2014年1月20日14時56分
お父さんが亡くなりました。
二日経ってもまだ信じられない。 信じられないことが何かわからない。
12日に病院に行った時には自分で歩いて、笑ってお喋りした。
13日に行った時には、私が横に座ってるのに気付いたけど寝てしまってて。起きると吐き気をおこしてかわいそうだからそのまま寝かせてて。
今思えば、その時にお話しておけば良かったのかな。
14日はお仕事で病院に行けなくて。
15日は治療法を探しに有明がん研に行ってセカンドオピニオンを受けて。でもそこで初めてあと数ヵ月と期限を言われてしまった。
16日もお仕事で病院に行けなくて。母が父に柔らかく報告をした。
17日お昼前に至急連絡くださいと電話とメールがきた。この日は介護保険の認定調査だったのに。今家に帰らなければ帰れなくなると言われて、急遽退院した。大急ぎで帰ったら、病院に付き添っていた姉が全て手配したベッド、酸素が届いた。父が帰ってきた。月曜日には私の知ってる父だったのに。酸素をあてられて、帰ってきたのが分かるのか、私達が分かるのかという状態だった。父も今の自分を分かっていたのだろうか。
ケアマネージャーさん、看護師さん、お医者様が次々見えた。お医者様に言われたお薬や備品を買いに出掛けた。父の側にいたいけど私が出来ること・動くことをやろうと思った。
たくさん買い込んで帰宅した時に言われたことは、あと数日もつかどうかと。
父方の祖母と叔母夫婦が茨城から日曜日に来てくれることになった。すごく先のことに思えた。
自分で座ったり、支えられながら歩いてお手洗いに行けた。痛み緩和のお薬でかなり朦朧として話すことも、字を書くのもままならなくなり、伝わらないもどかしさを感じた。
夜が怖かった。酸素マスクを嫌がりすぐに外してしまうのを直したり、起き上がるのを見ていなければならなかった。大嫌いだったいびきの音がこの時からはとても安心した。
18日朝になり、ベランダに行きたいと言った。車椅子が入らないよねと自分で心配してた。ヘルパーさんが体を吹いてくれた。お風呂に入りたいと言っていたけどもう体力を縮めるだけだから駄目だった。夕飯を食べたのか聞かれた。いつもそうやって人の心配をしてくれてた。夜、いきなり父が起き上がり座りたい様子を示した。自分を支える腕がガクガクと震えていた。壁に貼った孫が小さい頃に一緒に描いて遊んだ絵を一枚ずつじっと眺めていた。いつもの父の顔、笑顔ですごくいい顔をしていた。自分で起き上がったのはこれが最後だったな。酸素マスクを外すのをごめんねと言いながらはめ直して明け方まで見続けてた。無事に夜を越せた。
19日午前中にヘルパーさんが口をキレイにしてくれた。午後に祖母達が来た。お父さん、会えて良かったね。90歳の祖母は春になれば治るからまた来るねと言って帰っていった。会いに来てくれたよと言ったら頷いてた。栄養はちゃんとあげてるかを聞かれて、はい、としか答えられなかった。もう点滴も外されてたから。
苦しそうに両腕を動かしてた。身の置き所がないのかどうしていいのかわからないようで狭いベッドの上で何度も寝返りをうって、その度に支えるクッションをあてた。母が電話している声が聞こえると嬉しそうな顔をしてた。お店で一緒にいた時を思ってたのかな。
夜に先生が見えて酸素量を最大に増やして、今晩は大丈夫と言った。
呼吸をするのがやっとだった。顔や手のひらに汗をかくほど熱くなっていた。昼までずっと暑いと言って毛布をはいでしまっていたのに寒いみたいで手を毛布にしまっていた。
電気をつけたら目を眩しそうにしかめた。母と姉と3人で枕元に椅子を置いて色々笑って話をした。ちょっと聞いてるの?って言いながら。
何度も動かしてた右手が枕元に上げたまま動かさなくなった。左手と左足しか動かない。目を開いたまま一生懸命胸と肩を動かして息をしてた。開いた目から涙が出ていたけどまばたきが出来ない。時々目を動かしていたかな。夜、母と姉が休んで私が一人で父の様子を見ていた。寝てない体がピークで不安で仕方なかった。4時頃母が起きて二人でベッドにもたれてうつらうつらしていたら急に酸素の音が途切れた。2台並べた酸素の機械から管が吹き飛ばされて外れていた。機械屋さんの繋ぎ方があまかったようだ。急いで繋いでお父さんを呼んだ。同じペースで呼吸を続けてるように見えた。起きている時でよかった。気付かなかった時を考えたら怖くなった。おトイレも寝返りも傷口の消毒も、全てが不慣れな私達がやることで父の体力をかえって奪ってしまっているのでは。病院では今みたいなことが起きたらすぐに気付いてくれただろうか。私達でごめんね、と何度も繰り返した。
20日朝に電気をつけても開いた目は動かなかった。夜は赤かった顔色が血色が悪くなっていた。赤く熱かった手も白く冷たかった。ヘルパーさんに顔と手だけ拭いてもらった。もう体を拭くために動かすのが怖い。
11時頃、呼吸が浅く荒くなってきた。胸も肩も動かなくて喉を動かしていた。見たことのない苦しそうな顔をしていた。看護師さんが来る時間と今出来る処置を聞いて痛み止を入れてあげた。看護師さん達が来て、薬を注射して胸の音を聞いた。溜まっていた腹水で溢れて酸素が入らない。 苦しそうに目を開いて一生懸命息を吸っていた。荒かった呼吸が段々とゆっくりになり薬が効いて落ち着いてきたのかと思った。手や顔を擦って何度も呼び掛けた。呼吸の間隔があいてきて、呼び掛けてやっと呼吸した。「一人で頑張ってお店を守ってきたんだから誉めてよ」と母が初めて辛かった時間を口にした。一回一回の呼吸が怖かった。何度もお父さんを呼んだ。一瞬眉を寄せて目をしかめて、知っているお父さんの顔になった後、すーっと苦しい顔が平らになり、もう何度呼んでも叩いても息を吸ってくれなかった。いつもの寝顔になっていた。12時過ぎだった。先生がいらして診断した時間が14時56分。
病気がわかった時も、入院中も、一度も取り乱したことがなく、いつも母を心配して頼むよと繰り返してた。わがままも言わずにこやかで看護師さんたちと楽しそうに笑ってた。 9月30日に8時間の手術に耐えて、すぐにリハビリを開始して先生方がびっくりするぐらい好調だった。縫合不全で入院が延び、2か月後に退院して翌日から仕事を始めた。19日後に食事が取れなくなって再入院、再発、転移と告げられ、12月26日から抗がん剤治療を始めた。副作用も少なく順調だった。
手術跡もきれいになり、順調に治っていたはずなのに。仕事に復帰して75歳までお店を続けるつもりでいた。すぐに退院する気でやりかけで出掛けていた。まさかこんなことになるなんて、私達より、何よりもお父さんが一番びっくりしていると思う。
苦しさが朦朧とした意識に紛れていたらいいな。私達が側にいたことがわかっていたらいいな。
今はまだ、ただただ信じられない。明日、23日静かにきれいなお顔をして寝ている父を最後にお家から送り出す。24日明後日に帰ってきたらもういないんだよね。
たくさんお顔を見て撫でてあげないと。辛かったでしょう、苦しかったでしょう、本当に頑張ったね。お疲れ様でした。
小学校以来に父と手を繋いだよ。わかったかな。
66歳、早すぎだよ。もっとお父さんの誕生日プレゼントを買ってあげたかったよ。
お父さんが亡くなりました。
二日経ってもまだ信じられない。 信じられないことが何かわからない。
12日に病院に行った時には自分で歩いて、笑ってお喋りした。
13日に行った時には、私が横に座ってるのに気付いたけど寝てしまってて。起きると吐き気をおこしてかわいそうだからそのまま寝かせてて。
今思えば、その時にお話しておけば良かったのかな。
14日はお仕事で病院に行けなくて。
15日は治療法を探しに有明がん研に行ってセカンドオピニオンを受けて。でもそこで初めてあと数ヵ月と期限を言われてしまった。
16日もお仕事で病院に行けなくて。母が父に柔らかく報告をした。
17日お昼前に至急連絡くださいと電話とメールがきた。この日は介護保険の認定調査だったのに。今家に帰らなければ帰れなくなると言われて、急遽退院した。大急ぎで帰ったら、病院に付き添っていた姉が全て手配したベッド、酸素が届いた。父が帰ってきた。月曜日には私の知ってる父だったのに。酸素をあてられて、帰ってきたのが分かるのか、私達が分かるのかという状態だった。父も今の自分を分かっていたのだろうか。
ケアマネージャーさん、看護師さん、お医者様が次々見えた。お医者様に言われたお薬や備品を買いに出掛けた。父の側にいたいけど私が出来ること・動くことをやろうと思った。
たくさん買い込んで帰宅した時に言われたことは、あと数日もつかどうかと。
父方の祖母と叔母夫婦が茨城から日曜日に来てくれることになった。すごく先のことに思えた。
自分で座ったり、支えられながら歩いてお手洗いに行けた。痛み緩和のお薬でかなり朦朧として話すことも、字を書くのもままならなくなり、伝わらないもどかしさを感じた。
夜が怖かった。酸素マスクを嫌がりすぐに外してしまうのを直したり、起き上がるのを見ていなければならなかった。大嫌いだったいびきの音がこの時からはとても安心した。
18日朝になり、ベランダに行きたいと言った。車椅子が入らないよねと自分で心配してた。ヘルパーさんが体を吹いてくれた。お風呂に入りたいと言っていたけどもう体力を縮めるだけだから駄目だった。夕飯を食べたのか聞かれた。いつもそうやって人の心配をしてくれてた。夜、いきなり父が起き上がり座りたい様子を示した。自分を支える腕がガクガクと震えていた。壁に貼った孫が小さい頃に一緒に描いて遊んだ絵を一枚ずつじっと眺めていた。いつもの父の顔、笑顔ですごくいい顔をしていた。自分で起き上がったのはこれが最後だったな。酸素マスクを外すのをごめんねと言いながらはめ直して明け方まで見続けてた。無事に夜を越せた。
19日午前中にヘルパーさんが口をキレイにしてくれた。午後に祖母達が来た。お父さん、会えて良かったね。90歳の祖母は春になれば治るからまた来るねと言って帰っていった。会いに来てくれたよと言ったら頷いてた。栄養はちゃんとあげてるかを聞かれて、はい、としか答えられなかった。もう点滴も外されてたから。
苦しそうに両腕を動かしてた。身の置き所がないのかどうしていいのかわからないようで狭いベッドの上で何度も寝返りをうって、その度に支えるクッションをあてた。母が電話している声が聞こえると嬉しそうな顔をしてた。お店で一緒にいた時を思ってたのかな。
夜に先生が見えて酸素量を最大に増やして、今晩は大丈夫と言った。
呼吸をするのがやっとだった。顔や手のひらに汗をかくほど熱くなっていた。昼までずっと暑いと言って毛布をはいでしまっていたのに寒いみたいで手を毛布にしまっていた。
電気をつけたら目を眩しそうにしかめた。母と姉と3人で枕元に椅子を置いて色々笑って話をした。ちょっと聞いてるの?って言いながら。
何度も動かしてた右手が枕元に上げたまま動かさなくなった。左手と左足しか動かない。目を開いたまま一生懸命胸と肩を動かして息をしてた。開いた目から涙が出ていたけどまばたきが出来ない。時々目を動かしていたかな。夜、母と姉が休んで私が一人で父の様子を見ていた。寝てない体がピークで不安で仕方なかった。4時頃母が起きて二人でベッドにもたれてうつらうつらしていたら急に酸素の音が途切れた。2台並べた酸素の機械から管が吹き飛ばされて外れていた。機械屋さんの繋ぎ方があまかったようだ。急いで繋いでお父さんを呼んだ。同じペースで呼吸を続けてるように見えた。起きている時でよかった。気付かなかった時を考えたら怖くなった。おトイレも寝返りも傷口の消毒も、全てが不慣れな私達がやることで父の体力をかえって奪ってしまっているのでは。病院では今みたいなことが起きたらすぐに気付いてくれただろうか。私達でごめんね、と何度も繰り返した。
20日朝に電気をつけても開いた目は動かなかった。夜は赤かった顔色が血色が悪くなっていた。赤く熱かった手も白く冷たかった。ヘルパーさんに顔と手だけ拭いてもらった。もう体を拭くために動かすのが怖い。
11時頃、呼吸が浅く荒くなってきた。胸も肩も動かなくて喉を動かしていた。見たことのない苦しそうな顔をしていた。看護師さんが来る時間と今出来る処置を聞いて痛み止を入れてあげた。看護師さん達が来て、薬を注射して胸の音を聞いた。溜まっていた腹水で溢れて酸素が入らない。 苦しそうに目を開いて一生懸命息を吸っていた。荒かった呼吸が段々とゆっくりになり薬が効いて落ち着いてきたのかと思った。手や顔を擦って何度も呼び掛けた。呼吸の間隔があいてきて、呼び掛けてやっと呼吸した。「一人で頑張ってお店を守ってきたんだから誉めてよ」と母が初めて辛かった時間を口にした。一回一回の呼吸が怖かった。何度もお父さんを呼んだ。一瞬眉を寄せて目をしかめて、知っているお父さんの顔になった後、すーっと苦しい顔が平らになり、もう何度呼んでも叩いても息を吸ってくれなかった。いつもの寝顔になっていた。12時過ぎだった。先生がいらして診断した時間が14時56分。
病気がわかった時も、入院中も、一度も取り乱したことがなく、いつも母を心配して頼むよと繰り返してた。わがままも言わずにこやかで看護師さんたちと楽しそうに笑ってた。 9月30日に8時間の手術に耐えて、すぐにリハビリを開始して先生方がびっくりするぐらい好調だった。縫合不全で入院が延び、2か月後に退院して翌日から仕事を始めた。19日後に食事が取れなくなって再入院、再発、転移と告げられ、12月26日から抗がん剤治療を始めた。副作用も少なく順調だった。
手術跡もきれいになり、順調に治っていたはずなのに。仕事に復帰して75歳までお店を続けるつもりでいた。すぐに退院する気でやりかけで出掛けていた。まさかこんなことになるなんて、私達より、何よりもお父さんが一番びっくりしていると思う。
苦しさが朦朧とした意識に紛れていたらいいな。私達が側にいたことがわかっていたらいいな。
今はまだ、ただただ信じられない。明日、23日静かにきれいなお顔をして寝ている父を最後にお家から送り出す。24日明後日に帰ってきたらもういないんだよね。
たくさんお顔を見て撫でてあげないと。辛かったでしょう、苦しかったでしょう、本当に頑張ったね。お疲れ様でした。
小学校以来に父と手を繋いだよ。わかったかな。
66歳、早すぎだよ。もっとお父さんの誕生日プレゼントを買ってあげたかったよ。