが
できるようになるということで次の日に申込みが30分で終わった。
なんとか自分もその枠に入れて説明会に参加することができた。
説明会の日、東京都庁が会場で多くのマスコミが取材で来ていた。
「説明会ってそんなに重要なことなのか?」と疑問に思ったが、
当時はどこの都道府県もボランティア派遣をしていなかったため、
ネタとしては最新だったんだろうと最近、思うようになった。
説明会が終わり、その260名から第1期としては
60名弱という選考枠、その時の自分は半分あきらめていた。
結果発表の次の日の朝、メールを確認したら・・
「第1期メンバーとしてあなたに決定しました、明日の朝に集合してください。」
喜んでいいのかわからなかったが行けることに緊張を生んでいた。
別に都民ボランティア第1期メンバーに
プレッシャーを感じなかった訳ではないが、
それ以上に・・
「自分が行って、果たして役に立てるのだろうか?」
という不安が自分の心のどこかにあった。
その不安を背負いながら出発の朝、
周りの人を見ると皆、どこか緊張している様子があって、
それを取り除くかのようにグループで来ている人が多かった。
出発してから約4時間半・・
福島県郡山市のパーキングエリアで
休憩だった時、外に出てから空気に
何か違和感を感じた。
後々、他のメンバーにそのことを話して
聞いたら特に感じなかったらしい。
だけど、あの時に感じたものはそんな簡単なものじゃなかった。
東京以上にきれいで好きな空気なんだけど、
空気の中に重苦しいものが入っているのを
感じた。
気になって芝生があるところを歩いてみた。
通常、芝生の上を歩くと必ず、ほんの少し
押し返してくる。
だが、あの時の芝生は押し返してくるどころか
何も感じることが無かった。
明らかに何かが違うことを感じた。
その時は放射能がそこまで浸透してる訳では
なかったから、それぐらいで済んだかもしれない。
話を戻そう。
それから約2時間半、宮城県のある場所に着いた。
そこを11日まで拠点にして動くことを聞き、
チーム分けになった。
自分のチームは自分も含めて4人で
年齢層がバラバラでリーダーは
自分がやることになった。
チームは全13チーム、
つまり、リーダー13人で動くことになった。
その夜、初のリーダーミーティングで話題になったのは
食糧の問題だった。今だから話せるが、食糧も含めて
必要なものは前もって用意されていた。
それの処理について自分たちが食べるのではなく、
被災者に届けるべきじゃないかという意見が出た。
そこでリーダーたちに混乱が起きた。
「自分たちが働くために必要であり、
それ以上に働いて行こう。そして必要最低限で抑えていこう」
という結論になった。
初日から不安を感じたが、これは序章に過ぎなかった。
次の日、朝5時半起床で6時半には拠点を出て、
石巻ボランティアセンターがある「石巻専修大学」に向かった。
向かう際、バス移動かと思われるが13チームにした理由は
1班ずつで動けるようにするためで移動手段も
各チーム1台のレンタカーで移動するようになっている。
そのため、石巻ボラセンに向かう班と
事前に依頼があった石巻にある高校に向かう班、
東松島市ボラセンに向かう班にと分かれる。
石巻に着くと大通りは道路が壊れているところも
あれば、そうでもないところの差が激しい。
川沿いだと海水とガソリンが混ざったような匂いがあり、
船も陸地に出されていてボロボロな状態だった。
石巻ボラセンはキレイな大学だった、そこを拠点としている
個人・団体・企業などの人たちがいっぱいいた。
そこで依頼があったのは幼稚園の清掃&ガレキ処理をすること。
その依頼を持ってきたのは個人ボランティア集団の
リーダーの1人で被災1週間後に千葉県から来たらしい。
その人に詳しく話を聞いてみると・・
「ボラセン自体がまだ出来て1週間でスタッフは余裕なんてないし、
ボラセンの事務スタッフの中にも地元の人がボランティアでいたり、
1地区に200人のボランティアを送っても足りない状況なんだ」
と教えてくれた。
自分とその人の電話のやり取りで3チームを連れて、
ようやく集合場所のスーパーの駐車場に着いた。
そこで見たのは自衛隊の給水車両があって給水支援をしていた。
また津波の時に置いて行かれたであろう車がボロボロになっていた。
その人と合流して依頼場所の幼稚園へ歩いて向かう。
歩いて向かう道が普通の道じゃなくて車は絶対に通れない道で
畑も海水と土が固まって農産物は台無し、また下水も海水で
汚染されていたり、道なりに進むと家の柵が車で飛び出てたりして
通りづらくなっていた。
ようやく細い道から出て見た光景は住宅街の道にゴミの山が並べていた。
近所の人によると各家庭から出たゴミを
道路に置くしかないから、みんな置いているとのこと。
それにしてもここだけでなく、道沿いにそういった山が
たくさんありすぎて車が通れなくなっている。
依頼場所の幼稚園に着くと海水の匂いがきつくなっている。
建物そのものはダメージがなかったが、中に入ると海水で
びしょびしょで滑りやすくなっていた。
とりあえず最初は使えるものと捨てるものの分ける作業を行なった。
作業中、幼稚園の先生に被災時のことについて教えてもらった。
幼稚園については病院が運営していて、園児は看護師の
子どもを受け入れているらしく、被災時は先に病院の患者の対応を
してからの幼稚園の対応だったらしく、本当にギリギリで避難できたらしい。
園児たちの家族も全員無事でみんな、家族で避難しているとのこと。
次に園内の清掃で不幸中の幸いなのか、水道が生きていたので
ホースで水を流してデッキブラシで清掃をした。
それと同時に園庭が芝生になっているらしいのだが、畑同様に
海水と土が混ざって固まっているため、取り除く作業を行なった。
途中、塩釜市の高校生サッカー部ボランティアも
駆け付けてくれて皆で片付けた。
「塩釜市も被災にあっているのに大丈夫なの?」と聞いたら・・
「1番被害がすごいのは石巻だし、自分たちは家族も家も
大丈夫だったから。手伝わなくちゃいけないと思って来たんです。
それにこの状況だから皆で助け合わないと」と部長の子が話をしてくれた。
その力もあってか、15時半には取り除く作業が終わった。
とりあえず初日の作業は終わり、拠点に戻ってから
リーダーミーティングで次の日も幼稚園での作業を
継続させてもらえるように頼んだ。
次の日、ボラセン側から「今日も昨日と同じ場所をお願いしたいんですが・・」
ということもあって、幼稚園での作業を継続した。
ただ担当リーダーが変わり、前の人とは違う人が担当だった。
しかし、前日の作業途中で会っていたため、その人とのやり取りは
自分が担当することになった。
その人は被災後に前の日の人も含めて仲間に声をかけて、
すぐ駆けつけて個人ボランティアのコーディネーターをしているらしい。
すぐに意気投合して色んなやり取りをしながら昼休みに普段の仕事に
ついても聞いたりした。
こっちが作業している最中、個人ボランティア集団が園庭で結構、待機していた。
リーダーはあの人だとすぐわかったので待機中のボランティアを動かしても
大丈夫だと動かそうとしたら都民ボランティアのリーダーの2人から反対された。
「すいません、ちょっと借りてました」で済む問題なのに、相手が
都民ボランティアじゃないからとか、この状況で言うのは正直、あり得ない。
心の中でそう思ったが「ボランティアを初めてやる人たちにとって
組織が違う人たちを受け入れるのは難しいんだろう。」
と割り切って反対意見を受け入れることにした。
途中、あの人を含む個人ボランティア集団が
街の中に設置した倉庫に必要な道具を
取りに街の中を歩いた。
1地区に複数の倉庫を設置して、設置場所に
個人宅の協力を得ている。街の人にも顔を
覚えられていたり、素人で短期間で
ここまで出来るのがすごいと思った。
作業が終わった後、あの人と話をして
「自分が本部に連携してもらえるようにお願いするから
連携してもらえないか?」とお願いしたら
快く承諾してくれた。
その夜、リーダーミーティング後に団長と
東京ボランティア・市民活動センターの担当者に
石巻ボラセンの状況と連携が必要であることを説明した。
その途中で大きな地震が来た。
停電・水道・ガスが使えなくなった・・
ライフラインが無くなることは
自分たちも被災したのと同じ。。
幸い、食糧・水は大量にもってきていたため、大丈夫だった。
もちろん高速道路も使えないため、次の日は
拠点周辺の情報収集だった。
拠点周辺の住宅街は水道は止まっていなかった。
というより、拠点だけ何故か水道が止まっていたという(笑)
最後に見に行った場所は公式の競技場(ドーム)、
しかし、そこはもう競技場ではなく、今は遺体安置所だった。
中に入らず、入口前で黙祷した。
その時、悲しみが一気に流れてきた。
自分ではなく、そこに眠る人たちなのかはわからないが
何か悲しみに似たものが自分の身体を通して流れてきた。
それは3年前、初めて稚内に行って北方領土による争いで
亡くなった人たちの遺影の前に立った時と同じものだった。
そこで改めて3年前に誓ったことを誓った。
次の日、雨が降る中で初めての個人宅での作業。
個人なので話す内容も作業も気を付けながら行なった。
思い出の品を見つけると過去の話など色々聞かせてくれた。
その後、拠点に戻って拠点の整備を行なった。
各チーム、作業場所が一緒だったり、そうじゃない場合があるので
帰還時間はバラバラで拠点周辺はスーパーを含む店は
全て営業しているので帰り道にご飯を食べてから帰ってくるチームも
少なくはない。
そういった時間を使ってチーム内で交流を深めたりする。
だが、自分のチームの場合は毎日必ず議論する。
1日の振り返り・反省から都民ボランティアの運営そのものについて。
毎日必ず自分のリーダーシップについてツッコまれる(笑)
だけど、そう議論することで自分の足りないものやメンバーの
認識や本音を確認することができて良かったと思う。
また自分が考えるリーダーシップと
彼らが考えるリーダーシップは全く違うものである。
そういったことを「気付く」ことができた。
その夜のリーダーミーティングで作業最終日に
気仙沼市と石巻市どちらで活動するかで議論が起きた。
最終日に初めて気仙沼市に行くことになるんだが、
ほとんどのチーム(11チーム)が気仙沼市を希望して
自分のところと1チームが石巻市で活動することを決めた。
実はそのことについてチーム内でかなり議論が起きた。
その時、初めてキレたのはよく覚えている(笑)
最終日、活動終了後に石巻ボラセンに寄って
寄せ書きを貼った・・
その理由はまた来た時に思い出せるようにすること。
帰る日に引継ぎ用の記録をまとめて第2期が来た時に
ちょうど震災から1ヶ月だったので全員で黙祷をしてから
第2期メンバーが乗ってきたバスで帰った。
その時にまた福島県郡山市のパーキングエリアで
休憩して出発しようとした時に地震が発生。
なにかと呼び寄せるのか、1週間の中で
震度6強を2回も味わうなんて。。
あれから2ヶ月が経った今も都民ボランティアは
第14期と継続されているが参加者の人数は減っているらしい。
また知り合いの団体等でも募集はしているが減っているとのこと。
減っていること自体は仕方ない問題だと思う。
ただ、そろそろ心の問題など限界がきている時期になる。
しかし、本当の問題は皆「忘れてしまう」ことだ。
人間はリセットしようと忘れようとする本能がある。
3ヶ月ぐらいになると、そろそろみんなの中から
「自分の問題から現地だけの問題」と切り替わる時期だと言ってもいい。
だから「現地に行って活動してきて!」なんて言わないし、
「募金ご協力お願いします!」なんて人によってハードル高いと思う。
自分はそれよりも「忘れないで。そして自分の問題として考えて」ほしい。
「自分には何ができるんだろう?」と考えるだけでもいい。
「東北のものを食べて「今頃どうしてるんだろう」?」と考えてくれるだけでもいい。
この「3.11」を忘れないで。
今回の現地の写真はFacebookでアップしています。(Facebookをやっていない人も見れます)
http://www.facebook.com/media/set/?set=a.151852168221863.39081.100001912432232&l=acb811f719
あれから(前半)
2011年3月11日(金)
「東日本大震災」が発生。
この震災により、多くの人が亡くなり、生き残った人は生きるため、避難所生活や故郷を離れる生活をすることになった。
東京でも一部の家や建物に被害を与え、交通・伝達・物流機関に大混乱を巻き起こった。
あの日、自分は教育系NGOのネットワークの打ち合わせで世田谷区にある20階建てのビルの11階にいた。
ちょうど打ち合わせが落ち着きそうな時に震災にあった。
管理者によると耐震性の強いビルは揺れを吸収して崩れないようにするらしい。
しかし、あの時は横も縦もあって床が抜けて「911」(2001年9月11日)みたいになるかもって思ったし、本気で「死ぬ」と…そう思った。
それから無事に家について3日間ずっと考え込んでいた。
だが、その時は考え込んでいたというより「自分はこういった事態に備えて色んな活動してきたのに何も出来ない」
絶望感に陥っていた。
そんな中、突然の連絡がきた。相手はいつもお世話になっているNGOの代表からだった。
内容は…
メディア系のNPOから震災に関して市民が取り組むことを某放送局に頼んで「市民が番組をつくる」ことをやろうとしている。
でも、スタッフが手一杯で話を聴きに行ってくれないか?とのこと。
それから4日後に某大手新聞社ビルでうちを含めて4つのNPO/NGOが集まって某大手新聞社と某放送局の局長とプロデューサーの方々と話し合った。
初日だと言うのにスムーズに話が進んだのは「奇跡」だと思う。
今でも、よく覚えているのは「辞表覚悟でやるから責任問題は心配せず思いっきり番組をつくってほしい」 という局長の一言。
友人・関係者以外で「大人」という存在を信じられなかったが初めて信頼できる人だった。
それから何回か会合が行われてきたが忙しい合間に2回ぐらい顔出しに来てくれた。
そして3月30日にうちの団体のVTR撮影をして無事に4月5日の放送日に間に合った。
~後半へ続く~
「東日本大震災」が発生。
この震災により、多くの人が亡くなり、生き残った人は生きるため、避難所生活や故郷を離れる生活をすることになった。
東京でも一部の家や建物に被害を与え、交通・伝達・物流機関に大混乱を巻き起こった。
あの日、自分は教育系NGOのネットワークの打ち合わせで世田谷区にある20階建てのビルの11階にいた。
ちょうど打ち合わせが落ち着きそうな時に震災にあった。
管理者によると耐震性の強いビルは揺れを吸収して崩れないようにするらしい。
しかし、あの時は横も縦もあって床が抜けて「911」(2001年9月11日)みたいになるかもって思ったし、本気で「死ぬ」と…そう思った。
それから無事に家について3日間ずっと考え込んでいた。
だが、その時は考え込んでいたというより「自分はこういった事態に備えて色んな活動してきたのに何も出来ない」
絶望感に陥っていた。
そんな中、突然の連絡がきた。相手はいつもお世話になっているNGOの代表からだった。
内容は…
メディア系のNPOから震災に関して市民が取り組むことを某放送局に頼んで「市民が番組をつくる」ことをやろうとしている。
でも、スタッフが手一杯で話を聴きに行ってくれないか?とのこと。
それから4日後に某大手新聞社ビルでうちを含めて4つのNPO/NGOが集まって某大手新聞社と某放送局の局長とプロデューサーの方々と話し合った。
初日だと言うのにスムーズに話が進んだのは「奇跡」だと思う。
今でも、よく覚えているのは「辞表覚悟でやるから責任問題は心配せず思いっきり番組をつくってほしい」 という局長の一言。
友人・関係者以外で「大人」という存在を信じられなかったが初めて信頼できる人だった。
それから何回か会合が行われてきたが忙しい合間に2回ぐらい顔出しに来てくれた。
そして3月30日にうちの団体のVTR撮影をして無事に4月5日の放送日に間に合った。
~後半へ続く~