障害者になる前、私は特に身内を特別保護フィルター越しに見ていた。

誰にでもあると思うけど、身内の事を悪く思いたくないから良く見てしまうような、あれ。


でも、その判断基準はおかしかったりして、白も黒にしてしまうような、

そんなおかしさがあるのだった。

そして、都合よくねじ曲げてしまうようなおかしさも。


そんなフィルター越しに見ていたから、

かなり大目にみていた部分はあった。

かなり…いや、結構。


でも障害を負い、

母や妹に手のひら返しをされたり、

青天の霹靂によって価値観も180度変わったり、

あらゆる事を諦めざるを得なかったり、

一気に様々な事が押し寄せ、

私の持ち合わせていたものも激変した。


ある意味正しい方へ覚醒出来たのかもしれない。

そうして覚醒すると、特別保護フィルターは粉々に砕けちり消失し、

ハタと我にかえったような感覚だったような?


見えかたが全然違っていた。

何でそんな風に見る事が出来ていたのだろう…とか。

きっと、私にも最低でも軽くはあるだろう発達障害(わからないけど)のこだわりであったりが影響していたようにも思う。


見えかたが全然違う、本当に。

大伯母の見えかたも変わった。

それでも出来る支援は続けているけど、

言葉のチョイスであったりに引っ掛かるようにはなってしまった。


身内に限らず、世の中を見る目もかなり変わった。

これまでなるべく他人に嫌われたくないと思っていたようだったけど、今はそんな事は思わない。


嫌うなら嫌って結構、

私は私の大切な人から大切に思われればいい。そうしてもらえるようにだけ努める。

他人とは最低限のルール下で最低限嫌な思いをしなくて済むようにだけ努めればいい…と。

関わりの希薄な他人ほど好き勝手言う存在は居ないし、それは何の力にもならないマイナスなだけの事。

赤の他人は私に親身に何かしてくれる訳ではないし、そんな事は求めない。


ただ、もし困っている人が居て、私にでも手助け出来そうな事であればするだろうけど、身体障害があるとそれも中々実際は難しい。

その気持ちはあっても、気持ちだけでオワリを迎えてしまう。


でも、家族だからって必ずどうこうでもないし、“家族だから”とか“家族なのに”とかやたらと口にする人間はきらい。

何もわかっちゃいないのねと思う。


表面上だけでも上手くいっている家族であれば、そういう言葉を軽く口にするのかもしれない。

でも内面はどうなの?と思う。


私がそうだったから、斜めに見てしまう部分はある。妬みなのかな。うーん。

私は良い家族だと思っていたけど、実は私は疎まれていて(妬みもあったのかも)、

障害を機に反旗を翻してきた…そんな家族なものだから。

真意はわからない。

当人たちに聞いていないし、聞きたくもないし。でも、当たらずとも遠からずだろう。


アニメ「もののがたり」でしっくりくる言葉があった。


“偶然訪れただけの有利な

状況に乗っかるだけとは、

ダサい連中だ。”


凄くしっくりきたこれ。


偶然訪れただけの有利な状況=

私が身体障害者になったということ


乗っかるだけ=

前とは違う、今なら勝てるから手の平返ししよう


というダサイ連中…………。

ほんと、それ。


私も随分保護フィルターを通してこの者たちを見ていたけど、正気にかえるとおかしさを見ぬふりした事が多々あったのだろうと思う。


もう関わりを持たないようにしているから今どうなっているか知らないけど、

変にタカが外れておかしな価値観で盛り上がっていそうでコワイ。

妙な事が私にふりかかりませんように。

こんな身体でおかしな連中の尻拭いなんて、ごめんコウムルワオエー


せっかく人間関係も断捨離しているのだから。


特別保護フィルター越しの景色は歪んだ空間なのでご注意を指差し