世間は夏真っ盛り。
蝉達の歌声がジリジリと照らす炎天下の中を駆け抜けていく。生ぬるい風が背中の汗を冷やした時、それが灰崎によってはたかれているうちわから来るものだと気付く。彼は今日、珍しく練習試合に参加していた。彼は決して自分を仰いでいるわけではなかったが、ひらひらと左右するほんの少しの漏れた風が今はとても心地いい。
練習試合の結果は今回も全勝で終わった。
いつも通りの結果、いつも通りの声援、いつも通りの記録。
少しは骨のある試合になると思ったけど、なんて考えながら一歩手前を歩く彼の横顔を盗み見る。誰もが仰ぐかドリンクを額にあてるかして冷気を求める中、彼だけは涼しげに今日の試合の記録に目を通し、頬へ伝った汗を首にかけた黒のタオルで拭った。
__平気そうだなあ。身体に保冷剤でもつけてるのかな。
それはないな、と自分で自分にツッコミを入れてから無意識のうちに彼の隣に並び、重い足を力なく動かしながら歩く。すると彼は他の部員に気づかれないようにこちらへ距離を詰めると、肩と肩が擦れあう程度の感覚を保ちながら歩き始める。さりげない相手のアプローチを見逃すはずもなく、今きっと自分の頬に紅潮しているのだと自覚する。
「__暑いかい?」
「・・・へっ?あっ、・・・うん、とっても」
急に話しかけらるものだから反応に困ってしまう。
彼の名前は赤司征十郎。
帝光バスケット部キャプテンであり、私にはあまりに高嶺の花だと錯覚するほど完璧な恋人。・・・この二文字を改めて考え直すと、小恥ずかしい。
告白は彼からだった。
元々マネージャーである私と赤司君の接点は多く、気づけばお互い惹かれあっていた。勿論、返事はイエスだ。断る理由がない。あの日は、私が生まれてから一番幸せだと感じた1日のひとつに換算できるくらいの宝物のような日だった。幸せってこういうことを言うんだって、こんなことを言う人が出たのも、なんとなくわかった気がする。
私がえへ、と抜けた笑みで返すと、彼は優雅に口元を綻ばせながら「そうか」と相槌を打った。「暑くないの?」と言うと「そりゃ暑いに決まってるさ」と返された。
少し歩いた先、学校の校門が見え始めると背後で部員たちが「やっとついた」なんて声を上げる。私と赤司君は変わらず隣を歩きながら玄関まで向かうと、先についていた顧問の車から預けていたドリンクの入った袋を取り出し、もう一度校舎へと踵を返す。するとまるで当たり前のように荷物を取り上げようとする赤司君に本当男らしくて素敵だな、なんて考えながら敢えてそれを遠慮する。
「持つよ。重いだろう?」
「ううん、大丈夫。これくらい平気」
一向に荷物を離す気がない私を見限ったかようやく彼が諦めの意として「わかったよ」と降参の一言を述べると、私は「うん」と返事をした後に両手の荷物を持ち直す。彼は体育館に向かう間に何度か重くないか、本当に持たなくて大丈夫かと聞いてきたけど私がそれを彼に任せることはなかった。これは私の中の意地でもあり、赤司くんの疲れを増やさないように、気をつかわせないように、というのが彼の好意を拒んでいた。結局体育館の保冷庫まで運んで見せた際には、「もっと我儘になってくれて構わないんだけど」なんて拗ねたように、でもその次には「お疲れ様」と頭を撫でてくれた。__ほんと、優しくて、王子様みたい、赤司くんって。
体育館に入ると、ほとんどの部員は荷物を運び終わり、各自で休憩を取っていた。持参したドリンクを飲む人もいればシャワーで汗を流し、制服に着替え終えている人もいた。保冷庫から帰ってきた私達を最初に迎えたのは聞こえるはずのないドリブルの音だった。___ん?もうボールは全部片付けたし、あとは解散だけだったはずだけど・・・。
春香が隣の彼に目をやった時には、忽然と赤司は姿を消していた。
その姿を追う視線がやがて彼の居場所を目視した時、赤司はそのドリブルの主犯、青峰と黄瀬の前で手を組み、何か言っているようだった。すると背中から桃井さつきが姿を現し、春香の隣へと歩み寄る。
「春ちゃんドリンクお疲れ様!人数分ちゃんとあった?」
「あったよ、それよりもあの二人、また1on1してたの?」
目前の光景に指をさしながら桃ちゃんに視線を移すと、「うん。相変わらずだよね。・・・まあ、それだけバスケするの、好きってことかな」と返された。明日もハードなんだから、たまの早い下校の日くらい、休んだらいいのに・・・。
その後、各自の解散でバラバラになった部員を眺めながら、私も帰ろうかな、とベンチに置きっぱなしだったはずのカバンに手を伸ばすと、不意にその中へ大きな掌が伸び、気づいた時には私が持参していたペットボトルを当たり前のように引き抜きその口を開ける相手の姿が頭上にあった。
「は、灰崎くん、それ私の・・・」
ドリンクだよ、というより先に中身を飲みほされる。空になったそれを手渡されながら、不敵に笑った笑みが近づいたかと思うと、唇同士が触れ合うほどに距離を詰められる。静まり返った体育館に耳を澄ませると大半の下校と更衣室で着替えている人かの二択しか部員の把握は確認できず、まずこの体育館には彼と私しかいないことだけは明確だった。
戸惑いとそれに加えて危機感を感じ、崩れるように床へ尻餅をつく。途端走る鈍い痛みに顔を顰めると、そこに覆いかぶさるよう馬乗りした彼の目線を見上げる形で視線を交わした。それは癖であるのか舌なめずりをして見せた後に、彼によって掴まれた顎が乱暴に掴みあげられる。
「つかお前ごちゃごちゃうっせーよ、さっきから」
言った後には彼の手が春香の手首を拘束し、ギリギリと長く伸びた爪を突き立てられる。何度口付けをせがまれても顔を背けるか胸板を押すかして抵抗を示す春香に苛立った灰崎はその爪をさらに食い込ませていくとついには手首の皮膚が破れ、生々しい血が一筋流れた。それを見るや否や舌先で舐めとるように傷口を撫でられると、痛みと恥じらいから生理的に浮かんだ涙が目じりに溜まった。
その時。
「あーっ、今日も暑いッスね本当!」
「夏があちィのはあたりめーだろ、馬鹿かお前は」
タイミングよく更衣室から着替え終えた青峰と黄瀬の会話が体育館を騒がせると、さすがに人前では躊躇が出たのかようやくその手を解放された。恐る恐る重くなる手首を確認すると、案の定2、3箇所爪によってできた傷口から血液が滴っており、その周りは見るにも無残なほど赤く腫れあがっていた。手首の感覚がない。ひとまず部員に見られてしまっては変な勘違いをされると考えると、この夏の気候にそぐわぬ長袖ジャージを羽織り、せめてもの冷気を取り込むためにチャックを閉めずに身につけた。
「あれ?春香っちまだ帰ってなかったんスか?」
するとベンチで俯向く私に気がついたか黄瀬君がこちらに歩み寄ってきた。それに続いて青峰君と、いつの間にか居合わせた黒子君と真太郎君、むっ君も姿を見せる。次々と湧いてくる見慣れた部員に「あ、ううん。今帰るとこだったの」と返すと、よろりと立ち上がりながらスクールバックの持ち手に腕を通す。血がにじむ手首を背に隠し、えへ、といつものように笑みを浮かべる春香にどこか不信感を抱いたようか青峰君が一言切り出す。
「お前、こんなクソあちィのにそんなモン着て帰んのか?」
「_______・・・えっ、と・・・」
こんな時だからしみじみ感じる。彼はよく人を見ているな、と。とはいえこの場をどう取り繕うか問題だった。風邪ひいちゃったから?ううん、赤司君に余計な心配をかけるわけにはいかない。日焼けしたくないから?・・・いや、これは青峰君の地雷を踏みかねないかも。そんなことを考えながら返答に行き詰まると、隣で気だるげに立ち上がった灰崎が突然私のジャージの胸ぐらを引き、無理やりに脱がせようとした。
「や、辞めて・・・!」
「あんだよ〜青峰の言う通りだろ?こんな格好してたら死ぬぜお前。脱げよ」
「や・・・!」
わかっててやっている。確信できた。
私が嫌がるとひどく楽しそうに脱がせにかかる灰崎の表情を見ればそんなことは一目瞭然。だが幸いにもこちらが助けを請うために目線をやるより先に、黄瀬と青峰が声を上げる。
「ちょっ、ストップストップ、何してんスか!」
「灰崎テメー女子に手あげてんじゃねーよ!」
庇うように剥がされた二人の間に間ができる。
震えながら状況を眺める私に気がついたようで、真太郎くんが隣に立ち、そっと視線を落とし、何か言葉にするため口を開こうとした時だった。
「___何をしている」
暫し流れた静寂を打ち消すかのよう響いた声。
そこには私を隠すように赤司くんが立っていた。
そして彼は二言目にこういった。
「灰崎」と。
2話に続く