今宵の月は、高層の薄い雲がシルクインクルージョンと同じ効果をもたらし、西の空に巨大なシャトヤンシーを浮かび上がらせている。妖しい月夜だ。偶然が思いも寄らぬ絶景を作るのを見るたび、大なり小なり自然の織り成す奇跡に、恋心にも似た思いをつのらせ、俺は心臓の鼓動を少し早める。
宝石が好きだ。人工的に作られた煌びやかなものに囲まれた生活を続けていると、宝石がいかに奇跡的な存在なのかを、感覚として捕らえることは難しい。遠い昔、まだ人間が宝石と肩を並べるような奇跡を作りあげる以前、カットされ金銀にセットされた宝石の数々は神そのものだった。その当時の宝石に対する、美しいものに対する畏敬の念は、現代人とは比べようのないほど、厳粛なものだったに違いない。それを、今の人々は忘れている。宝飾店で見る大抵の宝石類を、現代の我々は冷めたまなざしで見つめる。まるで一分間に60個生み出される工業製品でも見るかのように。宝石はそんな簡単なものじゃない、宝石の生まれ成長する長大な時間、加工する職人の技、それら宝石のスペシャルな部分は、プラスチックを型押ししてぽんぽん生まれてくる工業製品とは性質を異にする。
美しいものに、魂は宿るだろう。でも勘違いしてはいけない。それは、美しいものにもともと魂が宿っているという訳ではない。美しいがゆえに、そこを依り代として「美しい魂」が宿る、ということだ。ものごとが生まれ、成長し花開くために必要最低限のものは「いれもの」である。容器だ。受け止める容器があって、初めて命は芽吹く。どんな魂も、原初にはいれものが必要であり、いれものが無い限り、どれほど高貴な魂であっても、ふらふらと中空を漂うばかりで、未来に繋がることはない。だから我々は神を見出そうとするとき、どこに「美」といういれものがあるかを、まず探さねばなるまい。
11月くらいにはタイに行けそうだ。鯛ではなく、タイ王国だ。
余談だが、俺の母は東南アジアの料理が苦手だ。それを知ったのはタイ料理がきっかけだった。
母を、ちょっと有名なタイ料理店に誘った事があった。すると母曰く「いいわね、あんたも粋なところがあるじゃない」これはまあ、一種の親孝行だから、粋といえば粋なのかも知れないが、江戸の粋、とか、そんなのとはまた違う様な気がした。
店に着き、店内に入ると、母は眉間にしわを寄せ「ここって、東南アジアの店じゃない?」と言った。プミポン国王の写真と、タイ国旗が飾られていた。
「そうだよ?なんで?」
「たいりょうり、って、タイ王国の料理ってこと?」
「そうだよ?普通タイ料理といえば、そうじゃないか?」
「いやだあ、あたし、鯛づくしの店かと思って喜んじゃったじゃない。タイ王国の料理ならいらないわ」
そのタイ王国に行ったら、チャンタブリに行くのが宝石数寄の王道かも知れないが、俺はタイ語が話せないうえ、地理にも疎いので、比較的行き易いカンチャナブリに行き、現地事情を視察しようと思っている。