子供の不登校をきっかけに、


人生の目的についてあらためて考える機会を与えてもらいました。



日々忙しくしていると、


目の前の出来事に気を取られうっかり忘れてしまうものです。



私は数年前から瞑想して心を鎮める時間を持つことを日課にしていたので、


目の前の出来事に対して反射的に反応して慌てふためくよりも、


ある程度のことならばひと呼吸おいて物事を俯瞰して見れるようになっていました。



それでも最初はどうすればよいのだろうと戸惑いました。


いつまで続くのだろうという不安も出てきました。



心がザワザワモヤモヤして得体の知れないしんどさを感じるとき、


目の前で展開している出来事やモヤモヤの感情を一旦脇に置いて、


視野をぐっと広げ人生の目的について考えてみることをおすすめします。


なぜなら自分の人生においてあまり重要ではない事柄でモヤモヤしている場合が案外あるものだからです。


もしそうならば、


自分にとってもっと重要なことに意識を向けるようシフトするだけでもモヤモヤはほぼ解消するので、


人生の目的についてあらためて明確にすることはとても有効な手段だと思っています。



私の目的は何?


ゴールと言い換えてもいいかもしれません。


自分に問いかけます。


瞑想して自分の内側に入っていくことを意識した生活をすでに何年も送っていたので、


自分自身と対話することは私にとって難しいことではありませんでした。



私の目的は、


「心豊かに幸せに愛を持って自分を表現しながら自分軸でいること」


これが出てきました。


これが最高、こうありたい、この状態でいられたら毎瞬ゴールと思ってます。



その目的を果たすための手段は?


・自分の奥にある本音に耳を傾けること


・自分と家族の心身の健康と幸せを最優先すること


・自分も他人もどんな状況もジャッジしないこと


・今目の前にある幸せを感じ尽くすこと


・他人の目にどう映ろうとも自分がしっくりくる道を進むこと


が出てきました。



学校に行きたくないと身体がNOサインを出している娘を無理に学校に行かせようとすることは、


私の人生の目的を果たすための手段ではありません。


娘の心身の健康的と幸せが最優先なので、


完全に真逆です。



それよりも、


「今日も生きていてくれてうれしいな


笑顔がかわいいな


いてくれて幸せだな


私の心をこんなにも豊かな愛でいっぱいにしてくれて感謝しかないな


生まれてきてくれてありがとう


無限の可能性を内に秘めて今日も呼吸して生きているだけでもすでに大成功だし、


そう感じている自分が今ここに存在していることにも感謝の気持ちでいっぱい」


という幸せな感情のほうにフォーカスしていこう。


これが自分にとって一番しっくりくる手段に思えました。



今日何をどれだけできたとかできなかったとか、


そういったことと全く関係がない次元に意識を置く感覚です。


なんならもうすでに毎日目的果たしてるな、とさえ思いました。



これをはっきりさせてから一気に肩の力が抜けて楽になりました。



自分の人生の目的に影響がないのだから、


なんなら目的はすでに果たしているのだから、


目の前のことを問題視してこの状況を何とかせねばと躍起になる必要はない。


問題視しないならば問題は存在しないので、


少なくとも今この瞬間においてはこれでいい


と自然に現状を肯定するようになりました。



そして明日は登校するのかとか


勉強遅れちゃうーとか


このままいったら将来どうなるとか


そういった不安と恐怖と苛立ちの原因にしかならない思考を手放しました。



学校にさえ行かなければ元気、


という分かりやすい娘の姿も道しるべになりましたね。


学校に行かなければ元気なのだから学校以外で学習すればいい、


と思えました。



人生何ごとも抵抗しようとしたり、


何とかせねばと戦ってしまうと苦しくなりますが、


冷静に考えてみるとそもそも抵抗する必要などなかった、


っていうことが大半のように思います。



私にとって娘の不登校は、


解消しようと戦う対象ではなく、


すっかり当たり前になっていた日常の幸せに気づかせてくれたきっかけでした。


大切なギフトをもらった感覚です。


本当に幸せなことだと思ってます。



親子共々健康で何不自由ない身体があり、


おかげで愛する娘の成長を見守ることができ、


触れることができ、


大好きだよと伝え合うこともできる。



もっと言えばそもそも命がある。


だからこそ幸せを感じる体験ができるわけで、


今この瞬間命があることにも感謝が湧いてきます。



娘の不登校を経験していなかったら、


今ここに生きてるだけですでに十分素晴らしいと心から実感する究極の幸せは味わえなかったかもしれません。


大病でもして余命宣告されない限り気づけなかったんじゃないかと思います。



不登校から命の話にまで飛躍するの?って思われるかもしれませんが、


私はそう思っています。



りょう