バリ島では毎月 満月の晩に盛大なセレモニーが行われる。
天上界の神々が地上に降りていらっしゃる日だ。だから、島の人々は今までの暮らしに感謝し、将来の幸せを祈る。
そこには教義があるわけでもなく、自発的な「心からの祈り」が一晩中捧げられるのだ。島全体が他意の無い祈りに包まれる。
そんな晩は、俺も何となく祈ってみたくなる。何かにとらわれるのではなく、本心からの祈りだ。
どうか、みんな幸せでありますように。
安らかでありますように。
バリ島に行く際はなるべく満月に当たる様に日程を組む。
島全体が「無償の愛」に包まれるのを実感できるからだ。
俺も、彼らと共に寺に赴き、彼らと共に祈る。
頭上の天空には、凛とした輝きの満月。
島全体はおろか、バリ島を中心に、「無償の愛」が全世界に広がるようなイメージに包まれる。








過日の朝、ひところ俺のチャットルームに出入りしていた女の子のお母様から電話があった。家出してしまったというのだ。
それで、思い当たるふしは無いか、情報を聞くために電話したのだと言う。
彼女が俺のチャットルームに出入りする様になったのは、彼女が中学生の頃だった。
パソコンのスピーカーから流れる音楽と音楽の合間に、日々の雑感を語る俺の声を聞きながら、あたかもそこに「なんでも理解してくれる友人」がいるかの如く思っていたらしい。
それは丁度、深夜ラジオを聞きながら勉強した受験生の、あのスタンスだ。そんな俺が、とある事件をきっかけに彼女を遠ざけた。もう来ないで欲しいと伝えた。
彼女は自身がリストカットするライブ映像を参加者のパソコンに流し続けるという事件を起こした。そして他の参加者からお叱りの指摘があったのだ。
「彼女はまだ未成年だし、大人が集まる時間帯のチャットに居てはいけないのではないか」「傍若無人に振舞うのを見るに絶えかねる。教育上よろしくない」と、そんな意見が多数寄せられた。
言われるまでもなく、いつまでも甘い顔をしているわけには行かなくなったので、彼女に理解出来る様に噛み砕いて分かりやすく小言した。
それから彼女は俺のチャットルームに来る事は無くなったのだが、事情通の参加者の話によると、彼女自身のホームページには、俺への罵詈雑言が書き連ねてあったそうだ。
事あるたびに注意して、その都度「はい」といい返事を返してもらったのも、全部「ふり」だったんだ。
そんな事実を知ってから、俺はチョッと悲しくなった。
しかし、いい大人なんだから子供には正しい道を示さなければならない。
これで良かったのだと思った矢先の電話である。



彼女のお母様によると、事の次第はこんな感じだ。
母子二人暮しの母と娘の間には、ある約束が取り交わされていた。
それがどんな約束なのかは知る由も無いが、とにかく、これだけは守って欲しいと云う約束があった。
彼女はそれを、いとも簡単に破ってのけた。
彼女の母は、約束を守れなかった罰として、自宅謹慎するよう言い付けた。
その時はしおらしく謹慎を守ると約束したらしいのだが、母は心配で、仕事の最中にもかかわらず様子を見に戻ってみると、案の定彼女は家に居なかった。

日ごろ気に掛け、動向に注意しているとの話だったが、電話口のお母様の話し振りを聞いていると、どうもこの母にも問題があるのではないか、と云う気がしてならなかった。
語気が荒い、と言うか、娘が失踪しているわけだから語気が荒くなるのも分からぬでもないが、お母様は自身の話しかしない。
自分はどう思っている、とか、自分はこれこれこう言う事をしてきた、とか、つまり一方的に「自分は正しい事をしてきたのに、何故こんな仕打ちを受けなければならないのか」と主張するばかりなのである。
「上の兄弟達と同じ様に育ててきたつもりなんですけどねぇ」と母は言う。同じ様に育ててきた、と言うのは、同じ様に育てれば手の掛からない子に育つ、と思ってのことだろうか。

例え兄弟でも、それぞれに生まれつきの個性がある。
同じ様に育てたところで、1から10まで同じ様に成長するとは限らない。
それよりも、兄弟一人一人がどんな特性を持っているのかを見極める事が大切なのではなかろうか。
兄弟の中の何番目、ではなく、一人一人が、かけがえのない唯一の存在なのだ、と認める事こそ大切なのではなかろうか。
叱りつけるにしても、「お兄ちゃんはそんな事しませんでしたよ!」等の、他の兄弟と比べる言動などはもってのほかである。余計ひねくれてください、と言っているようなものだ。
つまりまあ、お母様の話しぶりを伺っていると、そんな諸々を想像させるのだ。
思惑通り順調に育つ子供なんてこの世に存在しない。皆、何だか分からないまま、この世に生まれ出ちゃったものだから、そりゃ、右に行ったり左に行ったりするさ。
それを頭ごなしに「それは間違いだからやめなさい」と一刀両断に斬って捨てるのは、自然に伸びようとしている健康な樹木に添え木して不自然に真っ直ぐしようとしている様じゃないか。



結局、電話の大筋の内容としては、もう私の手に負えないから、廻りからの情報が欲しい、何か変わった動きがあったら私に知らせて欲しい、という事だった。
お母様は昼間、仕事に出られているので、なかなか彼女の相手をしてあげられないという負い目を抱いている。それでも「私がやらなくちゃ!」という気持ちが強いのは、やはり親だからだ。
ただ、俺はこう思う。
まだ親になった経験がない俺が言うのもおこがましいが、親子の関係は「必死の努力」の上に成り立つものだと云う事を一番に考えるべきじゃないかな。
仕事? 世間体? それがどうした! それよりも重要なのは「必死に愛する」事なんだと。
当然、このお母様だって必死なのだろう。
しかし、「必死のベクトル」が別方向を向いている。
何が何でも「言う事を聞くいい子」になって欲しい、と言うのは一方的な親のエゴなんだ。
「何があっても、お前を愛してやまないんだよ」と云う姿勢に対して「必死」たるべきじゃなかろうか。
親の究極の姿とは「愛の人」である。
子供は、年齢と共にいろんな学習をする。そしていつしか大人になるが、子供時代に大いに学習しなければならないのが「愛する」事なんだと思う。
「愛する」力は、「愛されてこそ」得られる感覚なので、幼少期から親離れまでの間に、これでもか!って程の愛を降り注ぐ事が大事なのだと思う。
そうしているうちに、人間関係とは「愛で支えあって行く」ことを実感し、慈しみの心を大切にする大人に成長するんじゃないかな。
与えてこそ愛されるのが人間関係。それを教えるのは親の勤め。
愛さなければ愛されないのは必然。
どうすれば「愛を感じてもらえるか」が難しい、と云う話を良く耳にするのだが、愛の為に何をすべきかは、それぞれが苦悶しつつ答えを出さなければいけないのだと思う。
それが「必死に愛する」って事じゃないか?

親も人間だから、気持ちが一杯一杯になれば子供と同レベルで内側にあるモヤモヤをぶちまける事だってあるさ。
でも、気をつけて欲しいのは、親が思う以上に、つまらないたった一言で子供は傷つく。
それが全ての悪しきものの始まりになるやも知れない。
もちろん、親だってたった一言で傷つく。でもそれは、最初から分かっていた事じゃないか。それが「親になる」って事なんだと思うよ。
いろんな覚悟の上、親になるんだ。その覚悟がない内に、親になっちゃいけないだろう。
ああ、子供の学校はあるのに、なんで親の学校はないんだろう。
子供に罪は無い。まっさらなカンバスの何所に悪意が隠されていようか。
もしそこに悪意を感じるのなら、それは、親であるあなたが黒い絵の具を塗ったのだ。
そうこうしているうちに、あなたは愛する責任から逸脱し、自分の気持ちに負けてしまう。子供にいろんなものを押し付ける。
そうなれば、子供としては俄然、責任の無い甘やかしてくれる他人の方が居心地が良くなるに決まっている。
きっと例の彼女も、そう言ったいきさつで俺のチャットルームに来たし、家出をしたんだろうなぁ。
チャットルームならまだしも、夜の街にフラフラ出掛け、誰かに誘われるがまま帰らない、となると、どうだろうか。



日常ではついつい忘れがちになってしまうかも知れないが、イマジネーションはとても大切だ。
自分が子供だった頃、何が足りて、何が足りなかったか、良く考えてみよう。
七転八倒の先に、共に夢見る将来があるだろうか。何気ない普段の会話の中に、そんな話をしているだろうか。
親子はそれぞれが別の人生、いずれ自分の手を離れる子供が、どんな環境に溶け込んでゆくのか、それを一緒に語り合うのも楽しい作業じゃないか。
喜びあえる環境が整っていれば、帰ってくる場所はココなんだからね、と笑って子供を見送れるじゃないか。







満月の晩、ことさらこの間の電話の事が気に掛かる。
窓の外には、通り雨で曇った空に、うすぼんやりと月が顔を覗かせている。どうか神様、あの親子が、様々な人たちが、愛の何たるかを理解し、支え合う事が出来ますように。