小中学生の頃、学校で「○○さんが○○した」という類の、当人にとって不名誉な噂が色々、幾つも耳に入っていました。 その対象となった人が本当に噂通りの事をしていたのかは分かりませんが、当時の私たちにとって「噂」という物は、何か特別な優越感をもたらす存在でした。 多くの人が興味を持って噂に食い入ったり、それを元に連帯感を強めたり、事情通がもてはやされたり・・・今思えば非常に残酷で卑しい行いでした。


安全な場所から他人の秘密・不幸を鑑賞出来る・・・

架空の話ではなく、現実に起きた見知った人の話・・・

本人のいない場所で好き放題に罵倒出来る・・・


それが目立ちがちな人のものなら余計に面白く、「あんな事したくせに」と、事ある毎に蒸し返して仲間内で笑って・・・楽しんでいたんだと思います。




始めは人の悪口・陰口を聞いたり話したりする事に抵抗のあった私が流され始めました。 そのタイミングは多分、性の知識を得始めた頃から・・・だったと思います。 多感な思春期という時期のせいか、自分以外の誰かに性的な興味を抱くようになって、それが歪んだ形であればあるほど刺激的で、その刺激をたしなむ事で独特の満足感を得ていたように思います。


人間関係の話より恋愛話、恋愛話よりセックスの話、セックスの話よりアブノーマルな話、アブノーマルな話よりアウトローな話・・・こんな風に興味の対象は次々と他人のプライバシーへ深入りし、まだ見ぬオトナの事情を知りたがるようになりました。 他人の失敗や不幸を笑うようになりました。


一度流れた噂はいとも簡単に人から人へと広まり、それが鎮まる頃には次の噂が、まるでどこかで意図的に量産されているかのように絶え間なく沸いて出ます。 それに感化された私は、他人の秘密を興味本位で知りたがりました。 自分の中で揺れていた罪の意識を殺してまで、そんな楽しそうな人の輪に入りたいと思いました。 その輪の中にいれば、無条件で「仲間」になれるような・・・よこしまな考えがありました。


「みんなしている事だから」・・・それが免罪符になっていたのでしょうか。 当時の私たちにとって「みんな」なんて、せいぜい自分の周りにいる5人や10人ばかしの規模です。 それも決して絆で結ばれた関係ではなく、何の土台も無い上辺だけの、無粋なネタを共有しているだけで保つ薄っぺらな関係でした。 そんな物を根拠に各々が、他人を傷付けて、弄んで、自分だけ楽しんでいたんです。


そんな上辺の付き合いを続けながら、腹の探り合いもしました。 互いに特別親しい間柄でもないから、隙あらば相手のネタを引き出そうと、話を合わせるフリをして秘密を聞き出したり、力を貸すフリをして事情を聞き出したり、愚痴を聞くフリをして他人の悪口を聞き出したり・・・。 相手の善意を利用して、相手の心をこじ開けて、相手の弱みに付け込んで、ネタを引き出していました。

引き出したネタは自分の関係を拡張させるアイテムでした。 次の噂の火種になるような話を持ち出せば、また他の誰かと繋がる事が出来て、自分の居場所をいつまでも安全に保てるような気がしていました。


でも、他人の痛みや悲しみを糧に生まれた関係など長く続くはずも無く、長い目で見れば誰の得にもならない無益な物でした。



社会人になってからは、そこに金銭や人脈が絡んだり、更に複雑な形で似たような関係が生じるのではないかと思います。 私はまだ社会人として未熟な人間で、来年にはもう一度学生に戻る身ですが、もう二度とあんな事に身を堕としたくないと思っています。


人を蔑み罵る事で得るものなんて、もう私には必要無いから。

そんなものにすがるほど、今の私は弱くないから。



イジメ、差別、偏見、ネットでの中傷。

悪意の無いつもりで話していた噂話。


自分と相手の立場を入れ替えて、一度考えてみてください。

自分の家族と相手の立場を入れ替えて、近い場所から見守る者の目で見てください。