風に吹かれて

人生、それすなわち旅である

Amebaでブログを始めよう!

多言語ハイキングvol.2 高尾山

2000.11.25. 家族向 参加19名


駅を降りると、原宿かと見まごう人、人、人。

「帰りの切符は、今のうちにご購入ください。」駅員が拡声器で繰り返し叫ぶ。京王線高尾山口駅の朝。

紅葉のピークにあたるこの週末、高尾山は、たくさんの人でごった返していた。はぐれないように気をつけなければならない。今回は、こちらも大人数。

以前、ミーヤの家にホームステイしたアセラさんも今日は参加してくれた。

アセラさんは、お弁当を持ってきていなかったので、山麓でおやきを買った。あんこと野沢菜の2種類あったが、どちらの日本の味も大丈夫そう。

登りは1号路を行く。人の列の中を歩くような形になるが、道が広いためにそれほど気にならない。しかし、これが登山道だったら、かなり歩きにくいだろうなあ?

1号路は、舗装された歩きやすい道だが、スタート直後からわりと傾斜がある。歩き出してすぐにじんわりと汗が滲んでくるが、スタート直後の元気もあって、みんななんなく越える。右手には沢が流れ気持がいい。

急な登りの途中で、先を行くメンバーが最初の休憩をとっていた。しかし、顔ぶれを見るとまだ先を行っているメンバーがいるらしい。先頭を快調に飛ばしているのは、べるちゃんだと聞く。

それからひと登りで金比羅台。天気もよく、景色がまぶしい。気持のよい風が吹いている。

ここまで今回の最年少の参加者、しんちゃんとりかちゃんの息子のしょうくん(2歳)は、自分の足で登ってきた。お父さんのしんちゃんは、世界中の山を登ってきたアルピニスト。息子の将来も有望だ。

金比羅台で全員集合して休憩したあと、スタートしてすぐにリフト山上駅でトイレ休憩。

タコ杉を見て、男坂と女坂に分かれ、脇ネエは、男坂の階段にチャレンジ。

そしてすぐロープウェイの高尾山駅に着く。

このあたりから露店が増える。

すぐ先で、薬王院の境内に入る。このあたりは紅葉が美しい。人もかなり集中してきた。

山頂を前に、最後尾のみんなでおみくじを引く。興味は恋愛運?結婚運?悲喜こもごも。ある期間は、このおみくじのことばを心に留めて生活するようになってしまう。

もう先を行くメンバーは、山頂に到着したようだ。携帯に入った連絡によると、山頂はすごい人で場所を確保するのもっまならない状況のようだ。

山頂到着。桜の時期の公園さながら。山頂の広場は、たくさんのブループの広げたビニールシートで埋め尽くされていた。

先着のメンバーが確保してくれていた2箇所に別れて昼食を取り、お昼休憩で自由行動に。おしろさんが手づくりのケーキを配ってくれた。シナモンの香りがして、ほんのり甘い。おいしいケーキ!おしろさん、ごちそうさまでした。

その後、小さな自然観察会。そんなことをしていたら、あっという間に出発の時間になってしまった。各々トイレを済ませ出発。

下りは稲荷山コースを行く。

気持いい雑木林の尾根道。登りの表山道とは、全く趣が違う。落ち葉を拾う者、どんぐりを拾う者。またそれぞれのペースで隊列はバラけるが、みんなそれぞれ楽しんでいたでしょうか?

途中からべるちゃんの膝の調子はピークに達した。後半出発時からかなり慎重に歩いて来ていたのだが、朝から続いた負担は、重くこそなれ軽減されるはずも無い。後は、だましだまし降りていくしかないのだが、かなり痛そうでかわいそうになる。

夕方から予定の入っていたトエラとアセラさんが、みんなに別れを告げ先に下山。

それから少し下ると東屋。そこでみんな小休止。反対側にこんもりと茂るわずかに色付いた広葉樹をバックに記念撮影。ここまでくれば麓も近い。

最後の出発。最後尾、べるちゃんをサポートするぎゅうちゃんとダバイと一緒に下る。べるちゃん、あと一分張りだ!頑張れ!

前半に飛ばし過ぎたのが影響してか、もう限界の足取り。誰もがそんな経験はあるはず。次につながる体験。

あと少しで麓のロープウェイ清滝駅というところで、日が落ちた。薄暗がりの中、最後尾がゴール!

今回は参加者が多かったこと、コース自体たいへん混雑していたということもあり、みんなで一緒に楽しんだというより、それぞれのグループで登ったといった感じだった。

みんなそれぞれどうだったかな?また教えてね!

スタンド・バイ・ミー

その後も釣行は続き、中学に入るとルアーにはまっていきました。ルアーを自作し、相模湖、御蛇ケ池、芦ノ湖などへ友人とせっせと通うようになりました。


芦ノ湖の解禁当初のトラウトトーナメントでは、大会中オールを折るアクシデントに見舞われ、湖の端から端まで、まだ氷のような水を手で掻いて進んだこともありました。


一番通った相模湖では、夏の日中は、アタリも無くなり、ボートの上での昼寝にも飽きて、遊覧船の前をわざと漕行し、汽笛を鳴らす船の前を逃げ切るという悪行を楽しんだりしました。(←真似をしないでください。)


高校に入り、自転車で全国を周り始めました。この輪行には、様々な思い出があり、少しずつ紹介していきたいと思います。


そして、北海道への青春18キップの旅やつくば博でのゲート前連泊野宿アトラクションめぐりなど、あきれることばかりしていました。


その中で、自転車旅行に告ぐ、高校時代の大イベントといえば、毎年春休みに、友人大人数で行くスキー旅行がありました。ぼくたちは、勝手にスキー合宿と名づけ、高校での愛好会承認を目指し、部活動のつもりで励んでいました。


これにより、ぼくはその後スキー選手を目指し、スキー指導員として現在の職に就き、アウトドアスポーツ指導員としての今があります。それほど大きく自分の人生を変えたスキーとの出会いは、高校時代のこの友人たちとの勝手気ままなスキー旅行から始まりました。


始まりは、高校1年が終わった春休みでした。男女合わせて20名ほどの参加があった、このスキー旅行の行き先は、何を隠そう、ぼくが小学時代から入り浸っていた、長野県白馬村の親戚宅です。親戚宅は民宿を経営しており、高校時代になっても、夏休みは自転車で、年末年始は住み込みのバイト、そして春休みにこのスキー旅行と常に白馬で過ごしていました。


スキー旅行のきっかけは、高校1年の冬休み、友人と共にこの民宿にバイトで行ったことでした。今度は春休みにみんなで遊びにおいで。そのおばちゃんの言葉に、ぼくたちは仲間を募り、大所帯で合宿を開くこととなったわけです。


夜行列車のアルプスが、ぼくたちのこの合宿のお決まりの交通手段となります。席を確保するために、先発の4名が夜の8時に新宿駅のアルプス臨時改札前に並びます。当時はアルプス中央広場とかなんとかいう名前があったと思います。


10時頃になると改札が開き、冷え切ったホームでの乗車順番待ちとなります。寒くて寒くて震えがくると、ぼくたちはおもむろにバッグからウイスキーのボトルを取り出し、煽り始めます。全メンバーが揃う頃には、全発全員がベロベロに出来上がっている状態でした。


(お酒は二十歳を過ぎてから飲みましょう・・・)


列車が発車し、無事席も確保できると、再び盛大な酒宴が始まります。お金の無い当時のぼくたちの友は、サントリーホワイトと今は無きサントリーQでした。もちろんそれほど飲めるはずも無く、消灯時間には、みんなぐっすりと眠る健康的な飲み方だったと、勝手に解釈しています。


そんなこんなで、翌日は二日酔いでゲレンデに立ちました。とは言っても、どちらにしても当時は全員が初心者です。ゲレンデ暴走族なる愛称を勝手につけ、当時流行っていたポンチョの前を全て開け、ヒラヒラ後ろにはためかせながら、全員高速ボーゲンなるもので滑る?(斜面をただ落ちる?)だけで、みんな満足し、とても幸せな気分になったものです。技術を高めようなどと考える仲間は一人もいませんでした。ただみんなで風を切って滑り(落ち?)、雪にまみれ、飯を食い、くだらない会話に盛り上がり、そして心の底から笑い合えることだけが、最高の楽しみでした。


夜は、親戚に隠れ(恐らくバレていたはずですが)、部屋では相変わらず宴会です。


そんな、ある夜。この事件が起きました。

誰からとも無く、線路を歩こうと言い出したのです。既に最終列車も通過した後であることを知り、翌朝の夜行列車が到着するまで列車は来ないと確信していました。そしてぼくたちは、飯森の無人駅から白馬へ向けて、単線を一列になり歩き始めました。


途中、平川という大きな川があり、その上の長い鉄橋を渡ります。濃い霧がかかり、数メートル先も見えない状況でした。


そこで、また誰が思いついたのか、向こう岸とこちら岸の二手に別れ、その鉄橋の上で陣地取りをやろうという話しになりました。


鉄橋では線路の両脇に、人ひとりが通れるくらいの狭い網が張ってあるだけでした。


いよいよ戦いの火蓋が切って落とされました。向こう岸に向かい線路の上を全力で走っていきますが、濃い霧のため、行けども行けども相手が見えません。そのうち、不意に相手が霧の中から飛び出し、ぶつかりそうになりながら対面します。


じゃんけんぽん!


お互いの陣地からは、当然勝負の開始も勝敗も分かりません。


そこで、負けた者は、線路脇の網に飛び降り、自陣に向かって、負けたぞ~!と大声を張り上げながら再び全力疾走をします。その声が届くと、次の者が再び鉄橋の中央目がけ疾走し始めるのです。


そんなことを繰り返し、随分盛り上がりましたが、決着はなかなかつきませんでした。


その時、遠くで汽笛の音が聞こえたような気がしました。


誰かが線路に耳を当てます。確かに何かが近づいてきます。


ぼくは、その鉄橋の何か音が近づいて来る側のチームにいました。そして、その音と振動で、確かに見えない列車が近づいてくることを知りました。


まだ、鉄橋の上にいる者もいます。そして、向こう岸では、このことにまだ気がついていないでしょう。


ぼくたちは、全員今までの遊びとは全く違ったスピードで、反対側へ向け一斉に走り始めていました。列車が来たぞ~!と大声で叫びながら。ゲーム中、その鉄橋の高さにビビリ、へっぴり越しでソロソロとしか進めなかった友人も、今は一緒に考えられないような速さで走っています。


後ろから、霧の中に列車のライトが透けて見え始めました。かなり危ない状況です。


鉄橋を渡り終わった者は、次々と線路脇に飛び降りて行きます。そこは田圃でした。


ぼくも鉄橋を渡り終え、田圃に飛び込みました。

田圃の中から後ろを振り返った瞬間、最後尾にいた友人が線路から飛び出し、体がまだ宙に浮いてるその後方を、先頭車両だけ煌々と明かりを付けたその列車が、ガタタンガタタンと音を立てて走り抜けて行きました。


空中の彼は、その列車の明かりで一瞬シルエットになったかと思うと、ぼくの上に覆い被さってきました。


列車は、時刻表に載っているはずも無い、夜行貨物でした。


誰一人怪我も無く、無事済んだため、今でこそ笑い話にできますが、当時のぼくたちは、その後この話を人にすることは絶対にやめようと約束しました。もちろん問題になることを恐れてです。


そしてもし、その時誰か一人でも命を落としていたら、ぼくたちの心には一生消えることの無い傷が残っていたはずです。


(↑絶対に真似はしないでください。)


その後、劇場でスタンド・バイ・ミーという映画が上映されました。


ぼくは、どうしても、あの橋での陣地取りと、その映画がダブって見えてしまうのでした。


(もちろん映画と違い、ぼくたちの悪行には、何のメッセージもこめられていませんが・・・)

旅のはじまり

小さな頃は、よく親父と釣りに出掛けた。

親父は、お袋と出会う前は山ヤだったし、ぼくが小さい頃もアウトドアが好きで、よく山や釣りに連れて行ってくれたものだ。


しかし、そのうち親父は、ゴルフとマージャンに夢中になっていった。


そして、親父の使っていた釣り道具と登山用のちょっとした炊事用具だけが、ぼくの元に残った。


小学校に入ると、ぼくは友人と電車に乗って、川や海へこどもたちだけで釣りに行くようになった。


江戸川の河口付近でボートを借り、釣りに飽きて海まで漕ぎ、沖に流されたり、真冬の夜釣りに大井埠頭へ行き、寒さのため大焚き火をし(当時は釣り場での焚き火に厳しい規制はなかった・・・ような気がする)、親父のクーラーBOXをドロドロに溶かしてしまったりした。


そんなわけで日帰りではあったが、何となく親から離れて旅をすることに何の恐れも無かった。


そして小学校3年生の夏休み、親戚の家のある長野県白馬村に、ひとりで行くことになった。


親は当然心配し、新宿駅で特急あずさに乗るまで見送り、白馬駅までおばちゃんが迎えに来るという状況で、ひとりでいるのは車中だけという、冒険もクソも無い感じではあったが、夏休み中を親戚の家で従兄弟たちと過ごし、自然の中にどっぷりと浸かる生活を送り、その虜になる。


親戚宅は農家だ。当時は、夜田んぼに行くと、蛍が群れ飛び、外灯の下にはカブトムシがゴロゴロしていた。家の裏には、一夜山という山があり、日中は従兄弟たちを引き連れて遊び尽くす。夏休みの頃は、会話もできないほどのクマゼミの大合唱。山全体が震えているようだった。

(ぼくは、その後大学を出るまで、毎年ここに村民のように出入りすることになるが、このような生命の豊かさは、既に高校生になる頃には失われていた。夜のホタルも見られるのは運がいいときだけ、カブトムシを探すのも一苦労。山が割れんばかりに鳴いていたクマゼミの大群も、いつしか東京の町の公園のアブラゼミのごとくなっていた。恐らく農薬により、わずか数年の間に、完全に豊かな自然は破壊されてしまったのだと思う。)


おやつには、スイカをひとり丸ごと1個。半分に割り、スプーンでそのままほじって食べる。

アシナガバチの巣を捕り、中から幼虫をつまみ出し、フライパンでバター炒めにするのも最高のおやつだった。

おばあちゃんの作ってくれたイナゴの佃煮の味も忘れられない。


一度行ってしまえば、もう離れることの出来ない、最高の夏休み。それから毎年、夏休み中を白馬の従兄弟たちと過ごすようになっていた。


親戚の家は、白馬と言っても、白馬から一つ手前の飯森という無人駅だ。特急あずさは停まらない。次の年から、到着時親戚の家に連絡を入れ、迎えに来てもらうことをやめた。白馬から1時間4キロの道を、道草しながらひとり歩くのは、最高の楽しみになった。


ぼくの旅、人生を変えたもうひとつの経験が、同じ頃にあった。


それは、今のこども自然体験ツアーの走りのようなものだろうか。牧丘村でのこども自然教室だった。  


誰が見つけてきたのか?どうして参加することになったのか?全く覚えていない。どんなきっかけだったのか全く分からないが、とにかくそこでの3泊4日の経験は、白馬での夏休みと共に、ぼくの原風景を完全に形成してしまったと言っても過言ではない。東京の新宿で生まれ育ったぼくだが、既に自然とは切っても切れない関係が出来上がってしまった。いや、地元のこどもたちよりも、それが非日常であったためか、強烈に心の真ん中に居座ってしまったようだ。


牧丘という響きは忘れようが無いが、それが果たしてどこにあるのか、今の今まで全く思い出せなかった。今回のブログ記事を書くにあたり、ネットで検索してみると、山梨県に牧丘町というのがある。長野との県境。オフロードバイクを愛する人には、林道川上牧丘線と聞けば、ああ、と思い当たる人もいるだろう。その林道にある大弛峠は、林道としては日本一の標高を誇る。


ぼくは、この牧丘町をネットで見つけ、あの時に行った牧丘村は、ここに違いないとの確信を持った。


同年代のこどもばかりが20名ほどが参加し(小学4~6年生が対象だったのだろうか?)、自然の中で共同生活を送る。リーダーと呼ばれるお兄さん、お姉さんが様々なプログラムを提供してくれる。今思えば、大学生か大学を卒業したばかりの人たちだったような気がする。


寝泊りするのは、林間学校などで使うコンクリの宿泊施設では無く、木造の民家そのままの建物で、畳の広間に蚊帳を張って眠った。


食事は、全てその民家の庭で作る。飯ごう炊飯にカレーやバーベキューだったと思う。冷たい井戸水で炊事した。今のキャンプ場のような共同の流し場も無い。井戸の下にタライを置いて、水を溜めていたのを覚えている。


見たことも無い星空も・・・


沢を遡上したり、山を登ったりのイベントもあったが、敷地の隣に広い原っぱがあり、そこでみんなと駆け回って遊んでいた風景を一番よく覚えている。

裸足で駆け回っていたぼくは、草の中にあった蜜蜂の巣の上を知らずに駆け抜け、足の裏中を刺された。

また、よく東京で遊びに捕まえていた刺さない蜂であるマルハナバチと間違えて、素手で蜂を捕まえ、掌も刺されたりした。

その度にリーダーのお姉さんが、縁側で丁寧にピンセットで一本一本針を抜いてくれた。


夜は特大のキャンプファイヤーだ。今でも焚き火の好きなぼくは、焚き火をする度に、頭の中でこの時歌った曲が流れる。「燃えろよ燃えろ」など、お決まりの曲も全てあったが、一番印象に残っているのは「山の子は」だ。


この歌が何故忘れられないかというと、最終日、バスに乗る前に、みんなで庭で歌ったからだ。自然と涙が溢れてきて、みんな最後はオイオイ泣きながら歌った。


お兄さん、お姉さんは、一緒にバスで帰らないのだ。おそらく、次のこどもたちがまた到着するなどの理由だったと思う。つまり、大好きになったお兄さん、お姉さんたちとの別れの歌がこの曲だったのだ。


30年以上たった今でも、この曲を聴くと自然と目頭が熱くなり、ツンと鼻にこみ上げてくるものがある。


このように、ぼくがこのブログで言う「旅」とは、観光旅行とは全く違う。それよりも、ぼくは本当に観光旅行と呼べる旅など、いったい生まれてこの方、したことがあるのだろうか?


では、ぼくがどんな旅をしてきて、今もどんな旅をしているのか?これから徐々に紹介していきたい。



多言語ハイキングVol.1 鳩ノ巣渓谷

多言語ハイキングは、過去にぼく主催で行っていた、ハイキングです。

2000年8月12日の記念すべき第一回は、奥多摩鳩ノ巣渓谷。家族向。参加者14名


今回の多言語ハイキングは、夏の暑い時期だったので、気持のよい渓谷コースを歩きました。

スタート直後から地図を片手に、何度も分岐で立ち止まり、なかなか先に進めないという状況があったのですが、最初のポイント「熊野神社」では、清掃に来ていたボランティアのおじさん達に、気の根元にある蜜蜂の巣を教えてもらったり、ムササビの巣を教えてもらったり、挙句は、都の文化財という農村歌舞伎の舞台にまで入らせてもらって、とても貴重な体験ができました。

しかし、そんなこともあってコースの中間点での昼食の予定が大きく狂い、まだスタートして僅かの、最初の河原で昼食ということになってしまいました。

清冽な水の流れを見るなり目を輝かせたのは、 なっちゃん (当時小学3年生)と しょうた (当時27歳)です。昼食もそっちのけで、早速水の中へ。

もちろんみんなも昼食が済むと、靴を脱ぎ、ズボンをたくし上げ、一緒に遊びました。ずっと水の中にいると、体中が涼しくなってきます。

まるでカキ氷を一気に食べた時みたい。しかし、既に服のまま泳ぎ始めていたしょうたには、その感覚は分からなかったようです。

しょうたの27歳とは思えないはしゃぎように、周りのみんなまで楽しい気分にさせられました。

この昼休みの後に、やっと舗装されていない道に入りました。ここからが本当のスタートといった感じです。横に小さな沢を眺めながら、林間をジグザグと本当に気持のいい道。と、思っていたら、ややや?だんだん勾配がきつくなってきました。あれ?今回は、ずっと平らな道じゃなかったの?

そうなんです。事前の情報では、ほとんど登り下りは無いはずだったんですが。

これ、どう見ても山だよね?

確かに登っています。まあ、全体としてみればこの程度の登り下りは、なんでもないものなんですが、今回は、山に入らないからと聞いていたので、 トエラ (当時29歳くらい?)はサンダル履き。そして、 なっちゃん にとっては、

「こんなきつい登りは、生まれて初めて!」だったそうです。

いやー、ごめんなさい。そして、足元に気をつけて。がんばって、あとひとふん張り。

標高381m。100m一気に登ったことになります。よく頑張った なっちゃん を記念に1枚、カシャ!

それと、今回のコース中恐らく最高点と思われる場所で、みんなで記念撮影です。自分の足で登ってきたところから、麓の風景を眺めるのは、やっぱり気持いい。

スタート直後からの驚きをもうひとつ。

ここまで、みんなを何とか引っ張って来てくれたのは、何を隠そう ぎゅうちゃん (当時33歳くらい?) だったのです。 ぎゅうちゃん が地図を片手に先頭を歩き、下調べの少ないぼくたちの穴を埋めて余りあるナビゲーターぶりを発揮。 ぎゅうちゃん が地図を読めるのも、山歩きが好きだというのも、今回初めて知りました。新たな一面を見せ大活躍してくれた ぎゅうちゃん どうもありがとう!

下りはいつもあっという間です。でもいつもでは無い人にとっては、素朴で正直な驚き!

「あら、もう着いちゃった!」

と、心から驚いてくれたのは ローラ(なっちゃんのお母さん)。こういう新鮮な感想が聞けるのも、ひとりではなくみんなで登る楽しみのひとつです。

少し後の話ですが、ぼくの後ろをあるいていた セイス(当時33歳くらい?)もいきなり、

「そうか分かった!」

と、いきなり叫んでいました。何か自然習得したのでしょうか?

そして、また先ほどの多摩川沿いに出ました。ここが大体今回のコースの中間点。最初の予定では、昼食を取るはずだったところです。

すぐそこが鳩ノ巣駅。既に14時を回っていました。

みんなで話し合い、ここから電車で温泉に向かうグループと、最後まで予定のコースを歩いて温泉に向かうグループに分かれることにしました。

歩くメンバーは、ぼくと セイス、 ぎゅうちゃん、 ローラ、 メイ(当時33歳くらい?)ということになりました。もうのんびりはしていられません。下手をすると暗くなってしまいます。みんなに別れを告げ、早速先を急ぐことにします。

しかし、ここからが本当の渓谷美でした。先ほど休んだところは、ここを見てしまうとただの河原。みんなごめんなさい。また、今度はみんなでこの後半のコースも歩こうね。

そして、ぼくたち5人は、その変化に富んだ流れと奇岩の数々を堪能しました。

急な斜面を登り、ダムを越えると、湖を巡る雑木林の林間コース。そして、最後にトンネルをくぐり、コースもほぼ終了といった感じです。

道標も整備され、とても歩きやすく、かなりいいペースだったようです。これなら、この先温泉に入る時間などを考えても、十分余裕がありそうで一安心。

少し山裾を巻くように下ると、もう車道が見えてきました。ここから奥多摩駅までは、車道歩きです。

「もてぎの湯」は、オープンしたばかりという事もあって、かなりの人気で、整理券まで配られており、番号を呼ばれるまで、時間も分からずに待たなければならないそうです。そのため、先に電車で温泉に向かったメンバーが先に整理券を全員分もらって待っていてくれたので、たすかりました。逐一携帯でやりとりしていたのですが、ぼくたちが温泉に着くとほぼ同時に、温泉に入ることが出来ました。

今歩いてきたであろう山並みを眺めながら入る露天風呂は、また格別。湯船に入った途端に、疲れた脚が温かい幕でポワンと包まれるようで、硬くなった筋肉がとろけ、体中の力が抜けてしまうようです。

初めて温泉に入ったという、 トエラの家にホームステイ中の そーちゃん(フランスの留学生)もすごく喜び、一番長く入っていたそうです。

風呂の後は、冷たいビールが待っています。みんなと飲むこの一杯のために、今後とも企画していこうと心に誓ったのでした。


帰りは セイス 宅で打上げしました。 セイス 手づくりのかぼちゃプリンと、目の前で次々に焼きあがる しょうた 自慢のお好み焼き。飲んで、騒いで、歌って、楽しい夜は、あっという間に更けていきました。

旅ブロ書こうと思ったのに・・・

この夏は、週末ずっと農家の手伝いをしていて、旅に行かれない。


そこで、過去旅。


ハイキングものから、ご紹介。

旅の歴史、そしてこれからも続く旅

旅なくして生きてはいけない。

人に会い、自然に会い、自分に会う。

そんな、ブログをつづってみようと思う。

よろしく。