2016年2月28日(土)先負
今日は、2月最後の日、と思いきや、今年は閏年。29日まである
。
さて、最近、学問体系なるものを考えている
。(久しぶりの更新になりましたが、年末、年度末に加え、こんなことを考えていたので、時間がなかった、、、あしからず
。)
そもそも人が学問を学ぶ意味とは何か
を考えたとき、自分に知らないことがあると意識し、その知らないことを知ろうとする、ことにつながるのではないだろうか
と思うのです。このことは、ギリシアの哲学者ソクラテスが言っている、無知の知、につながるようです。ソクラテスもこの無知の知について指摘している。そして、そのことを知ると、謙虚に人の話を聞くし、学ぼうとする、ということが言われているようです。でも、この指摘は、どうやら耳障りがよくない言葉のようです。それは聞く人によっては、人は弱い、と指摘していることにもつながるらしく、なかなか難しいものだとも思う
。しかし、ここに対峙する姿勢を乗り越えると、学ぶ姿勢ができてくるのかもしれないとも思った。(当初、この意味は、足るを知る、なのかなーと思っていたのですが、調べてみると、その言葉は分相応、ということにつながるらしく、ちょっと違っていた。思い違いというものはあるもので
)
では、その無知の知を知る手法としてどんなことが考えられるか
最近、いろいろな失敗(社会的失敗や個人的
失敗)について考えてみた。そして、それをベースとした学問の形である
。これは、こんな失敗、などと考えると、なぜそれを失敗だと思う
と考える。その答えが少しでも見えてきたら、また、なぜそれを失敗だと思う
と考えることの繰り返しである。すると、残念ながらこの失敗という言葉には、ネガティブなイメージが強く、どんどん暗くなる(苦
)ちょっと、嫌になる
。これは、あまりよくないなーとも思う。ので、このやり方をポジティブに考える形に持っていくことが必要なんだろうなー、と思う。そこで、このやり方のいいところを考えてみた。それは、この、なぜ
なぜ
を繰り返していくと、行動する、ということにつながることである。最近思うことは、最近の若い人は、何でも知っている、という考えをもっているのではないか
ということである(これは、無知の知を知らないことになる、、、あしからず。)というのは、疑問点が浮かぶと、すぐスマホで調べる。それで、スマホで出てくることが真実のように捉え、それを信じ、自分で現場で確かめるところまでは動かない、という傾向があるように感じるのです。ここからは最近の個人的な研究の形なのですが、フィールドワークと称して、現場に赴かせることが多くなっている。その中身は、その現場で聞きたいことを考えさせ、現場で確かめる、ことをさせる手法です。この手法の面白いところは、スマホで調べた常識的なこととは異なる答えが見えてくることにあります
。このことは、過ぎたるはなお及ばざるがごとし、の状態なんだろうなー、と思うのです。たしかに、最近の情報は、相当な勢いで増加しています。スマホで検索すると、調べたい情報のほとんどは出てくるような状態です。でも、そのために、行動しない、という悪循環が生まれてきているような気がしているのです。そして、行動しないために、その疑問に対する答えの本質に届かない、ということがありうるということを感じるのです。もしくは、知らないことに気付かないという状態に陥ることです
。たしかに、スマホの情報は、失敗の可能性を軽減させます。人は失敗を恐れます。が、本質に届かないことの弊害は、間違いを生み出す、ことにあるのだと思うのです。でも、その弊害は、スマホで確認されているので、間違いかどうかさえ気付かずに、また学ぶことをせずに過ごしてしまうことになってしまうのではないか、と思うのです
。その結果、より大きな失敗につながる
。
これからの学問の形は、まさに、現場で確かめることに重点を置いた形で進めていくべきなんだろうなーと思うのです。人は弱いものだということを前提に、なんでも知ったかぶりをしても意味がなくわからないことはわからないと言える雰囲気の中、謙虚に現場で確かめる。聞く耳を持つ
。私たち人類の学びは、自然と対峙した時に、人類が生き延びるための知恵や工夫を蓄えることにあるのだと思うのです。その知恵や工夫は、スマホの中にあるのではなく、現場の中にあるのだと思うのです。(というのは、自然は、常に変化しているからです、、、あしからず
。)こんなことを考えながら、これからも謙虚に学び続けようと思うのでした。
。。
今日は、2月最後の日、と思いきや、今年は閏年。29日まである
。さて、最近、学問体系なるものを考えている
。(久しぶりの更新になりましたが、年末、年度末に加え、こんなことを考えていたので、時間がなかった、、、あしからず
。)
そもそも人が学問を学ぶ意味とは何か
を考えたとき、自分に知らないことがあると意識し、その知らないことを知ろうとする、ことにつながるのではないだろうか
と思うのです。このことは、ギリシアの哲学者ソクラテスが言っている、無知の知、につながるようです。ソクラテスもこの無知の知について指摘している。そして、そのことを知ると、謙虚に人の話を聞くし、学ぼうとする、ということが言われているようです。でも、この指摘は、どうやら耳障りがよくない言葉のようです。それは聞く人によっては、人は弱い、と指摘していることにもつながるらしく、なかなか難しいものだとも思う
。しかし、ここに対峙する姿勢を乗り越えると、学ぶ姿勢ができてくるのかもしれないとも思った。(当初、この意味は、足るを知る、なのかなーと思っていたのですが、調べてみると、その言葉は分相応、ということにつながるらしく、ちょっと違っていた。思い違いというものはあるもので
)
では、その無知の知を知る手法としてどんなことが考えられるか
最近、いろいろな失敗(社会的失敗や個人的
失敗)について考えてみた。そして、それをベースとした学問の形である
。これは、こんな失敗、などと考えると、なぜそれを失敗だと思う
と考える。その答えが少しでも見えてきたら、また、なぜそれを失敗だと思う
と考えることの繰り返しである。すると、残念ながらこの失敗という言葉には、ネガティブなイメージが強く、どんどん暗くなる(苦
)ちょっと、嫌になる
。これは、あまりよくないなーとも思う。ので、このやり方をポジティブに考える形に持っていくことが必要なんだろうなー、と思う。そこで、このやり方のいいところを考えてみた。それは、この、なぜ
なぜ
を繰り返していくと、行動する、ということにつながることである。最近思うことは、最近の若い人は、何でも知っている、という考えをもっているのではないか
ということである(これは、無知の知を知らないことになる、、、あしからず。)というのは、疑問点が浮かぶと、すぐスマホで調べる。それで、スマホで出てくることが真実のように捉え、それを信じ、自分で現場で確かめるところまでは動かない、という傾向があるように感じるのです。ここからは最近の個人的な研究の形なのですが、フィールドワークと称して、現場に赴かせることが多くなっている。その中身は、その現場で聞きたいことを考えさせ、現場で確かめる、ことをさせる手法です。この手法の面白いところは、スマホで調べた常識的なこととは異なる答えが見えてくることにあります
。このことは、過ぎたるはなお及ばざるがごとし、の状態なんだろうなー、と思うのです。たしかに、最近の情報は、相当な勢いで増加しています。スマホで検索すると、調べたい情報のほとんどは出てくるような状態です。でも、そのために、行動しない、という悪循環が生まれてきているような気がしているのです。そして、行動しないために、その疑問に対する答えの本質に届かない、ということがありうるということを感じるのです。もしくは、知らないことに気付かないという状態に陥ることです
。たしかに、スマホの情報は、失敗の可能性を軽減させます。人は失敗を恐れます。が、本質に届かないことの弊害は、間違いを生み出す、ことにあるのだと思うのです。でも、その弊害は、スマホで確認されているので、間違いかどうかさえ気付かずに、また学ぶことをせずに過ごしてしまうことになってしまうのではないか、と思うのです
。その結果、より大きな失敗につながる
。これからの学問の形は、まさに、現場で確かめることに重点を置いた形で進めていくべきなんだろうなーと思うのです。人は弱いものだということを前提に、なんでも知ったかぶりをしても意味がなくわからないことはわからないと言える雰囲気の中、謙虚に現場で確かめる。聞く耳を持つ
。私たち人類の学びは、自然と対峙した時に、人類が生き延びるための知恵や工夫を蓄えることにあるのだと思うのです。その知恵や工夫は、スマホの中にあるのではなく、現場の中にあるのだと思うのです。(というのは、自然は、常に変化しているからです、、、あしからず
。)こんなことを考えながら、これからも謙虚に学び続けようと思うのでした。
。。
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