私は小学生になりました。姉も中学生に進級しました。
学校は私立の女子校でした。ここは姉も通っていて、お受験戦争とはあまり関係ないようなのんびりとした学校でした。
私はよく泣く子でした。なぜなら、そうしたら周りの人が振り向いてくれるから。もちろん最初は優しくしてくれた皆も回数を重ねる毎に離れていきました。そして虐めてくるようになりました。無視したり、ごっこ遊びで虫という配役をさせられたこともあります。私の母は一度も私の迎えには来てくれませんでした。姉の時には出席していた学校行事にも私の時には来ませんでした。「同じことを2度やって何が楽しいの」と母は言いました。
学校では、私は劣等生でした。宿題はやってこない。机の中はぐちゃぐちゃ。周りと同じように動けない。先生から怒られてもできない。大人になってADHD/ASDを疑いましたが、カウセラーから「小学校低学年のうちは家族の支援があって成り立っているものだから、ひとりでやろうしていた時点でおかしかった」と言われました。突然暴れる父もパチンコに入り浸る母も常に家にいなかった私には安全基地は存在せず、ただ怒られに学校へ行き、皆の前で怒鳴られるのでした。誰も親が原因とは言わない。全て私の責任。ただ私の自尊心だけが崩れ落ちでいきました。お弁当もなくて、いつも購買でパンを買い、友だちにこれ以上バカにされたくなくて、休み時間にほうばりました。お金は時々帰ってくる母にもらえました。
小学3年生のとき、父と母は離婚しました。原因は父の暴力と浮気でした。原因はどうであれ、私は安堵しました。これ以上家族がぐちゃぐちゃにならないことに。ひとつの輪になるように。父は静岡の実家に帰り、私たちは母と学校の近くに引っ越しました。
小学校3年生のときに宿題が毎日出せないこと、どんくさいことに腹を立てた担任に目をつけられ、私は毎日皆の前で怒鳴られていました。
そのような中で、3学年のひとりひとりが植えたひまわりとホウセンカの鉢がベランダに置いてありました。水を上げてから下校してくださいと言われ、でも私の鉢はどこ見ても見つかりませんでした。それを先生に報告すると、「探して見つかるまで帰せない」と言われました。私はひとつひとつ確認して、2度も3度も確認して、それでも見つからないと、泣き出しそうになっていました。そのような時、排水溝の影に私の鉢が捨ててあるのが見えました。私はショックよりも帰れることに安堵しました。それを先生に報告して、私は帰りました。皆がひまわりやホウセンカの成長記録を書く中で私は白紙でただ座って45分を過ごしていました。そのうち学校に行くのが億劫になりました。しかし母はそれを許しませんでした。車で学校まで連れていかれ、それでも降りないと、心霊スポットに連れていかれたり、山奥に放置されたりしました。学校で上手くいっていないことを親に相談できませんでした。自尊心が育っていない私には「あなたにも非がある。あなたの責任」と言われることが怖くて、私は全てを隠していました。進級して、担任が変わるといびられることもなくなり、私は学校に行けるようになりました。
少しづつ宿題が出せるようになり、友だちが出来るようになり、防火ポスターでは入賞をするくらい私は着実に成長していました。怒られる頻度も減って、自尊心が芽生え始めました。
時折父が新しい家に来ることはありましたが、前より暴力は少なくなり、警察にお世話になることもありましたが、そのような事は日常茶飯事だったため特にうろたえず、私は小学校を卒業しました。