わりと最近ハッ
とした、

言葉の伝わり方について。
時々、私が目にしているこの景色は他の人間と同じものなのかな?と考える事はあったけど、
自分が伝えた言葉で相手がどれだけ
こちらの意図を理解したのかなんて、
正直わからないよな…とハッ
としたのだった。

元夫のように、全然…全く伝わっていなかったり…。
息子デコボコっちにも、
え…………という位 伝わっていなかったりする。
私は10のつもりで言葉を尽くして伝えても、相手は2〜3しかわかっていなかった…とか。
◯◯のつもりで伝えたのに、
相手は▲▲と解釈している…とか。
『伝えた=伝わっている』と信じて疑っていなかったような気がする。
言葉というツールがあっても、
各々の価値観やらでその言葉自体の解釈であったりが違えばズレが生じてしまって、
そうなると…伝えたい事が自分の意のまま伝わるとは限らないのかなと考えると、『伝えた=伝わっている』 という思い込みって危ないな…と思えてきた。
そりゃー価値観とかが合わなければ
話も合わんよなぁ…と納得。
感覚が違いすぎればきっと言葉の選び方とか使い方、感じ方や解釈も違うのだろうし、
そうなれば、どう言葉を並べたところで伝わらない…感覚などがそもそも違うから。
そんなの、
一緒に居たら気分よく居られるワケないよな…と思ったりする。
それでも一緒に居たいとかあるのかわからないけど、もしそうならお互いの妥協点は必要だろうな…。
私は離れるけど。
言葉があるから伝わるとは限らなくて、言葉があるからこそ言葉に依存してむしろ伝わらなかったり…?
言葉で伝え合いきれずに気持ちの行き違いとかでトラブったり…昔も随分そういうので消したり消されたりしたんじゃ…なんて思う。
いっそ、言語が違う人との方がジェスチャーとかで気持ちは伝わりやすかったりするのかも。
動物とだって言葉はなくても確かな信頼関係は築けるし。
むしろ、動物との方が確かに通じ合えると思う。
それは、絶対にブレない純粋さが動物にあるからこそ成り立つ事だと思うけど。
要は、言葉に頼り過ぎという事なのかも。表面ばかり見るから、言葉にしか注視しなかったり。
相手がどういう思考なのかとか言動なのかをしっかり見る事が出来ていれば、それが本意なのか…等も何となくは気付けるのでは…。
言葉って直接やり取り出来るものだけど、不確かなものなんだな…と最近理解したアラフィフの私だった。
理想は、
感覚の似通った人たちと同じ方角を向いて変に干渉し過ぎず、
必要な事は助け合ってつかず離れずユルユル一緒に歩いていく事だなー。
有り難い事に、今の私と付き合ってくれている友人はこんな感じ。
どちらかと言うと、私が助けて貰っている比率が高い気がするけど…きっと気のせいじゃないけど…。
それでも恩着せがましく言うような友人達ではなくて…みんなありがとう
