子供の頃、ダンボールを組み合わせて想像の中のロボットを具現化した。
学校に行き、それをクラスの男の子連中に自慢すると、我も我もとダンボールのロボットを作り始めた。
一番最初のロボットである私のロボットは 後続のロボットたちの格好の標的となり、後続のロボットを作った者たちによって破壊された。
私の夢のロボットを失った事で、私はたいそう悲しかった。
学校の先生は 彼らの非を責め、私のロボットを修復するよう命じた。
修復されたロボットは お世辞にもすっかり元通りとまでは行かなかったが、まあまあ見られるレベルにまでは回復した。
しかしそれは、もうすでに私のロボットではなかった。
私は冷めてしまってその後ロボット作りをやめてしまったが、クラスの男の子連中は 相も変わらずロボット作りに精を出していた。




少し時が経って、私は ウルトラ警備隊が欲しくなった。
しかしながら、テレビの世界と違って 現実の社会には目に見える敵がいなかった。
そこで、昭和四十年代当時もっとも世間をにぎわせていた問題「公害」に的を絞り、これを敵とみなす、そんな軍隊を組織した。
小学2年生の私には 構成する隊員が必要だった。
手書きのポスターをつくり、広く小学校全校からメンバーを募集した。
私のもとには20人近くの隊員が集まり、日がな公害対策を講じると言った遊びを展開した。
私の部屋が秘密基地だった。
その後、公害を敵とみなす軍事行動はなりをひそめ、ただの親しい友人と化して行ったが、その時の付き合いは まだ続いているように思う。




中学生になった頃、市内の子供会を面倒見るボランティアに参加した。
「青少年の健全育成」を謳った団体ではあったものの、メンバー達は「会議がある」事を名目に毎日の様に夜遊びをした。
当然「会議」はでっちあげ。
教育委員会お墨付きの夜遊びだ。
そこには「毎日がおまつり」と言った感覚があった。
特に何も用が無くとも、夜になると皆 公民館にあつまり、今夜は何をして遊ぶのか、そんな話をしていたものだった。




高校生になった頃、ロックンロールを始めた。
リーゼントのロックではなく、どちらかと言うとヒッピー的なのりだったと思う。
授業にはろくに出席せず、ブラスバンド部室に集まっては 1時間目からお昼までブルーズかロックをして遊んだ。
自由な校風だったので、先生に怒られるということは そうそう無かったと記憶している。
年に一度の文化祭は 酒を飲み、泊り込みでのドンチャン騒ぎだった。




高校を卒業してからは、浪人と言う身分を隠れ蓑に しばらく遊んで暮らしていた。
ただ遊ぶだけでは飽きるので、ふらふらしている連中を誘ってはバイクで走り回り、繁華街をうろつき、何か面白い物を求めていた。
チーマーという言葉が無かった頃、俺たちはチームを結成した。
オープンにしたジープに乗り込み、酒を飲んだ。
酒を飲みながら夜風を受けて キラキラする都会の大通りを疾走していた。
土曜の晩はお台場のゼロヨンに参加した。






今までの過ごしてきた時間は ほぼ「祭り」だった。
晴れとケ、そのうちの「晴れ」が時間の全てを牛耳ってきた。
今までつまらない事のほうが少なかったし、これからも「つまらない」事は少ないだろう。
何故ならば「面白くなるように自ら仕向けている」からだ。




地元の祭りには毎年参加する。祭りは「晴れ」の日だ。
その時、「旭睦」と書かれたはっぴを おそろいで着込む。
晴れ舞台だ。
旭睦とは「旭町の睦まじい、仲良しグループ」という意味である。
仲良しグループが乱痴気騒ぎを起こす! これが「晴れ」だ。
ケの状態を続けると 人生に彩りが無くていけない。




つまらぬ大人になる・・・とは、そのような「ケ」の状態が長く続く事を指しているのではなかろうか・・・









Or not...







ケ=静かな状態 晴れ=エネルギッシュな状態
これは出来るだけ良いバランスでありたいものだが、最近では「扇動家」が居ないのか、なかなか「ケ」から脱出出来ないでいるケースが多いと思う。
準備はいらない。
祭りはいきなり始まっても良い。
活発に遊びまわり ワクワクすることは、宇宙の脈々と流れる様に似ている。

動き回り、乱痴気騒ぎを起こすことは 他人様からすれば迷惑千万なのだが、全く静かな日々を暮らすのもいただけない。



古来より、野蛮な祭りとみなされた「晴れ」は 中央の意向で絶滅の一途を辿ったが、祭りを全て無くしてしまうと「クーデター」という新たな祭りが発生してしまう事を知っていた彼等は 全ての「晴れ」を取り上げてしまうことはしなかった。




少々の迷惑はあるかも知れないが、人は祭りを望んでいる。
誰が扇動するか、それが問題だ。

扇動家はいるのか。
晴れ舞台はあるのか。