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生い立ち-入社

平成元年、春。


晴れて憧れのDCブランドメーカーに就職。

その会社は多くのブランドを持つメーカーで、
僕はその中の主力レディースブランドを希望していたんだけど
残念にも設立されたばかりのメンズカジュアルブランドに配属された。


しかも「マーチャンダイザー」(企画職)での内定だったのに
修行って名目で「営業職」となった。

不満だった...。



新人研修を経て、いよいよ入社初日。


なけなしの貯金で買った自社ブランドのスーツでバッチリ決めてった。
(何を血迷ったか髪もバッチリ☆リーゼント!)


オフィスは原宿駅からほど近いコンクリート打ちっぱなしの洒落た自社ビル。

予定より随分早く原宿駅に着いたんで、缶コーヒーを買って煙草を一服。

暖かな春の陽と、何とも言えない緊張感が心地良かった。



会社に到着すると早速配属先の営業部オフィスに案内された。


営業部は在庫の詰まったパッキン(ダンボール箱)だらけの、
外観からはとても想像出来ない荒れっぷり...。

しかも同期新人も含め、上司・先輩も全員男!


イメージとはかけ離れたまったく洒落っ気の無いオフィスで
社会人としてのスタートを切ったのでした。



入社当初はキツかった。

営業部の責任者(通称、赤鬼)がメチャクチャ体育会系で、
電話対応なんかで不慣れな敬語を間違えたりなんかすると
容赦なくイスや机を蹴られてたっけ。

いつか本気でぶん殴ってやろうと思ってた...(笑)。


何より配属先ブランドは全く売れてなく、返品在庫との格闘の日々...。

朝から夜中まで商品の検品~出荷を繰り返す毎日。


思い描いてた「クリエイター」なんて夢のまた夢。


それでも家に帰ると配属ブランドをイメージしたデザイン画を書いて
いつか来るであろう部署移動に備えてた。



ようやく営業って仕事にも慣れたその年の秋。

なんと単独での北海道出張を命ぜられた。

目的は既存の卸先店舗への挨拶と新規店舗開拓。



既存の取引先は毎日電話でやり取りしてた事もあり、どこへ行っても歓迎されたっけ。

温泉ランドに連れてってもらったり、昼間っからお寿司を出していただいたり...。
(ちょっとした夜のアバンチュールも!?)


それとは打って変わって新規開拓は過酷だった。


会社の方針だったのか、アポイントを取らない飛込み営業。

時間に追われ、異常に重い商品サンプルを持って北海道中を電車でかけずり廻った。
(かの有名な富良野まで行ったっけ...)


それらしい店舗を見付けたら本社の赤鬼に公衆電話で報告。

店名や外観・立地なんかを伝えGoサインが出たら飛込み。


どこに行っても全く相手にされなかった。


そりゃそうだよな。聞いた事も無いブランドの営業マンが
厳ついリーゼントでいきなり押し掛けるんだから...(まるで相川翔さん...)。


そういえば20歳で社会人になってから30歳位までずっとリーゼントだったっけ。

今思えば時代錯誤も甚だしい男でした。
(ロックンロールやリーゼントに対する拘りは半端じゃ無かったんです)


そんなこんなで、初出張は良くも悪くも思い出深いものとなった。




春になり、待ちに待った後輩が入社(また男!)。

物凄く嬉しかった。


きっと「人を育てる」って行為が当時から大好きだったんだと思う。


自分が教えられてきた事を、自分なりのアレンジと手法で的確に伝える。

相手の理解度を確認しつつ、自分で考えさせながら...。




この頃になると赤鬼のシゴキのお陰か数字に対するどん欲な意識も芽生え
仕事が楽しくて仕方なくなっていた。

生い立ち



両親が離婚したのが、たしか僕が4歳の時だったと思う...。



兄と僕はお袋に引き取られた。


お袋はスナックで働いて僕たち息子ふたりを精一杯育ててくれた。





それでも、とにかく貧しかった。




パン屋さんに捨ててあるパンの耳、
ご近所の玄関から牛乳を拝借し空腹を満たしてた。




空腹を満たすその一身で、小学生の頃から様々なバイトをしてきた。



空きビン集め・皿洗い・土木作業・ビル清掃・引越屋・ティッシュ配り・テキ屋
バーテン・キャバクラのボーイ・カ◯ノのディーラー...。


数え上げたらキリが無い程の職業を体験。
(今思えばそんな経験がメチャメチャ役立ってます)






そして、飽きれる程グレまくった。



何度もパクられ、お袋を泣かしちまった...。




そんな中で僕を変えたのが高校生の頃に出会った洋服の販売という仕事。


地元(千葉)の商店街の小さなカジュアルショップだったんだけど、
洒落た?ブルゾンやジャケットなんかを扱ってて
そのデザインが良くも悪くも衝撃的で...。
(80年代に流行った、そう、吉川晃司さんが着てそうなアレ!)



当時の僕は、毎週日曜日になると原宿の歩行者天国に足しげく通う
ロックンローラーで、吉川さんジャケットがたまらなくダサく感じた。


何せこっちはキャロル永ちゃんヨロシクで
革ジャン・革パン・リーゼントが最高のファッションだったから(苦笑)。



それでも売り場に立てばゴテゴテ肩パットジャケットを
「おつ、似合いますねぇ~」「最高っすよ!」なんて調子良く売りつけて...。



商品が入荷する度「このブルゾン、襟のカタチを変えれば格好良いのに...」

「このパンツ、俺ならもっと違うラインにするんだけどな...」なんて思ってた。





ファッションへの覚醒。





高校卒業出来たら当然「就職」って思ってたんだけど、
気づいた時にはもうファッションの世界にどっぷりのめり込んでいた。



独学で下手っぴなデザイン画を書いたり、嫌がる友達のコーディネートをしたり、
立ち読みで片っ端からファッション雑誌を読みあさり...。



どうしてもファションの専門学校に行きたくて、
あちこちのパンフをこっそり集めてた。





でも、お袋には言えなくて...。






あれは、忘れもしない高校3年生の冬。




お袋が突然通帳を見せて、こう言った。


「アンタが大学に行く事になったらと思って貯めてたお金だから」

「これ使って好きな学校行きなさい」って...。





気付いてたんですよ、お袋。



もう、嬉しくて嬉しくて。





がっつりリーゼントの不良少年も、流石に涙がちょちょ切れた...。






こうして19歳の春、念願のファション専門学校に入学。



地元から東京の学校への通学はちょっと無理があり、
入学と同時に品川の戸越銀座にほど近いアパートで一人暮らしをスタート。


築40~50年は経ってると思われる木造の風呂ナシ四畳半。


家賃は光熱費込みで2万円。


共同ボットントイレの隣で陽も当たらない暗い部屋だった。


それでも、初めての自分だけの城は快適だったなぁ...。



アパートの隣は新築のお洒落な学生向けワンルームマンションで
「いつかきっとこんな家に住んでやる」って、ガキながらに思ってたっけ...。





おまけに学校のクラスメイト達もお嬢ちゃん・お坊ちゃんだらけ。


DCブームにバブルの前兆だった時代ですから。


やれギャルソンだ、やれゴルチェだなんて、毎日がファッションショー状態。



DCブランド社長の息子は家賃20万円の部屋だったな、そういえば。
(そのブランドは数年後に倒産)

俺のアパートの10倍の家賃...。
どんな部屋だったんだろう、一体...。


それに比べて僕と言えば毎日同じボロボロの革ジャンに穴だらけのジーンズ。


どう見ても今を時めくファッション学生には見えず...。



放課後、クラスの皆は毎日のように流行のディスコやカラオケへ。




金のない僕は夕方5時から夜中の2時過ぎまでバイト。


本当は服屋で働きたかったんだけど、飲食店を選んだ。


飲食店は賄いが出るんで腹一杯メシを食えるから...。



帰宅後、風呂が無いからちっちゃな流し台で髪を洗い、
タオルでゴシゴシ身体を擦った。

冬場はヤカンでお湯を沸かして...。



で、明け方まで課題制作...。






「絶対負けねぇっ」て誓ってた。





お袋の大切な大切なお金で通わせてもらってるんだからって、
寝る間も惜しんで夢中で勉強し、がむしゃらに働いた。




そんな甲斐もあってか、卒業制作のファッションショーで見事大賞を受賞。




主席で学校を卒業し、当時流行のDCブランドメーカーに
MD(マーチャンダイザー)として就職。





平成元年の春だった。



ビジネスマンとして、そして、クリエイターとしての出発点...。


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