『ニライカナイからの手紙』

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来週末から沖縄に行きます。

先々週くらいから気持ちだけでも沖縄入りしようと沖縄が舞台の映画を集中的にみてます。

で、何作か見た中でとりあえず、ニライカナイからの手紙。

沖縄で一番『沖縄らしい』風景が残っていると言われる竹富島が舞台の映画です。

『星の砂』をお土産に買ってきたら、『いらない』と言われたほろ苦いを越えて、ただただ苦い思い出のある、そんな竹富島が舞台です。

この映画は、恐らく賛否両論ありまくる作品でしょう。

もしかしたら、否の方が多いかもしれません。

島の島民みんなで一人の女の子を、十数年の間、あえて言うなら『騙し』続けるというのは、心理学的見地からサイコ系の映画にもなれるようなストーリーではあります。

ただ、僕は、全然『あり』だね。

この映画をフィクションだと思ってみると、あーだこーだ言いたくなるところは満載でしょう。

ただ、ノンフィクションだと思うと…いやね、実際ノンフィクションでもありえる話ではあるからさ。

確かに島民の人がみんなでって設置はアレだけど、毎年誕生日に手紙が届くってのは、これは全然いい。

いいどころか、素晴らしい。

素晴らしいどころか、今でも僕も母親からの手紙がくるなら正直欲しい。

気持ち悪かろうがなんだろうが欲しいね。

一つ、実際はどうだったんだろ?と思うところ。

僕だけかどうか分からないけれども、本にしろ手紙にしろ、分かりやすく本だとしよう。

小説を読んでていろんな登場人物の会話がでてくるじゃない?

よっぽど変わった趣味がある人でない限り、男の登場人物の会話は脳内で男性の声で再生されるし、女の登場人物の会話は脳内で女性の声で再生されるでしょ?

もっというと、僕ら世代だと子供の頃、ドラゴンボールとか北斗の拳とかテレビで見たと思うけど、そのテレビアニメの単行本とか漫画で読む時って、自然とそのテレビアニメの声で再生されると思うの。

で、さっき一つ思ったってのが、主人公の女の子は7歳で母親と別れて、エンディングで13年経った後に母親からの最後の手紙を読むわけ。

これは映画だから主人公がその手紙を読むシーンでは、お母さんの声で手紙がナレーションみたいに読まれていくんだけど、実際はどんな感じだったんだろうな?って…

僕は正直もう母親の声をはっきり覚えてないのよ。

亡くなってすぐの頃って、はっきり覚えていたんだけど、今ではなんとなく『イメージ』では残ってるんだけど、もう完全には覚えてないの。

で、僕は年に一度、毎年母親の誕生日の日に、僕が19才で地元を離れてから母親が送ってきたぜーんぶの手紙やポストカードを読むんだけど、悲しいかな手紙を読んでても、この映画みたいにはっきり母親の声で脳内再生されないんだよね…

別にだからと言って、リアリティがないとかそんなことを言いたいわけでなく、主人公の女の子は小さい時に母親と別れて多分もう母親の声もはっきりは覚えてないだろうに、母親からの手紙を読む時ってどんなんだろうなぁ…って、思っちゃったね。

もし、映画のようにはっきりと母親の声で読まれてるように手紙を読めるのならちょっと羨ましいな、ってさ。

兎に角、良いか悪いかよく分からないけど、ただただすごく共感というか共に感じれる、そんな映画でした。

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