道後温泉駅前に到着。
温泉は前回入ったので今回はパス。
そうそう、この鳥居。
前回来た時は松山駅からこの鳥居までタクシーで来たのを思い出した。
この鳥居の少し先の左手に湯神社、大奥のアホみたいな石段を登ったところが伊佐爾波(いさにわ)神社。
どちらの神社も前回参拝したので今回はスルーさせてもらい湯築城に向かいます。
湯築城は現在道後公園として整備されているんだけど、その一画にあるここ、松山市立子規記念博物館。
ここは今回絶対寄っておきたかった。
『柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺』という有名すぎる句を詠んだ松山出身の歌人。
正岡子規といえば、この雰囲気満点のハゲ面の横顔写真が徹底的に使われているので、正直このイメージしかありません。
で、僕はこの子規にめちゃくちゃ勝手に親近感を抱いているのです。
なぜかというと以前も書いたけど、僕が旅行する先々に子規も足を運んでいて、そしてその場で詠んだ俳句が石碑として残っています。
子規は35才を迎える直前に亡くなっているのだけど、亡くなる前の7年は結核のためほぼ床から動けなかったとなので実質子規が旅をできていたのは28才くらいまで。
この人、どれだけ旅行してるのよ?ってくらい、ホントいろんなところで子規の石碑を見かけるんです。
関東以北、特に東北地方だとすごく見かける気がする。
僕は最初正岡子規というのは本名だと思っていました。
それが俳号だと知り、しかも『子規』と名乗るようになった由来を知って、この人の凄まじさを知りました。
結核を患い、血を吐くようになった正岡は、口の中が赤く『血を吐くまで鳴く』と言われた鳥・ホトトギスに自分を擬えて、子規(ホトトギス)を音読みして正岡『子規(しき)』という俳号を使うようになります。
当時は不治の病と言われた結核に侵され吐血する自分をホトトギスに擬えた、そのセンスというとあまりにも不謹慎と思われるが、正直、凄まじい感覚だと思わされる。
中学の日本史の教科書で正岡子規と彼が創刊した雑誌『ホトトギス』はセットで習うんだけど、今考えると『なるほど・・・』と思うよね、当時は『なんでホトトギスなんだ?』って思ってたのが。
入館料は400円、払う価値は全然あった。
館内は基本全て撮影NG。
唯一撮影できるのが正岡子規と夏目漱石が2ヶ月弱だけ同棲した伝説の『愚陀仏庵(ぐだぶつあん)』を再現したこの庵のみ。
この二人が短い期間とはいえ一緒に住んでいたって、ドラマだよね。
僕とヒロキくんはもうすぐ3年弱一緒に住んでるけど、どうだろう、どっちかは世に知られる人物になれるんだろうか・・・(笑)
九州には一回も足を踏み入れてないのはちょっと意外だったけど、病気じゃなかったら九州はもちろんのこと、めちゃくちゃ日本中を旅行しまくっていたんだろうな。
今回松山で一番楽しみにしてたのは、ここに来ることでした。