せっかくログインできたので、ちょこちょこまた書き始めようかなと。

久しぶりに書くので、手探りで始めたいと思います。

まずは、6月に行った京都から。

 

最初に取り上げるのは三条大橋です。

 

 

ご存知、京都を代表する川・鴨川に架かる橋で、このあたりの河川敷には夕方になるとカップルたちが集まることでも知られています。

 

三条通から伸びるこの橋は、実は中世にはなかったようで、天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原北条氏攻めに際して造られた石柱橋が最初だとされています。

 

 

その名残を示すのが、上の写真の擬宝珠銘で、これによると「三条の橋は日本における石柱の始まりで、63本の切石をそなえ、後代にいたるまで行き来する人を救済するためのものである」と記され、「天正十八年庚寅 豊臣初之」と刻まれています。

 

江戸時代の『都名所図会』にも63本の切石をそなえた三条大橋が描かれていますが、大正元年(1912)の架け替え時に石は撤去され、京都市内の庭園等の石材として使用されたそうです。

 

ただし、三条大橋の西側の袂には、当時の石柱が1基保存されていました。

 

 

銘文からは天正17年(1589)に切り出された御影石であることがわかります。

 

これまであまり橋に注目することはありませんでしたが、当たり前ですが橋にも歴史があるんですよね。

秀吉の時代に思いを馳せながら橋を渡ってみるのも一興かもしれません。

ご無沙汰しております。

と言っても、もう覚えてらっしゃる方もいないとは思いますが(苦笑)

 

えー、6年ぶりにログインしてみました。

というか、IDもパスワードも完全に忘れていて、6年ぶりにログインできました(笑)

 

久しぶりに過去記事を眺めてみましたが、真面目に考察しながら、真面目に書いてたんだなーと、一人感慨に耽っております。

 

ちなみに、あれから6年が経ち、私もすっかりおじさんになりましたが、仕事柄、相変わらず全国の史跡をまわり歩いています。

当時のように旅行や巡見という感じではないですが、行く回数自体はむしろ増えてるんじゃないかな。

 

ストック自体は大量にあるので、今回ログインできたこともあり、無理のないペースでまた再開できたらなと思っています。

昔みたいな考察はもうできないとは思いますが(笑)

再び山崎方面に戻り、次に向かったのが「宝積寺」。


$ひろゆきの史跡探訪記


明智光秀と羽柴秀吉が戦った山崎の戦いで秀吉方が陣を置いたことで有名な天王山の南側の山腹に位置しています。
というより秀吉が陣を置いたのがこの宝積寺ということなんですね。

その後、秀吉の命により天王山に山崎城が造られ、宝積寺もその一部に取り込まれたことから、「宝寺城」とも呼ばれたんだとか。


寺伝では神亀元年(724)に聖武天皇の命で行基が建立したと伝えられています。



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そのため仁王門の前には聖武天皇勅願所の碑が建ってました。



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↑は仁王門および仁王像。
金剛力士像は室町期のもので、国の重要文化財に指定されています。


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↑は室町期に鋳造されたとされる梵鐘。
「待宵の鐘」と呼ばれているそうな。
肉眼でも銘文はわりとはっきりと見えたんだけど、年号はなかったような?


さて、たくさんの寺宝を有する宝積寺でも一際目をひくのが三重塔でしょうね。


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織豊期に建立されたということですが、いやはや立派な塔ですね。
こちらも国の重要文化財に指定されています。
正直もっとちゃんと撮りたかったんですけど、どっから撮っても逆光か木で隠れちゃうかでこれが限界(笑)


帰ってきてから知ったんだけど、境内のどこかに聖武天皇の供養塔と言われる石造五重塔があったそうな。
まったく気付かなかったよ…。無念…。
ちなみにこの塔は鎌倉期に五重塔として建てられたものをその後九重塔にしたものなんだとか。


天王山のハイキングコースの途中にあり、最初の上り坂がけっこうきついので途中引き返そうかとも思いましたが、立派なお寺で諦めずに行ってよかった(笑)
せっかくなので関大明神社の前を通っている西国歴史街道を大阪側へ2kmほど歩き、水無瀬神宮へ行ってきました。


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水無瀬神宮は後鳥羽天皇の水無瀬離宮跡に建立されたもので、承久の乱で後鳥羽が隠岐に流され死去した後、仁治元年(1240)に後鳥羽の遺命を汲んだ藤原信成・親成父子によって御影堂が建立されたことに始まります。
明応3年(1494)には後土御門天皇が隠岐より後鳥羽の神霊を迎え、水無瀬宮の神を奉じています。

明治時代には土御門天皇の順徳天皇も合祀し、現在の水無瀬神宮が成立しました。


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本殿は内裏の旧内侍所の木材を利用して江戸時代の寛永年間に移築されたものとしています。


客殿は織豊期に福島正則によって建てられたとのことですが、不覚にも写真を撮るのを忘れてしまいました。
神門も同じく織豊期に建てられたそうですが、こちらはひどい逆光で写真が真っ黒になってしまったため割愛。

水無瀬神宮は国宝の後鳥羽天皇像を所蔵していることでも有名ですね。
一度観てみたいものです。


さて、水無瀬神宮を出た後は再び山崎方面へと歩いて戻るのですが、ちょっと足を伸ばしたところに東大寺領の水無瀬荘跡があるとのこだったので、せっかくなので行ってきました。



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現地には↑のような碑が建っていました。



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現在の様子は↑な感じで畠になっています。

周辺の地名が「東大寺」だったのが、何とも歴史を感じさせてくれます。
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離宮八幡宮のすぐ近くにある「関大明神社」。

同社の由来についてはよくわかっていません。
正直私も現地に行くまではその存在すら知りませんでした。

しかしその立地がとにかく興味深い。
実は、ここ、山城国(京都)と摂津国(大阪)とのちょうど境に当たっているのです。



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社殿の隣にこのような碑が建っていることからもそれがわかります。

どうやら古代の山崎の関の跡地と推定されているようで、関守神や辻神を祀ったのが起こりではないかとされています。
山崎の関は交通の要地で、朝廷の管理下に置かれていました。

しかし、平安時代のはじめ頃には関は廃止になったようで、その跡地には関戸院という施設が置かれ、西へ下る公家や官人たちの宿泊に利用されていたとか。

現在の関大明神社との関係はどうなってるんでしょうか。

現在の社殿は室町時代に建てられたものなんだとか。
覆屋に覆われていたのでよく見えなかったのが残念です。
10月8~10日の3連休は学会で京都に行ったついでにちょっとだけ観光をしてきました。

リハビリ期間ということでごく簡単にレポを。

夜行バスに乗り込み、京都駅に着いたのが朝7時。
この時点でどこに行くかは完全にノープランだったんですが、駅で朝ご飯を食べながら「そうだ山崎へ行こう」と思い立ち、山崎駅へは8時半頃に到着。


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離宮八幡宮は、貞観元年(859)に清和天皇が平安京の鎮護のために宇佐神宮から八幡神を勧請したことに始まり、同地が嵯峨天皇の河陽(かや)離宮跡であったため、「離宮八幡宮」と呼ばれるようになりました。
石清水八幡宮の元社と言われており、両者は密接な関係にあったとされています。



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また、貞観年間に神官が神託を受けて「長器(搾油器)」を発明し、荏胡麻油の製造が始まったことから、日本における製油発祥の地と言われています。


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その関係で↑のような碑が境内にありました。

実際に大山崎では離宮八幡宮の神人を中心に荏胡麻の生産が盛んに行われていたようで、少なくとも13C初頭から荏胡麻油の販売権を獲得するようになり、公武政権から代々大山崎神人の関所通過の許可が与えられています。
さらに南北朝期には油販売だけではなく、酒麹を始めとする様々な商品を取り扱っていることが史料に見えており、全国的に有力な商人へと成長していった様子がうかがわれます。
山崎は交通の要衝に位置しており、その関係もあって強大な勢力を誇っていたのでしょう。


現在ではひっそりとした町の鎮守という印象ですが、往時は社殿等もさぞすごかったものと推測されます。
とはいえ現在でも商売に御利益があるようで、地元の方が朝早くからちらほらと参拝に訪れていました。


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↑は奈良時代の塔心礎だとか。
時代的なことや背景などはよくわかりませんが、離宮八幡宮に先行する河陽離宮に関係するものなのでしょうか。


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↑は菅原道真が九州に下っていく際に同地に寄り、腰掛けたと言われている石です。

こういったものは全国的に見かけますが、いったい全部でいくつくらいあるんでしょうかね?
久しぶりにログインできたので、いちおう生存報告(笑)


多忙を極めていますが、とりあえず元気です(笑)


*追記
アクセス解析を見たら、全く更新しなくなった今でも毎日50~60くらいのアクセスがあって驚きました。
やはり史跡ブログはそれなりに需要があるということでしょうか。
少し落ち着いたらまた復活したいなと考えておりますので、皆様どうぞよろしく。

調子に乗って2日連続更新w


こっからはひたすらマニアックにww


東光寺は甲斐善光寺から西へ約400mの距離にあります。




ひろゆきの史跡探訪記


寺伝によると、保安2年(1121)に新羅三郎義光によって開創された興国院をその前身と伝えていますが、詳しいことはわかりません。

ただ、仏殿に安置されている十二神将像の一体の頭部の内側に弘長2年(1262)の墨書銘があることから、鎌倉時代中期頃までは密教寺院であったと推定されています。


しかし、興国院は文永年間の蘭渓道隆の入峡に伴い転機を迎え、この時に改宗され、臨済禅の興国禅寺として開創されました。

その後、甲斐の禅林の中心的な寺院として重要視され、現在の寺名「東光寺」と改名、北条高時により、諸山に列せられています。


武田信玄の時期には、信玄は諸堂を再建するとともに、東光寺を甲府五山に列しています。


信玄との関わりで言うと、諏訪への侵攻作戦で、和談に応じて開城した諏訪頼重と、駿河侵攻に反対して対立した嫡子武田義信の2人を東光寺に幽閉しました。

その関係で、現在境内裏手の墓地には両者の供養塔が残されています。




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こちらは諏訪頼重のもの、




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こちらが武田義信のものです。



なお、このような武田氏との密接な関係から、武田氏滅亡後は織田氏に睨まれたようで、時の藍田和尚は多くの僧とともに恵林寺山門の火に焼かれ、東光寺の伽藍は織田軍により放火され、伽藍のほとんどがその時焼失してしまったとのこと。

江戸時代には甲府藩主柳沢氏によって復興がなされますが、そこら辺は私の守備範囲ではないので割愛させていただきます。




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ただ、織田軍による放火の際に焼け残ったのが↑の仏殿。

桁行3間、梁間3間、一重裳階付きの入母屋造、檜皮葺の禅宗様建築で、国の重文に指定されています。


建物のことはよくわかりませんが、室町期くらいのものでしょうか?

リハビリも兼ねて、先月半ばに行った山梨旅行の史跡紹介をしようと思います。

いつまで続くかわかりませんがww



まず記念すべき復帰1発目は「甲斐善光寺」。


本当は「甲斐」はつかず、ただの「善光寺」なんですが、有名な長野の善光寺と区別するために「甲斐善光寺」と表記することにします。




ひろゆきの史跡探訪記


「甲斐善光寺」は戦国期の武田VS上杉の争いと密接に関わってできた寺院であります。


弘治3年(1557)年の上杉方との合戦で、武田氏方が善光寺およびその北方の戸隠付近を掌握し、北信濃の大部分を支配下に収めました。

翌年、信玄は戦火かから守るために、善光寺の本尊阿弥陀如来を始め、寺宝・梵鐘、さらには僧侶たちを甲斐に移し、板垣の地に信濃とほぼ同規模の地割りを行い、伽藍の造営を開始し、永禄8年(1565)には本尊が入仏、その3年後には七堂伽藍が整ったというのが「甲斐善光寺」の沿革です。

まあ、戦火かから守るためというよりは、イデオロギー的なもののような気もしますが。


と、このように「甲斐善光寺」が発足するわけですが、武田氏の滅亡とともに威勢は衰え、本尊の阿弥陀如来は各地を転々とすることになります。

慶長2年(1597)に京都の豊臣秀吉のもとに送られ、その翌年、ようやく秀吉によって本尊は信濃の善光寺に戻されました。


それ以後は「甲斐善光寺」は前立仏を本尊として法灯を守り、浄土宗甲州触頭、徳川家位牌所などとして勢力を誇りましたが、宝暦4年(1754)の大火で全伽藍が焼失してしまいます。


現在の山門・金堂はともに宝暦の大火以後に再建されたものですが、どちらも国の重要文化財に指定されています。




ひろゆきの史跡探訪記


うむ、規模は小さいものの長野の善光寺とそっくりな形ですな。




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こちらの梵鐘は戦国期に信濃の善光寺から持ち出されたもので、正和2年(1313)の銘があります。

立派な銅鐘でした。



宝物館には文保3年(1319)造立の源頼朝像などが所蔵されているのですが、今回は時間の都合上拝観することは叶いませんでした。


残念ショック!


まあこの時の旅行は一般の友達と昇仙峡の紅葉を観に行くというものだったので仕方ないかDASH!




とまあこんな感じでまたぼちぼち更新していきたいと思います。


ほんといつまで続くだろうかww

こないだ久~しぶりに自分のページにログインして、久~しぶりに日記なぞ書いてみたんですが、ひろゆきさん気づいちゃいました。



文章を書くのが面倒くさいのではない



写真の整理をするのが面倒くさいんだ



と…。



そうだよなー、文章だったらツイッターとかでバカみたいに書いてるもんなー。



でも俺の記事の特性として、写真がないと意味がないかんね…。



やっぱり写真がないと何も伝わらないよね?




そして久しぶりにアクセス数などを見てみたんだが、まったく更新されてないにも関わらず、毎日けっこうな数のアクセス数があって驚いてしまいました。



驚いたというより、申し訳なさというか罪悪感というか汗



写真の整理さえやれば実は記事はいつでも更新できるんですよ。



何とかならんもんですかね?w