第79回 活字におけるTPO | 『虹のかなたに』

『虹のかなたに』

たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 随分前のことだが、勤務先で、ある幹部が1枚の書面を手にして嘆きの溜め息をついていた。「どうされたのですか?」と訊くと、「これを見てみて」とその書面を差し出された。始末書のようであったが、内容よりも、その見た目に絶句してしまった。フォントが全文、「丸ゴシック体」だったのである。
 
 何が問題なのかと訝られる向きもあるかもしれない。しかし、実際を見ていただきたいのである。
 


 これが普通の始末書である。これを丸ゴシック体で表すと、こうなるのだ。
 

 
 如何であろう。あくまで個人の主観ではあるが、私にはここから、書き手の「にやけた笑顔」がイメージされてならず、およそ反省の色など感じられないのである。
 
 フォント選びにおいて、視認性は第一義的に重要ではあろう。しかし、それと同時に「文面や内容に相応しいかどうか」の視点でも書体が選ばれて然るべきだと思うのである。
 
 汎用性が高いのは何と言ってもゴシック体で、街中の看板や、パンフレットやチラシのなどの印刷物は、大概がこれである。この安定感は、画の幅が縦横ともに一定であり、かつ、角がしっかり張っている堅実さに依るところが大きいと思われる。ところが、海外、特に漢字文化圏のアジア諸国に行くと、公共交通機関のサインシステムが軒並み明朝体なのに驚かされる。シャープでよいという意見もあるかもしれないが、明朝体というのはご承知の通り、縦画が太く、横画が細い。この横画の細さが何とも冷たい感じを醸し出し、だからこそ逆に、感情を抑え、事務的に何事かを伝えたり、反省や謝罪を述べたりするのには最も適したフォントなのである。
 
 因みに、縦横で太いと細いを入れ換えた「雅芸体」というフォントがあるが、あれのアンバランスは不安を通り越して一種の恐怖さえ駆り立てられ、誠によろしくない。先ほどの始末書をこれで表現するとこうなる。
 

 
 反省を装いながらその実、逆上して刺されそうである。
 
 また、ゴシック体にもさまざまなバリエーションがあって、街中でもよく見かける「新ゴ」と呼ばれる書体は少しポップな感じを受ける。Windowsのシステムフォントとして、MSゴシック系に代わって用いられるようになった「メイリオ」というフォントも同じようなテイストであるが、どうも軽い感じがして好きになれない。汎用性の高いフォントは、ユーザーの嗜好を左右してはいけないと思うのである。見出しなどに使うのはよいだろうが、例えば世間を騒がせたお詫びのプレスリリースを出すようなときには、真剣みが足りないような気がするのだ。
 
 そんな訳で、活字にもまた「TPO」というものがあるのではないかと考えるのだ。さまざまな状況に適したフォント遣いを、例を挙げながら考察してみたい。
 

 これはゴシック体でも明朝体でも違和感はないと思うが、右のような篆書体で書かれると、何だか便器の中から手が伸びてきそうで怖いのである。
 

 特売の常套句であるが、これは客の目を引くインパクトが重要であるから、右のようなファンシーなフォントでは如何にも力不足である。病院や薬局の前にこの幟が立っていたら尚更問題だ。
 

 子ども相手なら丸っこい字の方が親しみがあってよいだろう。極太明朝体では「泣く子も黙る」印象を与えるイメージだが、ビビって却って言うことを聞いてくれるかもしれない。
  

 今日日あまり見ないような気もするが、かつてのヤンキーどもに最も膾炙したと思われる四字熟語である。両者がタイマンを張っても、勝敗結果は論ずるまでもないだろう。
 

 希望に満ちた表現に、ポップな書体はよく似合う。右のような古印体では、むしろ「夢破れて」という感じで、絶望する若者に早まるなと制止せねばならぬかもしれない。
  

 しかし、同じ若者へのメッセージでも、詩的要素が加わると俄然、明朝体の勝利である。そういえば、印象に残る広告コピーのほとんどは明朝体であるような気がする。
 
 甚だ主観に偏ったことを述べてしまったけれども、満更的外れなことを言っている訳でもなかろう。表現者たるもの、読む(見る)人の印象を慮り、それぞれの内容やシチュエーションにフィットしたフォント選びを心掛けたいものである。
 
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