阿加流比売神 は玉は赤いのか白いのか | LIZABSTRACT

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まだ 今のような 国 の認識が
無かった頃の話し。

新羅や伽耶を「朝鮮」と
倭国を「日本」と型にはめずに
もっと自由に人々が行き来したり
あるいは国や国境の概念が薄かったり
現代と全く違った頃の出来事を、
あまり現代的な政治的配慮に縛られずに
当時の真実を求めたいと言うことを、
近年の考古学者や歴史家が
ジレンマの中から模索し始めている。


そういったことを前提に書くことにする。
読者の皆様は、「現代的な日本や韓国、北朝鮮、中国」と
「新羅、伽耶諸国あるいは任那、百済、などの古地名」を
現代の概念と切り離して考えて頂くと読みやすいと思うので
ご配慮をよろしくお願いいたします。


私の今の認識では
『古事記』は不比等作であったように思えている。が
それと反して不比等ではないのかも?と
思う疑問点がある。

『古事記』では阿加流比売神 は赤玉から化身する。
これは日本の日の丸を意識しているように思える。

日の丸はいつからあるのか
一説には武田信玄の頃だと?

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世界中で歴史的に太陽が赤で描かれることは少なく、

太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが

一般的である[5]。

日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことは一般的ではなかったと思われる。

例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描か

れているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。

第42代文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に

日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、

神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、

この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが

確認されている。また世俗的にも『平家物語』などの記述などからも

平安時代末期の頃までの「日輪」の表現は通常「赤地に金丸」で

あったと考えられている。

赤い真円で太陽を表現する例としては、古くは漢時代の帛画にある

(上記の日像幢と同様、内側に黒い烏を配するもの)。

日本では法隆寺の玉虫厨子背面の須弥山図に、赤い真円の日象が

確認できる。これは平安時代の密教図像などにも見出される表現であり、

大陸から仏教とともにもたらされた意匠であろうと推測される。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%9B%BD%E6%97%97

 

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時代が合いません。

もうひとつ、以前忌み言葉というのを少し調べていたのですが、
平安時代の和歌などでは、「赤い」と言う言葉が
忌み言葉です。

これはどう消化したらいいのか
ここも消化不良です。

とりあえず先を急ぐので、
ここは宿題「赤い玉と国旗」にして置きます。


一方・・・地名「敦賀(つるが)」の由来の人物と言われる
都怒我阿羅斬等
 http://ameblo.jp/lizabstract/entry-12254947452.html

 

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述がある。

都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、

牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、

その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主は

この牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。

都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている

白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい

娘になった。

都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、

目を離したすきに娘はいなくなってしまった。

都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。

娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、

豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇

 


天日槍が阿加流比売神を正妻としたのに対して
都怒我阿羅斯等は妻がすでにいる。


牛は役人に食べられてしまった。
「牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を」
持ち帰って寝床に置いた。

天日槍が阿加流比売を高貴な女性として
然るべき身分を与えた扱いをしたのに対して、
都怒我阿羅斯等は妻帯の身で娘に手を出し、
妻から娘の逃げた場所を聞くと言う。


ここだけを見る限りでは
古事記の作者は倭人であるか
倭国に対して尊敬を持っている人物です。

対して都怒我阿羅斯等の意味は、
「新羅や加耶の最高官位「角干(スプルカン)」を
訓読みしたことに由来するとする説が有力」
とあるように、新羅や加耶の高官であり、
『新撰姓氏録』では、出自は任那国主または任那国人。


『日本書紀』
「崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が
船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着した。」
都怒我阿羅斯等は娘を追って東方の国に渡って?
妻帯しながら娘を追ってきてしまったのだろうか?
任那国主と言う身分ならば、そんなこともできたかもしれない。

「垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱
(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した
(任那(弥摩那)の語源)[1]。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、

これが新羅と任那の争いの始まり」

 

これを簡便に言い換えると、
「崇神天皇の時、任那国主つまり伽耶の首長がやってきて
倭国と国交を持とうとし、天皇と謁見した。」

こういう事のように思う。
白い石の少女は口実ではないだろか?

現代的に言うと
「東京ディズニーランドに行きたかった。」と
いうような言い方が当てはまるのではないか?
目的はディズニーランドかどうかは今はまだ謎である。


「天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされているが、
これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に

割り当てられたに過ぎないとされる」

Wiki 都怒我阿羅斯等より


任那と言うのは日本側から言う呼び方で、
朝鮮半島の人は任那を好んで使わずに伽耶と言う。

現代的に言うと 日本海 と 東海 の
呼び分けのような感じだが、
面白いのは、崇神天皇の時代に日本海側の敦賀一体と
任那を天皇と伽耶の首長がコンドミニアムのように
統治していた可能性があることである。


古代に朝鮮半島の南で縄文土器が焼かれた形跡がある。

古代には国境と言う概念がもっと希薄で、
それはそれで主張しあわない利便性があるような気がする。

 

 

伽耶の王子が日本海側の土地にやってくるというのは

わかりやすい上に、小国故につきあいやすいと言う面も

あるように思う。

しかも文化的にも技術面でも伽耶は

優れている上に豊かで好戦的でない

穏やかな人々だったようだ。

 

敦賀に多くの移民を受け入れたのも

日本海を挟んで良い関係を築いてこれたのだろう。

 

 

そして今日の題名。

 

阿加流比売神 は玉は赤いのか白いのか?

 

私は白かったと思う。

 

白と言う字の元の意味は骸骨の形を表し

白骨の色が白いからだと言う。

 

白と言う字の方が異界の者のような気がする。

 

赤でないと思われる事は、先に述べたが

宿題「赤い玉と国旗」については

古事記が不比等が書いたものを更にどこかで

リライトした可能性を考えている。

 

それについても機会があれば考えてみたい。