水の中で我とはなにか考えた話 | LIZABSTRACT

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以前にも書いたが、中島敦が好きだ。

悟浄出世と言うのを読むと

西遊記の沙悟浄が元は河童では無い事を知る。

 

 

 

動物は自分探しをしたりしないだろうけど

妖怪というものは「我」を探したりする事があるらしい。

流沙河りゅうさが と言う河は西遊記に出てくる河の名で

チベットのラサにも四川省にも

同じ名の河があるけれど、

どことも特定できないようだが

流沙の沙を苗字として沙悟浄なのかな?

河童という解釈は日本だけらしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西遊記』(さいゆうき、繁体字: 西遊記; 簡体字: 西游记; 拼音: Xī Yóu Jì; ウェード式: Hsi-yu chi; 粤拼: sai¹ jau⁴ gei³タイ語: ไซอิ๋วベトナム語: Tây du ký)は、中国16世紀の時代に大成した白話小説で、唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空猪八戒沙悟浄を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。

 

沙悟浄は西遊記では神仙だった。

中島敦の悟浄出世では元は「冴えない妖怪だった」

 

 

 

「文字はとうとばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの語彙ごいははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。 」

 

何度読み返してみても

中島敦の作品には驚愕の気づきがある。

 

 

 

考古学でも日本で文字がいつから使われていたのか?

という問題が超重要案件として取り扱われる。

しかし、天啓の民たちがかつて旧約聖書を文字とせず

口頭で伝えて来たように、

神の名を頭文字で記し、神の名をみだりに

呼んではならなかったので、読み方を

忘れてしまったように。

「文字はとうとばれなかったが、しかし、

思想が軽んじられておったわけではない。」

という状況は、古代の天啓の民にも

日本の古代の人々も共通する部分があるような気がする。

 

 

だが、ふとこんな事を思い出した。

 

 

 

塙保己一という検校が居て

有名な話では、サリバン先生がヘレンケラーに

「塙保己一のようになりなさい」と言ったと言う

大変な秀才です。

この人が、縄の結び目で文字を表すことは

日本にはかつてあって、

それを塙保己一が解読していた。という

話を聞いた事がある。

 

 

 

 

 

九十九里浜の網小屋に

その有結網があったと言う。

この元ネタの文献にまだ辿りつけないの

ですが、だとすると

もしそれを解読できたら

縄文土器に書いてあることが

読めるかもしれないとか、

色々な発見に繋がるのかもしれません。

しかも 群書類従 だと言う事はわかっている。

 

 

 

 

 

 

 

塙保己一の頭脳はどうなっているんだろう。

盲目でありながらこの能力、この情報量。

現代人は劣化していると認めざるをえない。

 

 

まだ誰も解読していない網の結びに依る

文字が実は日本には古代からあるのか?

もしかしたら盲人や一部の特殊任務の役職や

検校たちの間だけで

秘密裡に使われていた文字や暗号が

あったとも考えられる。

網なら手で触って理解しやすい。

 

 

 

 

 

手で触って形態を確認する事の無い健常者には

その網は読めないかもしれない。

欠けた機能でこそ理解できる

特別の機能が働く瞬間がある気がする。

 

以前ハンセン病を取材している写真家の

ご夫妻がいらして、舌読と言う言葉を

その時初めて聞いた。

視力も指の感触も失われたら

舌で点字を読むのだと聞き

衝撃と悲しみと希望がまぜこぜに

襲ってきた。

 

 

人間はあらゆる機能を使って知識を得ようとする。

ものなのですね。

 

 

 

沙悟浄が何故三蔵法師のお供に抜擢されるかというと

理由は 「元々は天界の役人で捲簾大将けんれんたいしょう

高官であったことから

西遊記における沙悟浄は地位の象徴であると理解される。

中島敦の作品の中では前世が捲簾大将である。

悟浄がかつて天上界てんじょうかい霊霄殿りょうしょうでん捲簾けんれん大将を勤めておった

中島敦の作品中では前世のことなので

実際の地位とは無縁となっている。

 

悟浄は観音菩薩に大抜擢されて

いや召命されるのだ。

西遊記のこの部分。

キリストがシモンを召命する場面を連想させる。

お前を人間を捕る漁師にしようとは言わないが

天竺に経典を取に行く取経者のお供に任命される。

 

「今年の秋、この流沙河りゅうさがを東から西へと横切る三人の僧があろう。西方金蝉きんせん長老の転生うまれかわり玄奘法師げんじょうほうしと、その二人の弟子どもじゃ。とう太宗皇帝たいそうこうてい綸命りんめいを受け、天竺国てんじくこく大雷音寺だいらいおんじ大乗三蔵だいじょうさんぞう真経しんぎょうをとらんとておもむくものじゃ。悟浄よ、なんじも玄奘に従うて西方におもむけ。これ爾にふさわしき位置ところにして、また、爾にふさわしき勤めじゃ。 」

 

 

 

 

ではやはり

冴えない妖怪のその

病ゆえの大抜擢だったのかな?

 

 

中島敦が悟空でなく猪八戒でなく

沙悟浄を描いたのが不思議だったけど、

実はこの観世音の召命

を描きたかったのではないかと、

私は思ってこの話を読んでいる。