本日7月16日。
959年前の1054年に、ローマ教会とコンスタンティノポリス教会の間で「東西教会の相互破門」が起こった。
【概要】
キリスト教会の2大勢力であったローマ教会の教皇レオ9世と、東ローマ(ビザンツ)帝国のコンスタンティノポリス教会(東方正教会=ギリシア正教)の総主教ミカエル1世ケルラリオスが、互いに破門しあった事件である。
一般的な世界史の本などでは、この事件を「東西キリスト教会の断絶が決定的となった出来事」、つまりキリスト教会がカトリックとギリシア正教に分裂したのはここからだと説明していることが多い。
【背景】
ローマ教会とビザンツ(ローマ)帝国のコンスタンティノポリス教会(正教会)は、西ローマ帝国の滅亡以後、西欧地域の政治的混乱により疎遠化が進んだ。同時に、異教徒であるゲルマン民族の改宗の役目を負うことになったローマ教会と正教会では、キリスト教教義の解釈の違い(フィリオクェ問題)や礼拝方式の相違などが表面化してゆき、次第に対立を深めるようになった。
【事件】
1054年、ローマ教皇レオ9世の使節として、枢機卿フンベルトがコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂を訪れていた。
しかし、正教会総主教のミカエル1世は、東西の政治的対立を理由として面会を拒否し、フンベルト一行をそのまま数ヶ月もの間、放置した。
立腹したフンベルトは、独断で破門状をハギア・ソフィア大聖堂内の宝座(祭壇)に叩き付け、そのまま退出する。
これに対してミカエル1世もフンベルト一行に対し、破門を宣言した。
ハギア・ソフィア大聖堂(現アヤ・ソフィア博物館)
【補筆】
以上が大まかな経緯である。
この事件は、しばしば世界史で「東西キリスト教会の分裂を決定付けた事件」といわれているが、牽強付会だと思える。
なぜなら、双方の破門状とも、対象を相手側トップとしているのか、実は明確ではないからである。
さらに、フンベルトは、ただ破門状を投げつけただけとも取れるし、ミカエル1世の破門状の方はフンベルト一行に対してのみの宣告で、教皇までも対象としていたとまでは読み取れない。
加えて、事件当時、レオ9世は既に死去しており、フンベルトの破門状の有効性も定かではない。
この事件後の、ローマ・コンスタンティノポリス両教会間での関係も続いていたらしいのだ。
この事件についての文章を始めて読んだ時、どこが東西教会全体の、決定的な断絶に繋がっているのか、皆目理解が出来なかった。私見だが、キリスト教史をドラマチックに盛り上げ、この後の第4回十字軍に至る東西対立の結末への伏線にしようと演出を目論んだ、歴史学者の強引なこじつけではないかと思う。
それからもう1つ。
第4回十字軍による、コンスタンティノポリスでの狼藉行為を正当化する、カトリック側の政治的意図が関係しているのではないか?
つまり、「教皇の使節に対し、非礼を働くギリシア人の総主教の国は、略奪行為を受けて当然だ。第4回十字軍の行動は、全て天罰である」と主張する為の。
いずれにせよ、『当時のローマ教会とコンスタンティノポリス教会との対立関係を象徴する典型的な事件』と位置づけた方が正確だろう。
◇◆◇
ご意見・感想はコメント欄よりお気軽にどうぞ。
ただいま下の3つのブログポータルサイトのランキングに参加中。
当ブログへの人気ランキング投票になりますのでクリックをしてください。
ブログ検索サイトが開きますので、記事探しに活用ください。
日本ブログ村
人気ブログランキング
BlogPeople
パチーノアプローチ騎士修道会
...
