旅行中は書く時間はなかったけれど、思ったことなどを徒然と書こうかと。
岡山城に行った際、後楽園とお城を結ぶ月見橋の袂(たもと)に県立博物館の企画展『正岡子規と仲間たち』の案内看板が立っていました。
正岡さん、なぜか毎回使われてるアー写はこの坊主頭の横顔だよね。
色々な理由らしきものはあるけれども、この横顔の写真が子規の最晩年の最後の写真らしいです。
もはや教科書に必ず載ってるレベルの俳人で、正岡子規と彼が創刊した俳句の雑誌『ホトトギス』はセットで覚えさせられたな。
もっというと、大変恥ずかしながら『柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺』はこれまで松尾芭蕉の作だと思っていたら、正岡子規の作品でした・・・(恥)
因みになんでホトトギスなんだろう?と思ってたけど、学生当時はネットもないし、生きる上で特に必要もないことだったのでそのまま30年間近く放置してきたんだけど今日調べてみて、深かった・・・。
正岡子規は結核で亡くなるんだけど、血を吐く自分の姿を血を吐くまで鳴き続けると言われるホトトギスに準えてホトトギス=子規と名乗っていたらしいです。
『ホトトギス』と打ったらホントに変換で『子規』と出てきた!
本名だと思っていたけど、子規は芸名だったんだね。
で、この正岡子規の看板を見て何を思ったかというと、この人、すーーごい日本中をまわっています。
旅行してて僕は訪れた街々の謂わゆる繁華街と呼ばれる場所よりもお城などの史跡を回ってるから目に付くのかもしれないけれど、ホントいろんな場所に子規も来ていて、その時に読んだ歌が記念の句碑として残されています。
僕の中では正岡子規は歌人ではなく、もはや旅人としての存在なんです。
34歳で亡くなられているので、どれだけハイペースで、しかも現代よりも不便な交通網の中・・・
行く先々で子規の句碑を見ると、何しにここに来たの?とって思うことが多々あります。
千葉の佐倉城とかさ・・・。
当時は百名城スタンプも余裕でなかったのに。。。
100年以上も前に亡くなられているけど、髪型以外にも旅先が重なると嬉しいものです。
正岡子規が地元松山で病気療養中に大学時代に友人であった夏目漱石が英語教師として松山の中学校に赴任してきて2ヶ月弱一緒に住んでいたり、子規が亡くなった後、留学先のイギリスから帰国し子規のお弟子さんに勧められ『ホトトギス』に掲載されたのが処女作『吾輩は猫である』であったり・・・偉人は偉人と繋がるもんだね。
僕とヒロキくんはもう2年強一緒に住んでいるけど、『あの二人って昔一緒に住んでたんだぁ!』と後世の人から言われように頑張りたいものです。