私の心は、長い間自由とは言いがたいものでした。言うまでもなく、創価学会、池田さん、あるいは日蓮、または御本尊なるものに囚われの状態となったまま、数十年の歳月を過ごしたからです。

 

表向き創価学会から心が離れても、いわゆるアンチとしての発言をやめられない状態では、まだ心が囚われたままの状態なのだろうと思います。私自身も、最近になって、ようやくそうした状況から抜け出し、「心の自由」を取り戻せたような心境、言い換えると創価フリーの心境になれたような気がします。とは言いつつ、こんなブログを書いているわけですから、完全に抜けきったとはいえないのだろうと思います。ただ、創価学会というものが、私にとって語るほどの価値のないもの、ムキになるようなものではないものになってきているような気がするのも確かです。今日は、重篤なイケディアンであった私が、創価フリーの心境に向かっていった過程を振り返ってみたいと思います。

 

重篤なイケディアンであった私が創価フリーの心境に至る道のりは、大きく分けて3段階に分かれていたような気がします。

 

第一段階: 組織不信、あるいは幹部不信

第二段階: 脱イケディアン、つまり池田さん否定

第三段階: 棄教 = 御本尊、日蓮の否定

 

以下、私の事例について書いてみたいと思います。

 

第一段階: 組織不信、あるいは幹部不信

 

私は比較的早い段階から組織に不信感を抱いていたと思います。具体的に言うと、創価大学に入学した頃からです。創価大学に入ると、日常生活で接点のある学会員の数が桁違いに増えます。特に大学の寮に入ると、日常生活が学会員に囲まれてしまいますので、更に深く学会員と関わることになってしまいます。そうした中で、同期や先輩の言動にガッカリすることが多かったです。身の回りの学会員だけでなく、地域の幹部に対する不信、信濃町職員に対する不信もありました。実際のところ、大学では反社会的な行動をする人が一定数存在していましたし、大学卒業後も私の周囲の学会員は変な人が多かったです。加えて、幹部や公明党の議員も様々な問題を起こしてきたことが明らかになっています。しかし、この段階での私の認識では、池田さんは偉大なのに、弟子である幹部や公明党の議員が池田さんの顔に泥を塗るようなことをしている、というものでした。

 

この段階では、池田さんに対する感情は揺るがず、あくまでも弟子である学会員や幹部、議員が堕落しているという見方になります。私自身の経験では、この状態が非常に長く、この先に進むのは、大変なことでした。

 

第二段階: 脱イケディアン ⇒ 池田さん否定

 

次の段階は池田さんに対する不信状態です。ここに至るには、かなりの精神的苦痛や葛藤が伴ったように思います。私が「第二段階」、つまり池田さん否定の段階に移行したきっかけは、2015年9月の安保法制でした。あの日、予てから私が抱いていた公明党や信濃町に対する不信感や怒りが最高潮に達しました。当時、周囲の学会員を見ても、不信感や不満を抱いている様子が感じられず、創価学会はどうなってしまったのだろうか、というのが率直な気持ちでした。それまでの私は、学会組織で悪く言われていたネット情報からは距離を置き、あくまでも組織からの打ち出しを受け止めるようにしていました。それこそ、納得できないことについても「意味がある」という常套句で疑問や不信を封じ込めていました。

 

しかし、あの日、我慢ならず、ついに私はネット上での学会の情報を検索するようになりました。まず見つけたのが、SNS上での学会員の公明党に対する不満でした。リアルの世界では、聞きたくても聞けなかった思いが、あるある、、、私は、そうした書き込みを、時間が経つのも忘れて夢中になって夜明けまで読み漁りました。

 

「自分は一人じゃない」と感じられた経験でもありました。こうした中で目に入ってきたのが、「宿坊の掲示板」や「創価学会元職員3名のブログ」でした。尚、察しのとおり、このブログの「元創価学会活動家1名のブログ」というタイトルは、「元職員3名のブログ」を模倣したものです。

 

いずれにせよ、こうして水を得た魚のように感じた私は、SNSのアカウントを作って、信濃町や学会員に対する不信や不満を書き込むようになりました。その後およそ5年間、私は学会批判を続けていましたが、時間とともに自分の考えが変わっていったように感じます。

 

公明党にしても、信濃町の執行部や幹部にしても、それを作ったのは池田さんです。信濃町における池田さんの発言権はそれほどない、等の意見も多く見られましたけど、仮にそうだとしても、それは単に池田さんに組織人としての力がないだけのことです。それに、本部幹部会などであんなに威張っていたのに、実は力がないというのは、なかなか考えにくいことのように思いました。そのように考えると、以前は襟を正すようにして拝していた池田さんの言葉が、限りなく水っぽく、くだらないもののように感じるようになりました。

 

こうして私は、池田さんとの思い出の品などを処分するようになりました。池田さんが海外旅行に行った際に買ってきたという(ことになっている)絵はがき、文鎮、桐箱に入った念珠。とくに念珠を棄てるのは「断ち切る」ような気持ちでした。それは私が最初の海外赴任に出る報告をした際に受け取ったものでした。赴任先で「もうダメか」という局面に追い込まれた時に、池田さんから(ということで)渡された念珠を握りしめて題目を唱えると、どんな苦境も乗り越えられるような気持ちになりました。そうした思い出のある念珠でしたが、もはや狭い住居空間の中で貴重なスペースを取るだけの物体と化していました。私は、ちょっとしたためらいを感じつつも、その念珠をゴミ箱の中にポイッと投げ入れてみました。はたして、私の頭の中の奥の重しがスッと消えてなくなったかのような、そして長年私の両肩を押さえつけていた圧力のようなものが消えてなくなったような、すごく心が軽くなったような爽快な気持ちになりました。あまりにも爽快だったので、私は、一旦ゴミ箱に棄てたブツを取り出し、もう一度ゴミ箱に投げ棄ててみました。初回ほどではありませんが、やはり爽快な気分です。こうして、私は都合5回ほど同じ行為を繰り返しました。まぁ、単純な動作ですから、5回もやれば飽きるわけです。このことは、私としての池田さんとの「お別れ」、あるいは「決別」になりました。

 

第三段階: 棄教 ⇒ 御本尊、日蓮の否定

 

そしてもう一つ、決別すべきものが残っていました。そう、曼荼羅です。私は5千円で買った携帯用の曼荼羅しか持っていませんでしたが、小さいとはいえ、それも邪魔になってきました。小さい頃から、御本尊なるものは命よりも大事なものであると教えられ、粗末に扱うと大変なことになると教えられてきたのですが、愚鈍な私もそうした「迷信」を捨て去るほどには知力が磨かれてきました。かといって、あのミニチュア曼荼羅を可燃物で出すのが適切なのか、不燃物で出すのが良いのか、当時の私には分かりませんでした。そこで私は、ネットオークションに出品することにしました。出品価格は送料込で100円、金剛堂で買った3000円のプラスチックケース付です。「命よりも大切」と教えられてきた御本尊なるものに、その時の私が付けた価値が100円だったということです。送料を差し引くと当然赤字ですから、それでも良いので引き取ってください、という意味になります。「命より大切」と教えられてきた御本尊なるものに、100円という値段を付けるという行為、しかも赤字でも良いから引き取って下さいという価格設定、それが、この御本尊なるものに最終的に私が付けた「価値」でした。つまり、御本尊なるものは、私にとってはゴミ以下なんですよ、という意志を、ネット上とはいえ表明したことになります。ここに至ってようやく、創価フリーへの道のり、心の自由への長い道のりを歩みきれたような気持ちになりました。

 

尚、余談になりますが、ネットオークションでその出品物は5千円程度の値を付けて終了しました。

 

以上、創価学会の家庭に生まれ落ち、重篤なイケディアンであった私が、創価学会や池田さん、御本尊から離れていった過程を紹介させて頂きました。

 

特に「二世」の人にとっては、離れる過程に、それぞれの苦労があることと思います。私の場合は、親との関係に今でも苦労しています。私が成熟した人間であれば、親の前では善良な学会員であるフリができたのでしょう。しかし、人格的に未熟な私にはそれが出来ませんでした。そのために、親と衝突したこともありましたし、現在でも親には心配をかけていると思います。ただ、たしかに私は未熟ですが、親との関係の問題が、私の人格的な未熟さに帰されてしまうのも、なかなか納得できません。一番悪いのは、日蓮、創価学会、そして、このマイナーな教えを大きく広めた池田さんだと考えています。

 

昨年11月に池田さんが死んでしまって以来、創価学会に関する関心は更に小さくなっているような気がします。しかし、日本で暮らしていると、ちょうど良い感じのところで、嫌でも創価学会の存在を感じさせられてしまいます。というのも、朝夕のニュースを見ていると、かなりの確立で公明党の代表や議員が登場するからです。テレビ画面に映る連中の姿は、池田さんの人生が残した残骸のように感じてしまいます。早く、こうした残骸が泡沫となり、目に付かなくなることを願う、今日この頃です。私の心の、自由への長い道のりは、もうしばらく続きそうです。