産科医療補償制度について | 第6の権力 logic starの逆説

産科医療補償制度について

今月(平成21年1月)からはじまった産科医療補償制度について、少し書いてみたいと思います。

新聞などで少し記事になっていますが、分娩に関連して発症した脳性麻痺について、産科医の過失の有無を問わずに、補償する制度です。

産科医の過失の有無は問いませんが、分娩に関連して発症した脳性麻痺に限りますので、先天性の場合などは除きます。

補償額は最大で3600万円です。


これは、国の法律による社会保険ではありません。

国が先導しましたが、産科医(病院)が任意にこの制度に加入するか選択します。

産科医(病院)がこの制度に加入した場合に、産科医(病院)から妊産婦に事前にこの制度が適用される旨の書面が提供されます。

掛け金は分娩1回につき約3万円で、産科医(病院)が負担しますが、これは分娩費(出産費用)として、妊産婦に転嫁されます。

そのため、社会保険から支給される出産育児一時金が3万円増額されました。


http://www.sanka-hp.jcqhc.or.jp/index.html

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/isei/i-anzen/sanka-iryou/index.html

http://www.gov-online.go.jp/useful/article/200812/3.html

http://www.gov-online.go.jp/pr/media/magazine/ad/221.html


このように説明すると、産科医(病院)が加入する任意の私保険のようですが、産科医(病院)が直接保険会社の保険に入るのではなく、財団法人日本医療機能評価機構が産科医(病院)と保険会社の間に入ります。


この制度から補償をもらった場合に、さらに医師や病院に対して損害賠償請求をすることもできますが、この制度から得た補償額は損害賠償額から減額されます。


制度全体をみると、自動車損害賠償責任保険にかなり近いと感じる人もいると思います。

どちらも、無過失で補償されます。

制度から補償を得た場合でも損害賠償を別途求めることができますが、制度から得た補償額は損害賠償額から減額されます。

しかし、違いもあります。

ただし、自動車事故は加害者と被害者とに事前の面識はありませんが、医療事故は事前に契約関係にあります。したがって、潜在的な加害者が保険料(掛け金)を負担するのは同じですが、産科医療補償制度では、それが妊産婦に転嫁されます。

また、自賠責保険ではドライバーが民間保険会社と直接契約しますが、産科医療補償制度では、なぜか、財団法人が間に入ります。

そして、自賠責保険は法律に基づく強制加入制度ですが、産科医療補償制度は任意加入の民営の制度です。

なによりも、自賠責保険では、ドライバーの無過失責任が法律上明記されていますが、産科医の医療事故では法律上は従来と変更がありません。


さて、この制度はうまくいくのでしょうか?

この制度の目的は次の3点だと言われています。

(1)分娩に関連して発症した脳性麻痺児およびその家族の経済的負担を速やかに補償します。

(2)脳性麻痺発症の原因分析を行い、将来の脳性麻痺の予防に資する情報を提供します。

(3)これらにより、紛争の防止・早期解決および産科医療の質の向上を図ります。


わたしは、この制度について、かなり疑問があります。

(1)については、医師や病院の過失について論じることなく、速やかに補償するということだと思われますが、もともと、出産は契約なのですから、民法上は無過失責任です。そうではないという法律家が多数いますが、法律の条文をみれば、過失責任でないことは明らかです。その点はおいておいても、契約関係にあるわけですから、この産科医療補償制度がなくても、どのような場合に補償するかは、当事者で事前に取り決めておくことができるのです。また、あくまでも任意加入ですので、産科医(病院)が加入をしていない場合には、速やかな補償はされません。強制加入の自賠責保険と違うところです。

(2)については、補償制度とは直接関係がないといわざるをえません。

(3)ですが、この制度による補償を受けたうえで、さらに損害賠償も請求できるわけですから、紛争の防止・早期解決に役立つ理由はありません。また、産科医療の質の向上も、やはり、補償制度とは直接関係がないといわざるをえません。

そして、財団法人が間に入ることによって、確実にコストは上乗せされます。


わたくしの私見では、財団などはつくらずに、無過失責任を法律上明確にしたうえで産科医(病院)が加入する民間保険を整備するか(自賠責保険方式です)、たんに妊産婦が加入する民間保険を整備するか、どちらかのほうがよかったのではないか、と思います。


また、紛争の防止を重視するのであれば、この制度により補償を受ける場合には損害賠償ができなくなる、あるいは、この制度に加入している医師(病院)により出産をする場合には妊産婦は損害賠償を事前に放棄する、という仕組みを入れるべきでした。


実は、わたくしは、この問題について、15年ほどまえにアメリカの状況を紹介する論文を書いたことがあります。当時のアメリカでは、高額の訴訟をおそれて産科医が減っている、その解決策として保険制度が採用されている、あるいは、その解決策として保険制度の採用を検討すべきだとの議論がなされていました。

そこでは、やはり、無過失補償と、損害賠償の放棄が、ポイントになっていました。

わたしが15年前の論文で紹介したオコンネル氏は、無過失で補償する代わりに損害賠償を放棄するという制度をつくり、現在の損害賠償と無過失保険とのどちらかを選択させれば、被害者あるいは被害者になりそうな人は、おそらくほとんどが無過失保険を選ぶだろう、と主張していました。


しかし、わたしは、わが国では、無過失保険ではなく、損害賠償を選ぶ人もかなりいるのではないかと思います。また、被害者が無過失保険を選んで補償を受けながら、あとになって裁判を起こすというきともありえると思います。そして、裁判になれば、裁判官は、そうした事前のとりきめ(すなわち契約)を無視して、損害賠償を認める可能性が高いと思います。

それは、わが国の裁判が、正義や、善悪や、社会的責任を追及する場になってしまっているからです。

出産事故で裁判を提起する親は、損害の補償よりも、誰か悪い人を見つけたくて裁判をおこすのではないでしょうか。病院や医師が訴訟を避けるのは、賠償金を払うことよりも、まるで悪人であるかのように糾弾されるのを避けたいと思うからではないでしょうか。


本当は、裁判は、法律上の権利の有無を形式的に判断するところにすぎません。そこに、裁判官や法学者やマスコミが違う価値観を入れてしまっているために、こうした出産事故などの裁判が、誰にとっても不幸なものになってしまうと思うのです。


正しいことをしても損害の負担を求められることはあるし、誤ったことをしても損害の負担を求められないことがあります。本来、行為の「よしあし」と、誰が損害を負担すべきか、ということは別のことなのです。

保険は、「行為のよしあし」と、「損害の負担」を切り離すシステムとしては、優れています。しかし、「行為のよしあし」と「損害の負担」とを切り離すということを(法律上はすでに切り離されているのだということを)、社会の多くの人が理解しなければ、社会的には機能しないのです。

裁判所は、行為の「よしあし」や「善悪」や「正義」を判断するところではなく、事実と法律と判断するにすぎないところだということを、法律や裁判所ではすべての問題を解決することはできないのだというあたりまえのことを、まず法律家が認識すべきです。

先に述べたように、今のわが国の状況では、わたしは、たんに医師(病院)が加入できる民営の損賠賠償責任保険と、妊産婦が加入できる民営の補償保険とを整備する(よう国が働きかける)のが、最もシンプルな解決だろうと思うのです。

ただし、この無過失補償制度は任意加入ですので、この補償制度よりも安価でよい保険を提供する民間保険会社が出てくるかもしれませんので、それを促すということであれば、この制度も、国の保険整備の働きかけとして、意味があると評価できたのですが・・・


最後にもう1点。

厚生労働省の決定によって、健康保険の出産育児一時金が3万円増額になるのは、産科医療補償制度に加入している分娩機関で出産した場合のみになりました。

しかし、健康保険は「保険」であり、出産育児一時金はなにに使ったかを問わない定額給付であるはずです。

これは、健康保険と出産育児一時金の仕組みからいって、とんでもない決定です。

産科医療補償制度に加入せずに自分で保険に入った産科医(病院)で出産しようとする場合、妊産婦が得られる一時金が3万円減額されます。

また、妊産婦自身がこの制度ではなく、自分で民間の保険に入ろうとした場合には、その金額は自己負担です。

こうなると、事実上、産科医療補償制度の強制加入といってよいわけです。もし、こうした選択をするのであれば、法律上、強制加入・強制適用とすべきでした。

任意加入のポーズをとり、法律の策定を省略したわけです。

出産育児一時金の額は、法律ではなく、政令で決定することになっています。法律で定めなくてよいということを悪用した脱法行為であり、姑息な手段であり、また、一時金の額を人によって変えるという平等に反するようなことを強行する暴挙である、といわざるをえません。