第69回 男が喋りで何が悪い | 『虹のかなたに』

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たぶんぼやきがほとんどですm(__)m

 「喋らない若者」が増えているという。『話し方マニュアル』のような本が軒並みベストセラーになるのも、そうした世相を色濃く反映したものなのだそうだ。私などは「黙っていたら死ぬ」人間なので、喋らないで1日を過ごすというのが一体どういうものなのか想像もつかないし、精神衛生上よいことのようにも思えないのであるが、会社内での日常会話はおろか、商談の場で取引先を前にしても無言を貫く猛者までいるというから驚きである。前回、電車の車内放送が喋り過ぎではということを述べたが、どうしてどうして、口下手とか話下手というレベルを超越した人もいるのであって、十人十色とはよく言ったものだと、改めて実感するのである。
 
 言葉というのはコミュニケーションの必須手段であるから、喋らないで1日を終えるのは、人との関わりを完全に絶って過ごすことを意味するはずである。引きこもりの人ならそれでも構わないだろうが、社会に出ている人間がどうやって毎日の生活を営んでいるのだろうかと訝られてならない。そもそも、就職活動では面接があったはずだし、それを乗り越えて入社しているはずだから、「喋りたくない」のではないのだろう。「何を喋ってよいのかわからない」ということなのだろうかと考えるが、メールとかSNSとかでは、日々きっと何事かを発信しているのであろうから、「言葉が出てこない」という失語症のようなものとも違うはずである。
 
 確かに、会社の会議などでは自ら進んで挙手することもなく、指名されてもろくに答えられないのに、レポートや報告書、果てはFacebookだのTwitterだのになると俄然強くなるという人の話はしばしば耳にするから、面と向かっての丁々発止のやりとりが辛いということなのかもしれないし、私とて議論を終えた後に、「ああ言えば論破できたのに」と思うことはしばしばである。だが、人と話をするのは、そんなに大層で大仰なものであろうか。他愛もない会話をするのに、一々文字に起こさねば喋ることもできないというのだろうか。全く以て不思議な話である。
 
 以前にも記したことがあるが、中学2年になるとき、急な転校を経験した。時はバブル景気の真っ只中、都心部にマンションを購入した親たちは、秘密裏に事を進め、終業式の1ヶ月くらい前に、突然それを宣告された。この歳になれば、持ち家を持つことが大人にとってどれだけのステータスなのかは十分に理解できるが、当時の我々子どもたちにそんなことが理解できるはずもなく、友人たちとの急な別れが如何に残酷なものであるかを切々と訴えた。しかし、既に後には引けぬところまで話は進んでいて、自分たちで生計を立てることの叶わない子どもたちは、無条件にそれに従う他はなかった。距離的には高々10キロ程度の移動だったが、心理的には果てしなく遠くの町にやってきた思いだった。親から騙し討ちに遭うが如き急な転校であったため、1年間にわたって心を閉ざしてしまう事態に陥った。
 
 いじめに遭っていた訳でなし、話し掛けてくれる人がいない訳でなし、警察にしょっ引かれるようなヤンキーたちでさえ優しく声を掛けてくれた。なのに、誰にも心が開けない。酷いときは、給食に手をつけず茫然としていて、担任が駆け寄ってくるような始末だった。当時、あくまで当時、私が光GENJI(ローラースケートを履いて歌って踊る、80年代後半を席巻したジャニーズのアイドルグループ)の誰やらに似ていると評判(?)が立ち、他のクラスから見学にお見えになるほどの有名人ぶりだったが、それも他人事のような感じで、ただ物憂そうに窓の外を見つめている、文字通りの「ガラスの十代」であった。
 
 しかし、日々を黙って過ごすというのは実に辛いものである。転機が一体何であったのか最早記憶にないが、3年になって、担任やクラスメイトにぽんと肩を叩かれたような感じだったのだろう、元の自分を取り戻すことができた。2年のときの様子を知っていた3年の担任は、始業式の後、「もっと自分をアピールして」と言ってくれたが、卒業時、母親に「私は4月、彼にいらんことを言ってしまったようです」と苦笑しながらこぼすほどに、“喋りの私”がここに完成したのであった。
 
 この学年での級友とは、四半世紀経った今でもはっきり覚えているほどに楽しい日々を過ごした。中でも「学校祭」はビッグイベントで、文化祭、応援合戦、体育祭を1日ずつ、連続3日にわたって盛り上がり、終われば校則なんてどこ吹く風、打ち上げで大いに弾けた。親が警察官という奴の家を舞台に、男女10数名で酒盛り+AV鑑賞会を催したこともあった。担任の家で焼肉大会を開き、「ビールなしで焼肉なんか食うな」と、担任自ら酌をして回るなんてこともあった。今なら全国版記事レベルの大問題であろうが、我々はこの担任を大いに慕い、親は全幅の信頼を置いて、誰一人として苦情抗議を述べる者はいなかった。
 
 振り返ってみると結果として、転校してきたこの中学では、人生の影響を受けたり、思い出に深く残ったりする人たちとの出会いが多くあった。担任に憧れて「教師になりたい」と思ったのもこのときだったし(なれていないけれど)、人生初の彼女ができたのもこのときだった(高校進学前に破局し、ショックで3日寝込んだけれど)。そして何より、人と喋ることの楽しさを実感できたのも、このときだった。もう長いこと誰にも会っていないし、あのときのメンバーが今、どこでどうしているかは分かれないけれども、もし、同窓会というものが実現して、「今どきの若者は、喋らないねんて」と言ったら、きっと皆は「何と勿体無い!」と口を揃えるに違いないと思うのだ。
 
 そう、黙っているなんて勿体無いのだ。かつて寺山修司は「若者よ、書を捨てよ、町へ出よう」と言ったが、平成の現代ではさしづめ、「若者よ、スマホを捨てよ、口を開こう」とでもなるだろうか。否、スマホを捨てるのは難しいだろうけれど、それを片手にしつつでもよいから、言いたいことを、自分の口を使ってしっかり発言する勇気を持ってもらいたいものである。