時は受験シーズン真っ只中である。私は地方の田舎で育ったので、中学受験などは全くの無関係に生きてきたし、高校受験も塾なんてものには一切通わず、大して緊張することもなく過ごしたので、至って悠長なものであった。ただ、そんな次第で入学してしまった高校は県内でも屈指の進学校であったから、入った後の苦行たるや並大抵のものではなく、最初のテストの席次は510人中495番くらいで、教師からは「高校というのは義務教育ではないんだから、いつでも辞めていいんだよ」と罵られ、随分と肩身の狭い思いをしたものである。
だから、大学受験は相当な緊張感の中、必死のパッチで挑んだ。センター試験で私の志望校は8割がデッドラインと言われていたので、それはもう、過去問は文字通りに擦り切れるまでやり込み、やり尽くした。が、已んぬるかな、事もあろうに私の受験の年度から、出題傾向が激変したのである。特に最も苦手だった英語は、「これしか出ないからこれだけやっておけばよい」と言われていたものがこの年から全く出ず、狼狽のあまり腹痛を催し、腹が回転を始めれば頭の回転は停止するものだから、結果は惨憺たるものであった。その夜、ラジオの解答速報を聞いて、「物が喉を通らない」という体験も生まれて初めてやった。結末は申すまでもなく、「高校4年生」として、あと1年の受験勉強に挑むことになる。
受験残酷物語をお聞かせしようとしているのではない。指定校推薦で早々に進学先を決めた1人の男の姿が、かかる受験の労苦と連関して思い出されるのだ。指定校推薦というのは大体秋口には決まるものである。概ねの者は、一般入試を受ける者に配慮して秘めているものであるが、この男はそれを放言するばかりか、早々に運転免許を取得して親の高級車を乗り回し、我が世の春を謳歌していたようである。推薦を受けるには高い評定を得ねばならず、それは平生の努力が物を言うのであるから、一般入試組が彼に何らの怨嗟を向ける筋合いはない。しかし、よりにもよって、我々のセンター試験前日にスキーから帰ってきた彼は、来なくてよいのに学校にやってきて、「明日は頑張ってねぇ」と言って、お土産のお菓子をクラスメイトに配り始めたのである。私は「はいはいありがとう」と受け取ったのであるが、1人の女子が、それを手にするや床に叩き付け、鬼気迫る形相で彼を睨み付けながら、あらん限りの力で踏み潰した。呆然と立ち尽くす彼に、私は「もう少し空気が読めたらよかったのにね」と声を掛けるのが精一杯であった。
浪人の1年間は正にストイックな生活を営む日々であったが、休みの日に、現役合格組がやはり車で現れ、大学生活が如何に楽しいものであるかを滔々と語るのはなかなかに恥辱であった。車を乗り付けてくるのも大概忌々しいものであるが、合宿免許で出会った女性との目眩くひと夏の経験を語られるのも、禁欲生活を送る者にとっては拷問に他ならず、所詮、負け組の僻みではあるのだろうが、耐え難き地団駄の夏であった。そのうち、自分の中で「大学に受かること=車に乗れること」という、今思えば訳の分からぬ等式が成り立ち、それが一つの動機になって、受験勉強に弾みがついたのは大いなる皮肉である。
さて、翌年に、1年遅れの「大学デビュー」を果たすことになった。「デビュー」を華々しく飾るのは何を措いても運転免許取得でなければならない。いきなり学業をそっちのけでアルバイトに精励し、教習所代をあくせく稼いだ。そして元手を握り締めて大学生協に駆け込み、鶴見区の某自動車学校の入学申し込みを行って、意気揚々と通学した。大阪市内でも随一の指導の厳しい学校で、車庫入れやS字、クランクは上手くできるのに、なぜか縦列駐車だけ失敗してはボロカス叱られ、路上教習では、全方向一方通行で左折するしかない交差点で、そうとは気付かず何も言われないから直進しようとしたら、「止まれやゴルァァァ!」とブレーキを踏まれ、何度も心が折れそうにはなったが、4段階見極めまで何とか一発でパスして、後は卒業検定を残すのみとなった。が、驚愕の事実が発覚する。学科の25教程を受け忘れていたのだ。次回の受講では教習期限(当時は6か月)を過ぎてしまう。受付のおばちゃんに交渉したがあえなく決裂、「仮免許再入学で10万円払ってもらったら行けますよ」とつれないお言葉。貧乏学生が10万円もの大金をポンと払えるか。そういう訳で、私は「自動車学校中退」という人生の汚点を20歳にして残してしまったのである。
大学の先輩が、試験場飛び込みで運転免許を取得したという話を聞いて、私も仮免許は持っていたからこの人の指導を仰ぎ、同様に飛び込みに挑むことにした。学科試験は余裕でパスし、1週間後に技能試験がある。そして当日、早起きして試験場に向かおうとしたのだが、駅で切符を買う段になって大変なことに気付く。財布にお金がない。この時代、コンビニにATMなどなく、銀行が開くのは9時であるが、試験開始は8時30分である。結局受験できず、仮免許も失効して、あれほど渇望した運転免許証は、果てしなき彼方へと飛んで行ってしまったのである。
いつしか運転免許への執念も消え失せ、そのまま6年が過ぎたが、流石に免許もないのに就職もできまいと思い、今度は必要に迫られて、都島区の自動車学校に「再入学」することにした。体はよく覚えているもので、教官という教官が、「キミ、車乗ったことあるやろ?」と問うてくる。見ただけでそれが判るとはさすがはプロと感心したが、「いえ、初めてです」と何の得にもならぬ嘘をつき、あれよあれよと卒業検定まで進んで、晴れて普通自動車第一種免許を取得した。
それからもう、15年が経つ。私の免許証は、燦然と輝くゴールドカードである。ペーパードライバーなのだから当たり前だ。「大学デビュー」前はあれほど車というものにあれこれと妄想を巡らせたものであるが、今となっては「車は動けばそれでよい」という発想で、たまにレンタカーを借りて、ドライブそのものを楽しむ程度である。日常的に乗らないくせに、道にだけは大層詳しく、去年の黄金週間は、一切の渋滞に引っ掛かることなく岡山県の津山まで往復し、一緒に行った同僚をして「人間カーナビ」と呼ばしめたほどであるが、都会で生活していたら車などなくても特に困ることもなく、大阪市内で車を持つには維持費が家計を逼迫するし、必要なときに借りればそれで事足りるから、この先永劫に、マイカーを持つことはないだろう。
警視庁発表の「運転免許統計」によると、都道府県の公安委員会が認定した指定自動車教習所の卒業者数は約156万人(2011年)で、2002年と比べると約40万人も減っている。それに伴い、教習所はこの10年で100校以上が廃業に追い込まれたという。自動車学校も生き残りをかけて、昔のような「鬼教官」は姿を消し、「接客業」に徹しているそうだ。あるべき姿とは思うが、隔世の感を覚えずにはおれない。そして我々の世代にとって、「車への憧れ」もまた、バブルの遺産だったのかもしれない。