おはようございます。
いよいよ今日ですね。
羽生さんが6月18日に福島県を訪問した時の映像が全国で流れます。あの日、私が動画をあげたあの映像が、きっともっと長めにね。
そして指田さんと南相馬市のMJC少女合唱団との[ 花になれ ]のコラボレーション
アイスショー。
昨日 everyで福島県を訪問したときの映像が流れました。
私は録画して行かなかったので、動画でチェックしました。
それを見てて感じたことがあります。
これから書くことは、あくまで私の憶測であり、あくまで私の勝手な考えなので、本当のことではないです。
今までは、羽生さんが、震災後の仙台の事とか宮城県の事とかをたくさん心配してらっしゃいました。
そして去年は、岩手県を訪問しました。
常に被災地のことを想っていました。
それを見ながら、ゆづ…そんなに一人で背負わなくてもいいんだよ…ってずっと思ってました。
そしていよいよ、羽生さんは福島県を訪問されました。
広野町にも行ってきたんですね、除染廃棄物がたくさん置いてあるところ。そんなところまで行ってるとは思わなかった…。
見てて不思議な感覚でした。
自分がいつも極当たり前に知ってる福島の現状…、中には知らないこともありましたが、それを羽生さんによって全国の方たちに少し知れる。
それを見ながら感じてました。
私は自分が震災後どうしてたかを思いだしながら、ゆづの震災後どうしてたかを聞いていた。
ゆづは震災から10日後には青森県に行ってしまっていた。フィギュアスケート界で有望な選手だったから、それを潰してしまってはいけないと、両親もゆかりのあるコーチの方々も心配したから。
その後は神奈川で練習したりアイスショーにたくさん出て、練習していた。
その間、学校はどうしていたのかは分からないけども。仙台にどのくらい帰ってたのか分からないけども、しっかりと仙台に腰を据えたのは、アイスリンク仙台が再開した夏から。
そして次の年の初夏にはカナダに拠点を置くため行ってしまった。
震災後、みんなががんばってるなか、ゆづはほとんど仙台には居られなかった。
もしかしたら周りの人たちとの間に、薄い壁を感じたかもしれない。
もしかしたら周りの誰かに、震災後居なかった、逃げてたって言われたかもしれない。
心が苦しかっただろう。
でも、もし私が震災後 原発爆発したあと福島を出て逃げていたら…、福島には戻れなかったかもしれない。
被災地で頑張ってるみんなの仲間にはなれなかったかもしれないって、震災後思ってました。
それを考えると、不可抗力、幸運だったとはいえ、ゆづは苦しかったでしょう。
なら、フィギュアスケートで頑張って金メダルとって、被災地の為に何か助けになれれば、力になれれば…って強く思ったことでしょう。
私はずっと、震災のことを一人で背負わなくてもいいんだよ…って思ってた。
でも違うな、これはゆづの運命であり、外野の私たちがどうこう言っても変わらない、変えられない運命なんだなって思った。
だからもう、震災のことを伝えていく羽生さんに対して、背負わなくてもいいって思うのはやめることにしました。
思う存分やりなさいって思うことにしました。
改めて、これは私の勝手な憶測、私の勝手な考えです!正解ではありません。
もしね、その…逃げたって言葉を発した人が、震災にあって苦しんでる方が言った言葉だとしたら…それを責められないな…っても思いました。
震災とも復興とも関係ない人が言った言葉なら、何にも知らないくせに!って思いますけどね。
これはあくまで私の勝手な憶測です。
理解して貰えたかなぁ…。
いよいよ今日ですね。
羽生さんが6月18日に福島県を訪問した時の映像が全国で流れます。あの日、私が動画をあげたあの映像が、きっともっと長めにね。
そして指田さんと南相馬市のMJC少女合唱団との[ 花になれ ]のコラボレーション
アイスショー。
昨日 everyで福島県を訪問したときの映像が流れました。
私は録画して行かなかったので、動画でチェックしました。
それを見てて感じたことがあります。
これから書くことは、あくまで私の憶測であり、あくまで私の勝手な考えなので、本当のことではないです。
今までは、羽生さんが、震災後の仙台の事とか宮城県の事とかをたくさん心配してらっしゃいました。
そして去年は、岩手県を訪問しました。
常に被災地のことを想っていました。
それを見ながら、ゆづ…そんなに一人で背負わなくてもいいんだよ…ってずっと思ってました。
そしていよいよ、羽生さんは福島県を訪問されました。
広野町にも行ってきたんですね、除染廃棄物がたくさん置いてあるところ。そんなところまで行ってるとは思わなかった…。
見てて不思議な感覚でした。
自分がいつも極当たり前に知ってる福島の現状…、中には知らないこともありましたが、それを羽生さんによって全国の方たちに少し知れる。
それを見ながら感じてました。
私は自分が震災後どうしてたかを思いだしながら、ゆづの震災後どうしてたかを聞いていた。
ゆづは震災から10日後には青森県に行ってしまっていた。フィギュアスケート界で有望な選手だったから、それを潰してしまってはいけないと、両親もゆかりのあるコーチの方々も心配したから。
その後は神奈川で練習したりアイスショーにたくさん出て、練習していた。
その間、学校はどうしていたのかは分からないけども。仙台にどのくらい帰ってたのか分からないけども、しっかりと仙台に腰を据えたのは、アイスリンク仙台が再開した夏から。
そして次の年の初夏にはカナダに拠点を置くため行ってしまった。
震災後、みんなががんばってるなか、ゆづはほとんど仙台には居られなかった。
もしかしたら周りの人たちとの間に、薄い壁を感じたかもしれない。
もしかしたら周りの誰かに、震災後居なかった、逃げてたって言われたかもしれない。
心が苦しかっただろう。
でも、もし私が震災後 原発爆発したあと福島を出て逃げていたら…、福島には戻れなかったかもしれない。
被災地で頑張ってるみんなの仲間にはなれなかったかもしれないって、震災後思ってました。
それを考えると、不可抗力、幸運だったとはいえ、ゆづは苦しかったでしょう。
なら、フィギュアスケートで頑張って金メダルとって、被災地の為に何か助けになれれば、力になれれば…って強く思ったことでしょう。
私はずっと、震災のことを一人で背負わなくてもいいんだよ…って思ってた。
でも違うな、これはゆづの運命であり、外野の私たちがどうこう言っても変わらない、変えられない運命なんだなって思った。
だからもう、震災のことを伝えていく羽生さんに対して、背負わなくてもいいって思うのはやめることにしました。
思う存分やりなさいって思うことにしました。
改めて、これは私の勝手な憶測、私の勝手な考えです!正解ではありません。
もしね、その…逃げたって言葉を発した人が、震災にあって苦しんでる方が言った言葉だとしたら…それを責められないな…っても思いました。
震災とも復興とも関係ない人が言った言葉なら、何にも知らないくせに!って思いますけどね。
これはあくまで私の勝手な憶測です。
理解して貰えたかなぁ…。