おはようございます、カツオと申します。


ようこそ、ひねもす日記へおいでくださいました。

この世知辛い世の中、初老の男の一人暮らしのなかで小さな幸せを見つけて生きたいと思っています。



金曜日の内視鏡検査を受けてからのこの数日は見つかった胃ガンのことで頭がいっぱいであった、と書かなければならないのだろうが、人間そんな単純ではない。

日に三度食べる食事のことは云うに及ばず、午前中はメジャーリーグの大谷翔平君の試合を仕事の合間に見るための時間を確保する努力、指原莉乃出演番組のチェック、更にはこの頃(ゴールデンウィークから)はテレ東の『午後のロードショー』をチェックしている始末なのだ。この『午後のロードショー』はまた別に記事にするつもりだ。


まあそう言いつつも、ふとした合間に頭によぎるのが「胃ガン」の存在というものだろう。( ̄▽ ̄;)

「早く見つかって良かったなー」と当初考えたが、胃ガンと見られる15ミリの腫瘍が胃ガンだとするならば、他にも確認したい部位のサンプルを採取したと医師が言っていたのを思い出す。

それは「早期発見」ではなく、ガンが胃に拡がりを見せていることなのかもしれない?とこの数日、頭の中でそれがぐるぐると回っているのである。

神経質だな~( ̄▽ ̄;)



誰しも「死」について考えたことがあると思う。

僕は20代後半でよく考えた。長年巣くっていた病気からそんな事を考えていた。10代で読んだ司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に主人公の竜馬が、自分の頭上に大きな岩が常にぶら下がっていると考えることで、いつ死んでもいいように日夜肝を鍛練していたというエピソードが書かれていたのだが、僕もその頃そんな事を考えたことがあった。しかしこれはとても恐いことですぐに考えるのをやめてしまったのだった。

同じように『竜馬がゆく』のなかで
「志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず」という孟子の引用があって、合わせて竜馬は日頃から「風呂場で滑ってキンタマを潰して死ぬのも、ウンタラカンタラ(忘れた)で死ぬのも、どちらも同じ死だ」などと竜馬の死生観がよく登場したけれども、病気のなかにあった20代の頃の僕はよくそんな事を考えていたものだ。

一体「死」とはどういうものなのだろう。

そして20数年前の30代後半に、身近に「死」を感じた。母が胃ガンになったのだ。それもガンの中ではタチの悪い「スキルス胃ガン」が発見されたのだった。

あの時は医師からのガン宣告には本人と僕が立ち会った。医師からガンだと聞いて母は苦しそうな顔をしたけれども、となりの僕はよく分からずも「早期発見で良かったね」と何とも冷たい慰めしか出来なかった。母が死んでしまうかもしれない。身近な近親者に初めて起きた命にかかわる病気だった。僕は市の図書館で「胃ガン」に関する本や、果ては「命」や「死」に関する本を漁った。

「命」や「死」に関しては難解でよく分からなかったが、それでも仏教の「一切は空」だという教えが何となく僕の心のなかに残った。

幸いにも母の「スキルス胃ガン」は早期発見だったことから一命をとりとめ今を生きている。



さあ、一体「死」とはどういうものなのか?

ここにきて僕はまた「死」や「自分」とは、そして「生きる」とは一体何なのだろうかと考えている。

そんななかでインターネットのなかにお坊さんの有難いブログがあった。その文章は平板にかみ砕いた言い方で、すうっと心のなかに沁みた。

そこで何度も読み返したくなる文章だったので、ここに転載させていただく。

おそらく入院中には何度も読み返す事だろう。




空の話

般若心経は魔除けの霊験あらたかなお経とされる。魔物は真理を恐れるものなので、端的に真理を説く般若心経には絶大なる魔除けの効果があるとされるのである。その般若心経の中でもとくに大事なのが「色即是空、空即是色」の一節であり、それをさらに集約すると「空」の一字になる。

諸行無常と言われるごとく、この世界は変化してやむことがない。変化してやまないのは全てのものに実体がないからであり、その実体のないことを空という。もしも世界が不変不滅の実体でできていれば変化しないことになるが、そもそも変化しないなら世界が存在したとしても存在する意味がない。一切皆空の諸行無常だからこそ変化しながら存在できるのである。

一切皆空とは一切は夢まぼろしだということであるが、目前に明らかに存在しているのだから無ではない。そして一切は夢中のでき事だと納得しない限り、この夢まぼろしの世界に苦しめられる。実在すると思って執着すれば全ては苦の原因になり、一切皆空と切り捨てることができれば苦を解決できるのである。

誰しもこの体が自分だと思って執着しているが、体の中のどこを探してもこれが自分だというものは見つからない。この体はつねに外部の物質と入れ替わりながら存在するもの、遠からず跡形もなく消滅していくものである。

誰しも心の中に自分というものがあると思ってその自分なるものに執着しているが、心の中に自分というかたまりはない。何もないのが心の本体であり、何もないのが私たちの本心本性である。その何もないのを空というのであるから、空は即ち無我である。

空とか無我とか聞いてさびしく思うことはない。空とか無我は執着を離れた大きな心のことである。空こそ私たちのふる里であり、無我こそ大安楽の世界である。否定的に言えば空であり無我であるが、肯定的に言えば仏心仏性であり不滅の自己である。

空は世界の本質であり、自己の本質でもある。だから空によって世界と自分が一つになる。あらゆる世界、あらゆる時間、あらゆる生き物、全ては自分自身である。空の真理から、全ては一つの命の現れであるという智慧と、全ては一つの命を生きる仲間であるという慈悲心が生まれてくる。空は智恵と慈悲の根源なのである。

空が私たちの本質だということは、私たちは歳も取らず、病気にもならず、死にもしない存在だということである。目も耳も悪くなってきた、足腰も弱ってきた、ということになろうとも、空なる私たちの本質に影響はない。私たちは空から生まれ来て、空へ帰っていく。塩でできた人形が海に入っていくようなもので、人形は海水に溶けてどこへ行ったか分からなくなるが、無くなるわけではない。

チベット仏教の指導者ダライラマ曰く。「思いやり、忍耐、慈悲心といったものは、仏教徒であろうとなかろうと実践できるものである。しかし空の理論は仏教特有の教えであり、空こそがまさに仏教の本務なのだ」





自分の話

この体が自分であること、その自分が今どこに存在しているかということを、誰しも常に自覚しながら生きている。それでなければ生きていけないのであるが、ならばその自分という存在はどこで成立するのかというと、脳の中に自分の範囲や自分のいる場所を認識するための機能が備わっていて、その働きにより自分が成立しているのだという。

その自分という存在はカーナビの矢印のようなものだという。カーナビという道案内をしてくれる装置に地図を表示すると、地図の中に現在地と現在方向を示す矢印も表示され、その矢印があることで目的地へ行く道を見つけることができる。もしも矢印が表示されなければ、カーナビの地図は役に立たないのであり、山を歩くとき地図で現在地を確認しながら歩くのもそのためである。

このように自分というものは生きていく上で必要なものであるが、この自分はたいへんに依怙(えこ)ひいきな性格を持っている。つまり自分に属するものはそれが何であれ無条件に、プラスの価値を持つもの、自分の味方、良いもの、きれいなもの、正しいもの、と依怙ひいきし、自分以外のものに対しては、それがどんなに素晴らしいものであれ、マイナスの価値を持つもの、自分の敵、悪いもの、汚いもの、まちがっているもの、と依怙ひいきするのである。

たとえば口の中にある唾液、これが口の中にあるうちは不潔なものとは感じていないが、外に吐き出したとたん汚らしいものになる。たった今まで自分の一部であったものでも、自分から離れたとたん不潔なものに感じられるというように、きわめて依怙ひいきな性格を自分は持っているのである。

夫婦も同じようなものだと思う。結婚したてのころは、夫婦は一心同体、あなたは私のもの、私はあなたのものなどと感じているため、互いにとって相手はきれいな、いとしい、大切な存在である。ところがやっぱり自分ではなかったということに気がつくと、それまでの反動もあって、急に憎たらしい嫌な存在になり、やがては粗大ゴミとも思えてくるのである。

ならばその自分を成り立たせている機能が、働かなくなったらどうなるのだろうか。脳卒中などの原因で、脳のその部分が機能しなくなった人が現に存在する。するとその人はカーナビの画面から矢印が消滅した状態になり、そして自他を区別する境界線も消滅し、境界線の中に閉じ込められていた自分も消滅する。ところがそれと同時に、あらゆる場所に自分がいるという状態、世界すべてが自分であるという状態になってしまうという。

そして世界すべてが自分になることで、すべてがプラスの価値を持つもの、自分の味方、自分にとって大切なもの、きれいなもの、という恍惚とした喜びの世界が開けてくるという。これはすばらしい宗教体験であり、これこそまさに悟りの境地である。

もちろん仏道修行は脳卒中になることで、そういう境地を得ることを目ざしているわけではなく、また悟りを開けば自分が完全になくなるわけでもないが、自分の周囲に境界線をこしらえている脳の機能を何らかの方法で抑制すれば、すべては一つ、すべては自分、という世界が開けてくるのである。そして脳波の検査などにより、瞑想や祈りなどをおこなうことでその機能を抑制できることが分かってきた。

世界はすべて自分自身である、というのは実はまちがいのない事実である。私たちが住んでいるこの世界は、すべて心の中に自分が作り出したものである。目というカメラを使って心の画面に映し出したもの、それがいま見ている世界である。耳というマイクで集めた音を、心の中で聞いているのがいま聞いている音の世界である。同様に、暑いとか寒いとか、うまいとかまずいとか、香りがいいとか悪いとか、そうした世界を成り立たせている要素は、すべて感覚器官を通して心の中に投影された幻であり、私たちはこの幻の世界の外に出ることはできないのである。

そしてすべては心の中のでき事であるからこそ、自分と自分以外のものを分けるための機能、カーナビの矢印のような機能が必要になってくるのである。

菩提和讃(ぼだいわさん)の初めにこんな言葉がある。

「もし人、三世一切の、

 仏を知らんと欲すれば、

 法界性(ほっかいしょう)を観ずべし、

 一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)なりと」

一切唯心造、つまり一切は心が作り出したものであり、それがこの世界の真理である。そして仏とは一切を作り出している心の名であり、それが宇宙の根源なのである。

参考文献
「奇跡の脳」ジル・ボルト・テイラー著 竹内薫訳 2009年 新潮社
「第八回臨黄教化研究会報告書。基調講演。震災から問われているもの。養老孟司」平成24年 臨黄各派合議所



ではまた





指原莉乃ちゃんについては、そんなに言う指原ってどんな子だったの? って思われたらこちらにどうぞ!😆👍➰


『アイドル 指原莉乃の軌跡(2016年→2020年編)』( 旧題 さっしーってサァ・・・)





彼女のアイドルとしての軌跡をテーマ毎に記事にしてあります。
テーマは100ありますが、特に読んで欲しいのは「指原莉乃という人」や「さしはラーカイブ」、「今年の1枚」辺りでしょうか。
拙い文章で読みにくいとは思いますが、彼女が気になったらぜひ!



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