障害のある立場からすると、自分の事のように共感する事ばかり。
障害を負う前は、“分かったつもり”になって、共感した気になっていた…という事でしかなかったのだとよくわかる。
当事者と外野では、全く違う。
わかったつもり、寄ったつもりなだけ。
とは言え、私も全く同じ状況ではないから、わかったつもりでしかない部分があるのだろうと思う。
ドラマの中であった、
“始めから無かったのと、あったものを失うのとでは全然違う”みたいな言葉。
これ、本当にそう。
だから中途障害って物凄くキツイのだ。
先天性の障害もキツイと思う。
他と違う事で妙な視線を浴びたり、
心ない事を言われたり思われたり、
気持ちのよい思いをする事はまずほぼないのではと思う。
ここは、大多数から外れてしまったら
ないがしろにされたり
奇異な目で見られるような所だし。
始めからそうであれば、適応していく事はまだ出来るのだろうと思う。
もちろん、それはとても大変な事ではあるだろうけど、
【こういうものなのだ】と受け止めて進んでいく事に、中途障害までの時間は要さないかもしれない。
その人の性質にもよるのだろうけど。
私が介護の専門学校で障害について学んだ時に、中途障害になってしまったその時の状況を考えただけで恐ろしいと思った。
それまで出来ていた事が、
ある日突然、
ある時を境に一気に出来なくなるのだから。
老化で段々出来なくなっていく事は、
誰しもが経験する事だけど、
その比ではないという事。
いち度に一気に…だから。
そりゃ、中々受け入れられないし、進めない。
でも頑張ろうと思っても妙な視線は浴びるし、何か下に見られるような…とにかく屈辱の連続というか。
病院では、対 “人”として接して貰えて、
よし、頑張るぞ!なんて思っても、
ひとたび外に出ればたちまちそんな気は削がれ、萎えていく。
まるでおかしな人を見るかのような、
何とも言えない目で見られる。
好奇の目?
馬鹿にしている目?
自分じゃなくて良かったという安堵の目?
哀れみの目?
頑張ろうが出来ない事なのに、
障害があるからってサボっているとか、
ずるいとか言う、精神性の低い人々からの言葉や空気感。
そんな人より動けない自分。
どんなに悔しがっても、そんな人々が努力もせず持ち合わせているだけの身体スキルに勝ちようがない自分。
悔しいどころではない。
ドラマの中で、耳の聞こえなくなってしまった男性が、
以前の友人との連絡を断った気持ちもよくわかる。
それまでの自分を知っている人に、
障害者になった自分を知られたくないという気持ち。
どうにも出来ない事実なのだけど、
そういう気持ちは私にもあった。
知られたくない気持ちが。
きっと、ガッカリされたり憐れまれたりするのが嫌なんだろうな。
自尊心なのかな?
これは多分日にち薬で、
受障してすぐよりは薄れた。気がする。
完全には薄れてはいない。
知られたくないと思う人もいる。
でも、もし知って離れていくようであれば、追わなければいいと思っている。
その程度の関係だったのだと割りきれる。
幸い、変わらず付き合い続けたいと思う友人は、現状で会ったけど、
変わらず付き合ってくれている。
さりげなく気に掛けてくれて、危なくないようにと介助してくれる。
去るものは追わないさ。
でも、私にとっての重要人物は1人も何も変わらずに、これまで通りに心の近くに居てくれている。感謝。
これが本物よ。
そして結構辛いのが、
パッと見でわからない障害。
かなり頑張った上で出来るように努力して寄せているのに、
当然出来るんでしょ?前提で見られてしまう事。
障害があると伝えても、
視覚優位で判断されてしまうと、
出来るんだよね?となる。
相手が想像力のない人だと、それはもう悲惨。
いやいやいやいや、怠慢でなく出来ないんだよと伝えても、
多分ずるいとか思っているんじゃないかね。
じゃあ変わってよ、あなたの変わりに全部やってやるから。と思う。
でも、変わったらもう2度と変わらないからねって思う。
泣き叫んで懇願してきても、この思うように動ける体を返しやしないよって。
耳が聞こえなくなって、
話せるのに話したくないと思う気持ちも、
話せる人が楽しそうに自分に話すのを見るのが苦痛な気持ちもわかる。
自分も出来ていたのに、
それが出来なくなってしまった…
それを受け入れる事の辛さ。
自分も出来ていたのにという気持ち。
これが中々どうしようもなくのし掛かってくるのだ。
出来なくなってしまったという事実を自分の中に落としこまなければならないその現実が、
その突きつけられた現実を受け入れるのが辛い。
出来ていたのにという、それまでの自分。
自尊心。
障害者になると、
人権はないとか言う人も居たり、
実際変な目で見られたりするし、
それまでの自分は死んでいなくなってしまう。
自尊心ズタズタ。
いっそ死んだ方が楽だったなと1度は思うんじゃないかな。
私もそう思う。
今も時々思う。
それは、生きたくても生きられなかった人に失礼だと思うし、
申し訳ない気持ちも勿論あるのだけど、
生きていられても生き地獄。
前のようにはいかないし、
全てが変わってしまう。
身体健常者の嘆きが、
妙に軽々しいものに感じる、
そんな程度で嘆くのか…と思うし、
身体健常者の言葉は響かない。
何いってんの?どん底みたいな辛い思いしての言葉?響かないんだが?と。
体が自由に動いたら動いたで、大変な事も知っている。
動くからこそ保障がなかったり。
元動く人だったから。
ただ、もう世界が違うというか。
異次元みたいな?
感覚が違う…という言葉だけでは現せないような。
いくら言葉でノーマライゼーションとか差別はやめようとか言っても何も真髄は変わっていないと思う。
それは体感する。世の雰囲気から。
だから、障害者という表記が障がい者であろうが、何?その上っ面の配慮?
表面だけじゃん、何の意味あるの、それと思う。
そこに拘る人も居れば、拘らない人も居る。
障害者手帳を持つのに抵抗がある人もない人も居る。
結局は個々の感じかたによるのだけど、
人間扱いされないような部分を感じるのは共通じゃないか?
表面ではなんやかんや変えても、多様性とかうたっても、
結局精神的に何も変わってないやん?
同性の恋愛は気持ち悪いとか、
異性になりたいのはおかしいとか。
それだって、
今は単に異性恋愛が多い、
産まれた体の性がたまたま一致している人が多いってだけで、
同性の恋愛や異性になりたい人が大多数で殆どであれば、
今と真逆の扱い…
異性恋愛はおかしい、
産まれた体の精神的でいいと思っているのはおかしいって事に簡単になるって事だってわかっているのかな。
大多数=常識っていう場所なんだから、
それが正しい訳じゃないのに。
私見だけど、定型脳の人が殆ど居なくなってきた事も影響しているのだと思う。
多分、ASD傾向の人がかなりを占めているのでは…と。
仕方ないのだろうけど、末恐ろしい…。
相手の気持ちがわからない脳が殆どになる未来。
今よりもっともっと生きにくい世になるんだろうなと思うと、
子供を産んで良かったのかと考えてしまう。