一昨年から、不定期ではあるが、地下鉄御堂筋線のなかもずまで通うことが増えてきた。私の最寄り駅は東三国であるから、この間約40分。御堂筋線は千里中央からなかもずまでと思われる向きが多いようだが、路線図をよく見ると、江坂から先には「北大阪急行線」と書いてあり、正式な起点は江坂である。なので私は、江坂から東三国の1駅間を除いたほぼ全線を踏破していることになるのだが、淀川を渡れば、後は終点まで地下に潜ったままだから、景色を楽しむこともできないし、ケータイの電波も現状では心斎橋までしか届かない(公式には本町までということになっているが、心斎橋までのトンネル内でもちゃんと3本立っている)から、徒然なる車内は専ら睡眠確保の場である。
しかし、折角の安眠を妨げるのはやはり騒音である。車内での携帯電話による通話はマナー違反とされるが、乗客同士の大声での談笑の方が余程迷惑と感じるのは私だけではあるまい。横にオバハンの集団や酔っぱらいのオッサンたち、あるいは社会を舐めた学生たちが座ろうものなら、40分の地下鉄の旅はただの苦行である。「車内では静かにしているもの」というのが不文律というか暗黙の了解であるからこそ喧しい客が目立つのであるし、逆に言えば、朝のラッシュ時の超満員の車内が水を打ったように静まり返っているのもよく考えれば異様であるが、あれはあれで、他の乗客の荒い吐息や鼻息が耳について仕方がない。
私は淀川区に通算で8年住んでいるから、毎日、伊丹空港に着陸する飛行機が頭上を掠め、その轟音には毎日苛まれているはずなのだが、意外にそれは気にならない。マンションの上の階に住む一家が朝は6時から深夜は0時過ぎまで、ドンドンバタバタギャーギャーと物音やら足音やら泣き声やら叫び声やらを響かせ、家人は最早発狂寸前で、管理会社には既に2度まで苦情を述べたくらいであるが、これも全く平気である。何となればテレビを点けっ放しで寝てしまっても、朝まで気づかない。恐らく私の聴覚は、プライベートの空間では如何なる雑音も耳に入らず、パブリックの場では高感度で音声を拾ってしまう、特殊な作りになっているのだろう。
それで、である。地下鉄に乗っていて須らく耳に入ってしまうのは、車内放送である。地下鉄の場合は、車掌の肉声ではなく録音の音声が流れるので極めて鮮明に聞き取れることもあり、毎日乗車する区間のアナウンスは、全て暗記してしまったほどである。例えば、中津の到着時に流れる、「なお、前の車両からお降りの方は、電車とホームとの間が広く空いております。足元にご注意ください」を聞いては、主語と述語が噛み合っていないではないかとフラストレーションになり、淀屋橋の手前で「電車がカーブを通過します。ご注意ください」と流れるタイミングは承知しているから、予め足を踏ん張っている。行きの本町、帰りの東三国ではともに、「千鳥饅頭の千鳥屋」を言うから、そこまで言うならしゃあない買うたるわとなってしまうし、逆に「ゴルフの大型専門店、つるや本店」と連呼されたって、プロレタリアである私は断固ゴルフをする気にはならない。
まるでバスのような広告が電車でも流れるということに最初は少なからぬ驚きがあったのだが、有無を言わさず乗客に聴取を強いる車内放送というものには、こうして諳んじて言えるまでに波状攻撃されるのであるから、広告効果としては抜群なのであろう。いつぞやは、ココイチによる地下鉄全線ジャックをしていたこともある。「○号出口が最寄りの、カレーハウスCoCo壱番屋、○○店へお越しの方は、次でお降りください」と、ココイチのある全ての駅でこれを言うのである。これは仕事を終えて空腹を抱えて帰宅する身には、実に堪(こた)えた。眠れば夢にカレーが出てくるし、休みに日に家でぼーっとしていてもカレー臭が漂ってくるような幻覚に襲われた。程なくジャックが終了して安堵していたら、今度はやよい軒が同じ調子で、「○号出口が最寄りの、ごはん処やよい軒、○○店へお越しの方は、次でお降りください」とやり始めたものだから、遂に堪らず西中島南方で降りて、肉野菜炒め定食を食してしまった。あそこは「ご飯おかわり自由」というのも戦慄である。ココイチややよい軒に行く者がわざわざ地下鉄に乗るとも思えないが、そうではなくて、斯様に乗客を洗脳して、そうした発作的衝動を駆り立てんとする算段なのであろう。全くもって恐ろしい話である。
しかし、それより何より、以前からその影がちらつき、そしてなかもずまで通うようになった最近、いよいよ耳に付き纏われて困っているものがある。それは何かと言うと、「まいこんのこうはら」なのである。
「まいこんのこうはら」は、御堂筋線では本町と天王寺の2回聞かされる。もしかしたら西田辺でも言っていたかもしれない。とすれば、週に2往復したら、月に30回弱も「まいこんのこうはら」を聞かされる計算になるから、これはなかなかの強敵である。しかも「まいこんのこうはら」は他線でも襲い掛かってくるらしく、千林大宮、阿倍野、田辺、堺筋本町、天下茶屋、大正でも流れるらしい。谷町線に乗れば3度も「まいこんのこうはら」が現れるのであって、油断も隙もあったものではない。そう言えば、3年前まで扇町に住んでいて堺筋線ユーザーだったが、ここでも堺筋本町と天下茶屋で聞かされていたのだ。この頃は泉北光明池まで週3回通っていたから、月に何と50回以上も「まいこんのこうはら」にやられていたのである。
それに、ココイチならカレー、やよい軒なら定食屋と分かるのだが、「まいこんのこうはら」って、一体全体何者なのだ。一度気になってしまうと、さまざまな考えが頭を過(よぎ)る。きっと、「こうはら」という男が仕掛けた、マイクロコンピューターによる電脳兵器に違いない。そしてここまで「まいこんのこうはら」と白兵戦になったからには、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という孫子の教え通り、ホームページを調べてみた――何のことはない、昆布の佃煮の店、つまり「まいこん」は「舞昆」なのであった。よくよく思い出せば、放送では、「帰省お土産贈り物、天然酵母の塩昆布」の枕詞がついているし、電車の広告で、大村崑が老婆に扮して美味そうに食っている姿も見たことがある。
すると今度は、舞昆でご飯を何杯でも食べる妄想に駆られ始めてきた。どうしてくれよう。「黒舞昆12袋赤富士セット」は価格10,000円とのこと。私の誕生日は9月14日である。全国の皆さまからの温かいご支援、お待ち申し上げております。