おはようございます、カツオと申します。


ようこそひねもす日記へおいでくださいました。

このコロナ禍、初老の男の一人暮らしのなかで小さな幸せを見つけて生きたいと思っています。



この辺りで終わりにしたいものである。( ̄▽ ̄;)


退職するまであと5年。

病気は快復することはなく、ますます悪化していった。

仕事の方は国内仕入部に移動してから本当に楽になった。こうまで仕事量が違うと会社組織という根本のところを疑い出すようになる。


国内仕入部では主に旅館と深く付き合うようになった。契約旅館と旅行会社の関係は単に個々の旅館との契約関係だけではなく、「◯◯会社旅館連盟」という旅館同士を繋げる全国組織を持っている。対会社組織だ。それが各地域、例えば関東連合会となり、各地区の箱根支部となる。
これが仕入担当者としては厄介なもので、支部総会や各地区会議等が頻繁にあって、責任者と同伴して顔出しするのである。そして夜はそのまま会議場所の旅館で懇親会となる。それが会議シーズンになると毎日のようにあるのだ。外見的には「毎日宴会でいいですね」となるが毎日だぞ。( ̄▽ ̄;)
そして担当者はこの旅館連盟と会社との板挟みとなるのだ。


毎日残業を何時間も行った企画部よりは楽だったが、この仕入部では人間関係に疲れたようだった。社内的にも社外的にも深く付き合う関係が多かった。

ちょっと話が逸れるが、会社には組合がある。僕は盛岡支店の時に組合委員をやらされていて、組合の東北支部の執行部とも顔馴染みだった。そのつてで東京に戻っても役員はしていなかったが組合執行部に知合いが何人もいた。組合とは面白いもので、平社員が会社上層部と経営に関する直談判をしたりして、普通の部課長よりも経営に詳しかったりする。まあ逆を云えば「御用組合」などと揶揄されもするのだが。

現場の支店と違って本社にいると、良きにつけ悪しきにつけ社内の色々な噂を耳にする。耳年増になってしまうのだ。組合も同じで、執行役員と世間話をしていると意外な事実を教えてくれたりする。退職を決断する数ヶ月前にその世間話で、あと数年以内に五十代以上の社員が大量にリストラされることになるだろうと聞かされた。当然あのバブル崩壊で驚くことではないのだが、そのリストラ方法がここに書きたくない程にエグいことになると言うのだ。

これも退職理由の1つだ。会社組織に呆れたのだった。実際に僕が退職して数年後にそのエグいリストラは実行された。そしてなんとそのリストラを実行していたのが、僕を国内仕入部に勧誘した元の上司だったのだ。これはその自責の念から、自らも退職した上司から直接聞かされたものだ。サラリーマンは辛いよね。



ちょっと話を戻す。盛岡から国内企画部に転勤して仕事は大変になった。僕は自分を見失う恐れを感じた。それで僕は中学の頃から趣味だったフライフィッシングを再開した。これは今でも後悔しているのだが、盛岡にいた頃から再開していれば良かったのだ。岩手県は渓流の宝庫で、なんと盛岡市内を流れる川に鮭も遡上してくるぐらいなのだった。初めて鮭の遡上を見たときは感動したなあ。

それで国内仕入部に移ってからは休日を使って毎日のように釣りに出かけた。だんだんと目的地が遠くなった。土日で往復800キロを車で走ることも珍しくなくなった。そのくらい走らなければ関東ナンバーの車が見えてしまうのだった(それだけ入渓者が多い)。

そして僕は旅行会社という役得を活かして(各種割引)、北海道まで遠征するようになっていった。北海道は異次元の世界だったのだ。魚影が本州とは桁違いに多いのだ。それに釣れるサイズも60センチ、70センチも夢ではなく、すぐそこの現実として感じるのだ。それを最初に実感したのが十勝平野を流れる十勝川だった。あれは夏休みを利用して行ったのだったか。本州では使えない程の大きな毛鉤を自作して、その毛鉤を川の向こうからこちらに向かってワザと波音を上げさせて流した時だった。川の中心付近でド派手に大きな虹鱒が飛び出して来たのだ!

一瞬のことだったが、その瞬間は今でも眼に焼き付けている。

虹色をした綺麗な魚体が水面でうねった。そしてその毛鉤を咥えた虹鱒は一気に下流に走ってそのまま消えていった。糸が切れたのだ。しばらく呆然とした。今でも思い出せる。小雨まじりの雲天だった。


そうして僕は北海道にハマったのだった。そして北海道で知り合った人に教えてもらったのだが、10年前はもっと釣れた。20年前はもっともっと釣れた。だんだん釣れなくなっていることを聞かされたのだ。おそらくヒグマが源流域を守ってくれているので本州のような体たらくになることはないと思うのだが、それでも僕は焦りを感じたのだった。

( ̄▽ ̄;)一応これも退職の理由となります。



退職する1年前。

例の病気で大学病院に3週間入院した。ようやく重い腰が動いたのだった。1回目の手術がうまく行っていれば2週間で退院できるはずだった。だが執刀医がヘタクソで治らず、2週間後に今度は教授の執刀でようやくその1週間後に完治し退院となった。

この時僕は退職する決心をしていたのだが、上司や周りのサポートもあってこの時は退職せずに済んだ。



そして退職4ヶ月前。

その年の年末に、サポートしてくれていた先輩係長が突然の転勤となった。長野オリンピック開催による転勤だった。それを聞いて気落ちしたのか、僕は突然40℃近い熱を出して年末から年始にかけて1週間入院した。病名は扁桃腺炎らしかったのだったがよく分からない。何しろ3日か4日は意識が朦朧として記憶が飛んでいるのだ。あんな酷い症状はかつてない経験だった。

そして酷い状態を脱した後に上司が見舞いに来てくれたのだが、今度はその上司も関連会社に出向することになったと自ら告げられた。もう笑うしかない。課長、係長がほぼ同時に転勤とは一体どんな会社なんだ?今でもそう思う。ちなみにこの課長は僕を引き抜いた時の課長ではもうない。

そして退院し会社に出社したら、僕の上の人間は総取り替えされていた。何か部署を間違ってしまったような感覚。その先輩である係長はすでに長野県に転勤した後だったし課長は関連会社に出向していた。後任の課長、係長は幸いにも面識のある人だったが、現場仕事に関してはほぼ素人で、その下である僕が関係各所への繋ぎを行わねばならなかった。

扁桃腺炎で入院してからの僕は人間が変わったのだと思う。バカになったのだ。40℃の熱にうなされて脳細胞のほとんどが死んだのだ。深く考えることが出来なくなった。短気になった。我慢が出来なくなった。仕事に集中出来なくなった。

これが退職の理由の最も大きな要因だ。バカになってしまったからなのだ。


そして話は前後するが、扁桃腺炎を患う1ヶ月程前に僕は昇格試験を受けていた。課長との面談で、この昇格は私が推薦するから確実に昇格出来ると請け合ってくれていた。

サラリーマンにとって昇格とは「希望」だと思う。どんどん出世したいとは思っていなかったが、それなりの資格を持たなければ社内での発言力も持てない。もちろん給料も上がる。

僕が甘かったのは、翌年の課長の交替の時に新課長に、昇格の話をこちらからしなかったことだった。新課長はカツオ君が頼りだと言われたし、課長交替の際に人事は申し送りの最優先事項だと思っていた。それが3月末の昇格で僕は昇格出来なかった。

これで僕は会社への、サラリーマンへの未練は完全に無くしたのだった。この数ヶ月、僕が先頭に立ってこの課を引っ張って来た自負があった。サラリーマンとは、それを人事査定で結果を見せてくれなければどこで自己評価をすればよいのだ?




これで僕はサラリーマン人生を終えた。収入の面で未練はないと云えば嘘になるが、それも仕方なし。今の自由さを考えれば大した事ではない。


I ′m free!


アホか。( ̄▽ ̄;)



まあ長ったらしく書いたものだ。
サラリーマンを辞めてから二十数年の月日が流れたから、結構自分のいいように記憶の置き換えがあるかもしれない。でもこうして、ある程度風化した過去の記憶を記録として文章化してみるのもよいことだと思った。


以上、駄文を最後までお読みくださりありがとうございました。




追伸 ~ 実はもう1つ退職の理由がある。( ̄▽ ̄;)

しかしその事はあまりにも深い人間関係が纏わり付いていて、今でも思い出したくない書きたくもない経験だった。それにその事は退職する1年前に相手の転勤という形で一応の解決を見て、直接の理由ではなかった。でも退職してから考えると、その事が「会社人」としての僕を一番傷付けたことは確かだったのだ。一応付記しておく。



ではまた




指原莉乃ちゃんについては、そんなに言う指原ってどんな子だったの?って思われたらこちらにどうぞ!😆👍➰

『アイドル 指原莉乃の軌跡 (2016年→2020年編)』(旧題 さっしーってサァ・・・)


彼女のアイドルとしての軌跡をテーマ毎に記事にしてあります。テーマは100ありますが、特に読んで欲しいのは「指原莉乃という人」や「さしはラーカイブ」、「今年の一枚」辺りでしょうか。

拙い文章で読みにくいとは思いますが彼女が気になったらぜひ!


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