学校や職場が原因とされる自殺に関する報道などについて | 第6の権力 logic starの逆説

学校や職場が原因とされる自殺に関する報道などについて

最近、自殺に関する報道がなされており、話題になっているようです。

この問題を、それも逆説で書くというのは、懸念もあるのですが、それでも報道や話題のされかたに疑問があるので、書いておきたいと思います。


まず、相談されたのに、知っていたのに、対処できなかったということは、あまり言うべきではないと思います。日ごろから冷淡な態度で、役に立たなければ、相談を受けません。相談を受けるということは、知っているということは、信頼をされていたということであるし、信頼を得るように、いろいろなことを知るように、努力をしていた、ということです。知らなかったということは、相談を受けなかったということは、その逆だということなのです。相談を受けていたことで、知っていたことで責められるなら、できるだけ相談を受けないように、知らないようにしようとするほうがよい、ということになってしまうのではないでしょうか。問題に気づいた熱心で有能な人が責められ、知らなかった無能あるいは冷淡な人は仕方がないとされることは、なにか、おかしくないでしょうか。


そして、自殺というのは、多くの場合は、複合原因だと思います。ただ一つのことが原因で自殺をするということはあまりないと思うのです。

社会人の場合、職場、家庭、プライベートのすべてがうまくいかない場合に、自殺にまで至るということが多いと思います。ひとつでもうまくいっていれば、自殺にまでは至らないことが多いのではないでしょうか。

児童生徒の場合いは、学校、家庭以外に、プライベートを持っていないことも多いでしょう。学校、家庭の両方がうまくいっていない場合に、自殺にまで至ることが多く、どちらかがうまくいっていれば、自殺にまでは至らないことが多いのではないかと思います。

しかし、報道などでは、誰か、責任者を、悪者を見つけるようなかたちで、話題とされていないでしょうか。


遺族は、自殺の責任の一端が、自分にあるのではないのか、なぜ気付けなかったのか、なぜ対処できなかったのか、ということを感じているのではないでしょうか。そうなると、自分を責めずにはいられません。そこで、誰かほかに、責任を問うことができる人がみつかれば、その人の責任だと思うことで、その人を攻撃することで、自分を慰めようとします。それは、当然の反応ですし、家族をなくしていることからすれば、やむをえない反応だと思います。そうしないと、遺族も精神的にまいってしまいます。周囲は、見守るしかありません。おそらく、いきつくことろまでいかないと、遺族は気持ちの整理できないと思います。しかし、そこで、無関係の第三者が、遺族を焚き付けるように、誰かを悪者として糾弾するようなことは、誰にとってもよい結果にはならないと思います。遺族も気持ちの整理がつかなくなると思います。


いじめという言葉を使うことで分かりにくくなってしまいますが、暴力や脅迫は犯罪です。そして、上司や教師は、強制力を使うことができません。職場でも学校でも、体罰は禁止されています。とくに教育現場では、体罰をした教師が処分されたということも報道で耳にすると思います。そうしたなかで、個人の結果責任と問うことはできないと思います。そもそも、上司や教師はスーパーマンではないのです。そして、多くの場合には、児童生徒が自殺した場合の教師も、部下が自殺した場合の上司も、遺族ほどではないかもしれませんが、大きなショックを受けて、精神的にまいってしまうことが多いと思います。

(もちろん、社員間で暴力や脅迫があった場合には雇用主が民事損害賠償法上の使用者責任を負うということはあります。これは、社員の行動により発生した損害は、いったんは会社が賠償する義務があるということであり、悪い・悪くないとは別の問題です)


誰か悪者を見つけて、バッシングしたい、というのは、ほとんど人間が本能的にもっている欲望だと思います。事実関係をよく知らない第三者であるのに、悪者にしてよさそうな人が見つかると、バッシングをしたくなります。しかし、それは被害者のためでも、遺族のためでも、社会のためでもなく、自分が気持ちよくなるためだということはないでしょうか。そこで理性を失うべきではないと思うのです。みず知らずの他人を公然と非難するということは、よっぽどのことがない限り許されないことです。そのような言動をする前に、そのような言動は、いったい誰のためになるのか、どのような影響を及ぼすのか、ということを冷静に考えてみてほしいと思うのです。もちろん、報道機関こそ、もっとも考えていただきたいと思っています。